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こどもは自分の病気をどこまで理解しているのだろうか

今まで、ニンタの病気がわかったときの感想や、食事制限に不安を覚える私の気持ちなどをつらつらと書いてきたが、その間、ニンタ本人はどうしていたか。

文章を読んでいると、そこに居ないんじゃないかと思うくらい何も書いていないが、ニンタはずーーーーっと、私の隣か膝の上に居た。あるいは、病室のベッドで添い寝をしていた。そしてかなりの存在感を発揮する手のかかりようだった。

入院が決まったときは幼稚園にも通っていたが、オムツもとれておらず、言葉も遅かった。少し目を離すとすぐに「おかーさーん!」と泣き叫ぶか、あるいは目を覆いたくなるような惨事(コップの牛乳をひっくりかえすとか)がある。気に入らないことがあるとすぐにかんしゃくを起こす。いわゆる魔の2歳児が何年も続いているような状況だったので、私は疲労困憊していた。運動面の発達も遅れていたので、長く歩くことは出来ず、出掛けるとすぐに抱っこ、となり、ベビーカーは手放せなかった。

それでも、人よりぼうっとしていた乳児期に比べ、感情表現ができるようになったのは「成長」だった。療育の先生にも、感情表現のない子にそれらを教えるのは大変だが、感情表現が激しい子に、そのコントロールを教えるには方法がある、となぐさめられたので、最初のうちは「怒れるようになってエラいエラい」と、仏の心で見守っていた。

仏の心でいられなくなったのは、ニンタが幼稚園に入る半年ほど前、3番目の子、ミコが産まれてからだった。

ミコの出産時に立ち合ったニンタは、黙って私がもがき苦しむ様子を見ていたと思う。思う、というのは、当然出産時に他の子の心配などしている余裕はないからだ。とはいえ、騒いだり暴れたりすれば、さすがに気づいたと思うので、おとなしくしていたのだろう。私の母も夫も居たので、オモチャでも与えられていたのかもしれない。3人目ということもあって、出産はそれほど時間もかからず、私も余裕があった。ミコが無事に産まれると、すぐに私の枕元に、上の子・いっちゃんとニンタが近寄ってきて、私は、「赤ちゃん産まれたねー、かわいいねー」、などと話しかけた。いっちゃんは「おつかれさまー、お水飲む?」と枕元にあったペットボトルを渡してくれ、私はそのお水を飲んだ。ペットボトルにはストローが差してあって、寝たまま飲めるようになっている。私が寝たままそのお水を飲んで、また枕元に戻すと、ニンタはキリっとした顔つきで、「こっち置いとこっか」とお水を移動させたのだ。びっくりした。こぼす専門のニンタが、母の水がこぼれないか心配した…?下の子が産まれると、急に大人びた振る舞いをする、なんて話は聞いたことがあったが、ニンタも何かを感じ取っていたことは、ありありと見て取れた。

その後の入院生活は快適だった。ごはんは勝手にでてくるし、母子同室だが、3人目ということで、授乳もオムツ交換も不安はない。あー、ずっとここにいたい!と思う、束の間の休息。そしてもちろん、その休息はすぐ終わる。

ミコと共に退院し、初日から「誕生日だからケーキ作りたい」とか言ういっちゃんのリクエストに答えて泣く泣くキッチンに立ち、どこの家も似たようなものだろうが、3人目ともなると、「産後の肥立ちが…」とか誰も言ってくれない、怒濤の、いつも通りの生活が始まった。

そして、これはまずいぞ、と私が気付くまでに、数週間ほどかかっただろうか。退院後しばらくは、私の母も手伝いにきてくれて、人の手があったので、私はニンタの変化に気付くことが出来なかった。そして、母が、じゃあまた来るからね、と実家へ帰り、いっちゃんも学校にいつも通り登校したある日。日中は、私とニンタとミコ、3人で暮らすことになる。私がミコに授乳をしていると、トコトコと近寄ってきたニンタがじっとミコを見つめーーー何の前触れもなく、グーで思い切りミコの頭を殴ったのだ。「何するの!」私は叫び、ミコは突然のことに激しく泣いた。ニンタは怒られても表情1つ変えず、私は関係ありませんけど、とでもいった様子で、ただそこに立っていた。

