痛いかどうかは自分で決める

だいぶ前になるが、「失恋の痛みは骨折に相当する」という研究結果が、面白いね、と話題になったことがある。その他にも、いろんな精神的なダメージを脳がどう受け止めているのか、肉体的なダメージに置き換えていて、「いや、それはもうちょっと上でしょ」とか、自分の意見を勝手に言うのが面白かった。

これはもちろん研究だから、平均的な失恋の値を出している。でも実際は、その人との付き合いの深さだったり、年月だったり、依存度だったり、それぞれバラバラなので、一概に「失恋?ああ、骨折ね」とは、もちろん言えない。軽い打撲の失恋もあるし、後遺症が残る程の重篤な失恋もある。

人の心の痛みを数値化するのは難しい。それでも、数値化しなければいけない、裁判という場では「精神的苦痛」に値段をつけることがある。そういうニュースなどを見ると、「意外と安いな」とか「そんなにもらえるんだ」とか、やっぱり勝手な感想を思う。

裁判のニュースというのは、一般的な感覚とかけ離れた「それはおかしいでしょう!」と憤りたくなるような事件の方が大きく報道されてしまうので、裁判なんかで人の痛みが正当に数値化されるものか、と思っていたのだけれど、最近は、そうでもないかも?という想像をするようになった。

第三者が、客観的に、法律に基づいて、痛みを判断するということは、「失恋は骨折相当」のように、平均値を出すのと似ている。個人の体験や偏見になるべく左右されないように、慎重に作業されているものであるならば、個人個人が「それはダメだよね〜」などと無責任に言う感想などよりも、時には真実に近い結論にたどりついているかもしれない。

日常生活では「痛み」というものに対して、なんとなく、ふわっと、個人の感想を含めて「これは痛いよね」「これは我慢できるよね」と、それこそ多数派の一般常識とでも言うような、曖昧な基準が存在しているように思う。

例えば、「いじめ」は「物凄くつらい」という判定で、「空き巣に入られた」は「大変だったね!でも命があるだけ幸い!」というのが、私の感じている世間の判定。

いじめと空き巣を比較することに、何の意味もないし、どちらが上だと言いたいわけでもない。私が気になるのは、その起こった出来事に対して、なんとなく評価が決まっているような、私が勝手に感じとっている「世間の判定」が自分自身を縛っている、ということ。

もしかしたら、空き巣に入られたことで、引っ越しまでしてもその恐怖から抜けられない人もいるかもしれない。また、「いじめは絶対にダメ」という認識を持つ人が多いのは、とても良いことだと思うし、私も全力でダメだと思うが、いじめの被害にあった人の中には、周りの人にものすごく恵まれていたり、本人にも立ち向かったり全力で逃げる技術があったり、多くの幸運が重なって、短い時間で立ち直れた人もいるかもしれない。起きた事象は同じでも、その人の度量と周囲の環境で、景色はずいぶん変わってくる。

だから、起きた事象そのものだけで、その人がどれだけ痛いか、ということは、裁判官でもない他人が決められることではない。

痛いかどうか、我慢するのかしないのか。その判断基準は、どこにあるのだろう?

「つらいな」と思った時に、「いや、でももっと大変な人だっているし」とか「こんなこと、よくあることだし」と、自分をいさめるのは、悪いことではない。でも、一人一人状況が違って、心のレベルというか耐性も違って、環境も違うのだから、「今、ここにいる私がつらいと思っている」ということは自分でそのまま受け入れていいし、他人からも否定されることではない。つらいんだったら、つらくないような方法を探していいし、みんな我慢しているのだから、自分も我慢しなければいけない、ということもない。

自分よりも大変な状況の人が、困難に負けずに頑張っていると、それに比べて私はなんてダメなんだろう、と落ち込む。もしくは、私はまだまだ良い方だ、と励まされる。それは人として自然な感情だと思う。

でも、そこで落ち込んだり、そのすごい人を真似することに意味はなくて、そもそも他人と自分には無数の違いがあって、比較すること自体がとても難しい。

集中すべきなのは、自分は今、何がつらくて耐えられず、何なら頑張れるのか、ということだけだ。それが世間の多数派と違っていても、自分が耐えられないほど痛いと思うならば、その痛みはそこに確実に存在する。

痛いものは痛い。

自分の人生なのだから。痛いかどうかは自分で決めていい。そして、痛いときに痛いと、遠慮なく言える世の中であってほしい。

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