発達に問題がある場合、自分の気持ちがうまく伝えられずに、手がでてしまうということは、よくある。私にもそのくらいの知識はあったが、ニンタは決して他の子に手をあげるようなことはなかったのだ。それが、自分の兄弟、下の子となると話が違うのか、ニンタは隙あらばミコを攻撃するようになった。私はおちおち授乳もできなくなり、とりあえず、区役所の「育児でお困りの方はこちらへ」みたいな番号へ電話をかけたのだった。

私が状況を話すと、「新生児訪問にはまだ少し早いですけど、もうすぐお伺いする予定だったので、予定を早めて行きますね」。とのこと。後日、保健師さんが来て、ミコの体重などを計りながら、私の話を聞いてくれた。「おかあさんとしては、手が足りないと。ファミリーサポートには登録しましたか?この番号なんですけど。良かったら、今問い合わせしていただけますか?私、待ってるので」。「育児でお困りの方はこちらへ」のすぐ下にある「ファミリーサポート」の番号にかけるようにすすめられた。なんか、その、手が足りないのはそうなんだけど、1時間800円のファミリーサポートで何か解決することなんだろうか…。そして、ファミサポの人、登録するためにはまず事務所まで手続きに来てくださいとか言ってるんですけど、この2人連れて遠くの事務所まで手続きに行くのって、それだけで気が遠くなる作業なんですが…。そしてやはり、残念ながら、ファミサポでは問題は解決しなかった。そもそも、私の近所に、幼稚園へあがる前の小さい子を預かってくれる人は登録していないという。

こどもが産まれてから助けを探す。泥縄とはまさにこの事だが、私だってまさかこんなことになるとは思わなかったのだ。

次に、私は療育センターに相談をし、「障害児一時預かり」という存在を知る。ニンタとミコを連れて、その施設の見学に行くのも、手続きも、とても骨の折れる作業だった。それでも、このままでは私が倒れるか、ミコが取り返しのつかない怪我をさせられるか、何かが起こりかねなかったので、私は助けを求めてさまよい、2つの施設に登録することができた。日中3~4時間の利用だが、ニンタが幼稚園にあがるまでの辛抱だ。それまでの数ヶ月をしのぐために、この施設はとてもありがたい存在だった。ニンタは施設見学のときも、おもちゃに興味を示したりして、初めての場所でも怖がる様子はなかった。利用を開始しても「行きたくない」ということはなく、楽しんでいる様子で、場所見知り、人見知りが少ないことは、本当に救いだった。

「障害児一時預かり」を利用しておきながら、私はそれでもなお、ニンタは少しずつ成長して、いつか他の子に追いつくと思っていた。ニンタの障害を理解するようになるのは、前述の通り、もう少し先のことである。

家では、家具やベビーゲートをつなげて大きな柵をつくり、リビングを2つに区切った。ミコも徐々に寝返りやずりばいをするようになってきて、唯一の安全地帯、ベビーベッドにいつまでも閉じ込めておくわけにいかなくなってきたからだ。安心して授乳できるスペースも欲しかったし、いっちゃんが宿題をじゃまされずにできるスペースも必要だった。「多頭飼育が無理なタイプ」。とにかく怪我のないように、そしていっちゃんにもストレスがかからないように。この手作り防御柵は、ニンタが落ち着き、ミコも力強く成長するまで、1~2年は使ったと思う。

障害児一時預かりがあろうと、防御柵があろうと、1つ屋根の下で暮らしていることに変わりはない。ミコがオモチャを握って遊んでいれば、ニンタはすぐ取り上げるか、あるいは、柵の向こうから取り上げろと騒ぐか。なんにも遊ばせないぞ、と両手にオモチャを抱えきれないほど確保して、ミコをにらみつける。ミコも成長と共に、徐々にニンタの存在を感じ取り、恐れるようになっていった。

今になっては笑い話だが、ニンタの「カメハメ波」というワザがあった。ミコが何かオモチャを手にとろうとすると、それが気に入らないニンタが「ゥアーッ!」と威嚇するのだ。柵の向こうであろうが、距離が離れていようが、ミコはその威嚇に恐れおののいて、「うわーん!」と泣いてオモチャを手放す。「遠隔でもいじめられるようになっちゃったね」と、私もいっちゃんも、諦観のまなざしでその「カメハメ波」を眺めるしかなかった。

兄弟姉妹のいる方なら、産後に上の子が嫉妬して下の子をいじめる、とか、ケンカが耐えないとか、上の子の宿題をビリビリにされたとか、そういう経験はよくあるだろう。私も、ニンタに障害があるから特別大変だった、とは思わない。でも、ニンタは発達がゆっくりだったので、人より大変な時期が長かったかもしれない。今では、ミコも大きくなり、発達に関しては、ゆっくりなニンタに今にも追いつきそうだ。同い年くらいの感覚なのか、一緒に遊び、ケンカもし、問題なく暮らしている。ただ、あの時代を思い返すと、まるで「立てこもり強盗と、その人質」くらいの力関係があり、ミコの不憫さを思わずにはいられないのだった。

そしてまた。大暴れするニンタに気持ちをやられていたのは、私も同じだった。特に食事が気に入らないとひっくり返されるのが一番こたえた。当時の私は、それがニンタの栄養不足から起こる不機嫌、障害だとはまだ知らないので、怒りで何度も手をあげそうになった。いや、あげたこともある。自分でも自分が抑えられない恐怖で、「手をあげそうになったらとにかくその場を離れよ」の教えに従い、ミコを抱っこして玄関あたりまで離れ、泣きながら児童相談所に電話をかけて、なぐさめられながら気持ちが落ち着くのを待った。

後に、児童相談所は本腰を入れて私を救いに来てくれることになるのだが、こういうタイプの悩み相談は、なぐさめられるだけで、家まで駆けつけてくれるわけではない。それでも話を聞いてもらうだけで、正気を取り戻せることもあるので、その場、その時の危機は回避できるかもしれない。

そのとき、いっちゃんはどうしていたのか。いっちゃんは、親の私が言うのもなんだが、賢い子である。自分の食事は食べ、あとはテレビを見たりして、事態が収まるのを待っていた。いっちゃんが、我が家のこの状況をどう見ているのか、どの程度ストレスがかかっているのか、私はとても気になる。気になるが、とにかく私は自分の能力でできることをやるしかなく、もし、いっちゃんが大人になって「あのとき本当につらかった、おかあさんのせいで、もう世の中に希望が持てない」とか言われたら、土下座して謝るしかない。でも、やっぱりそんなふうにはなって欲しくないので、私の表現できるだけの愛情は惜しみなく伝えていきたいと思っている。それでも伝わらなければ、繰り返しになるが、それが私の能力の限界と、諦めるしかないのだ。

そんな苦難を味わいつつ、待望の幼稚園が始まった。ニンタはまだお友達と遊ぶことはできなかったが、先生と遊ぶことはできた。オムツをしていたが、良いタイミングで誘えばトイレですることもできた。言葉数は少なく、難しい説明はできないが、何で遊びたいとかお水が欲しいとか、簡単な要求は伝えられる。手先が不器用なので、着替えや靴の脱ぎはき、お弁当の準備は1人ではできない。そんな状態ではあったが、週に1度の療育を続けることを条件に、幼稚園の入学は許可された。これで少し平和な時間が増える。私はほっとしたが、幼稚園とは、専業主婦で、こどもが健康で、親もまとも。ということを基本に作られている気がする。専業主婦だけど、こどもに発達遅滞があって、母親がボロボロ。という場合、ちょっと預かり時間が短いというか、親が下の乳児を抱っこしながら参加しないといけない行事が多いというか。助けてもらって文句を言うのは申し訳ないが、これで全て解決、というほど甘くはないのが、我が家の現状だった。

それでも、手のかかるニンタを愛情深く、辛抱強く、面倒みてくれた先生方には本当に感謝している。ニンタは先生と幼稚園が大好きだった。運動会も拙くはあるがダンスを踊り、ものすごく遅いが徒競走もゴールし、ニンタなりに幼稚園生活を楽しんでいた。

だから、私がその後、子育てに限界を迎え、預かり時間の長い保育園への転園を決めた時は、とてもつらかった。最後の最後まで他の方法はないかと探した。転園後もときどきニンタを連れて幼稚園を訪れ、ニンタは元気でやっていますよ、と先生に報告に行ったが、ニンタが小学校にあがる頃には、残念ながら幼稚園で過ごした1年と少しの記憶は、もうほとんどないようだった。

ニンタは忘れてしまっても、私は一生覚えている。幼稚園の先生、おともだち、おかあさん。本当にありがとうございました。あの暗いトンネルに入ったばかりの時、ニンタと私を支えてくれたのは皆さんです。

ニンタのかんしゃくは、幼稚園に入ってからもどんどん酷くなっていた気がする。発作も増えて分かりやすくなり、その結果、合う薬がみつかって、少し持ち直したが、とにかく幼稚園に行っているとき以外は、ニンタの怒りに触れないようにびくびくして暮らしていた。思えば、成長と共に活動量も増えて、ニンタの脳は悲鳴をあげていたのかもしれない。

私は原因を探るべく、スーツケースをひいてニンタと2人で隣県まで検査入院に行くこととなる。ニンタはこの時まだ、新幹線を降りてからターミナルのバス停まで、という数分の距離すら歩くことが出来なかった。大きくなったニンタを抱っこしてスーツケースを引きずるのは、なかなか大変な旅路だ。それでも、ニンタは初めて乗る新幹線に喜んだし、自分で選んだ駅弁は気に入ったようで、ときどきグズグズとなりながらも、なんとか病院に着いた。

病院では長時間の脳波をとると聞いていた。今までは短時間の脳波しかとったことがなかったので、動き回るニンタの脳波をまる2日間もとるなんて、そんなことできるのだろうか?と心配だった。短時間脳波は薬で眠らせた状態で頭に配線を装着し、眠ったまま脳波を見る。ところが、この病院では薬を使わず、起きたまま脳波の配線をすると言うのだ。ニンタがじっとしているはずはないし、絶対無理でしょ、それ、と思ったが、長時間脳波をとり慣れているこの病院では、技師さんも慣れたもので、いやがってグズるニンタをなだめ、ご機嫌をとりながら、なんとか装着を完了した。配線がとれないように包帯で頭をぐるぐる巻きにされたニンタ。多少動き回ることはできるが、必要以外は同じ部屋から出られないし、頭からはコードが出ていてコンセントにつながれたような状態だ。ごはんも寝るのもトイレも、ずっとこのまま過ごす。私も思いつく限りのオモチャを持ち込んだが、ニンタと2人で閉じ込められて、ずっと遊びに付き合うのは、かなりのストレスだった。しかし、1番苦しいのはニンタである。文句を言いながらもこの状況を受け入れ、文句も言い疲れて、うとうと眠る姿は、健気で胸が痛んだ。その後も採血や随液検査など、痛みを伴う検査を、泣きながらすべてニンタはやりきった。

その検査入院で病名がわかったとき、私はニンタに何も説明しなかったと思う。自分のことで頭がいっぱいで、ニンタが先生の話を少しでも理解していたのか、どんな顔をしていたのか、さっぱり覚えていない。退院して、食事制限の入院が決まって、やっとニンタに説明したのではなかったか。「ニンタに病気が見つかったんだけど、それを良くするためには、いろんなごはんを我慢しなくちゃいけないんだって。そのごはんのお勉強をするために、またこのまえ、頭ぺったんした病院に行くんだけど、ニンタ頑張れるかな?」ニンタはそういう難しい話をされたとき、何か大事なことだぞ、という雰囲気だけは感じているように思う。うん、とか、頑張れるよ、とかは言わないが、神妙に、ちょっとはにかんで、でも拒絶の色は見せない。勝手な解釈をすれば、親を信頼して、なんかよくわかんないけど、ついていくよ。という感じかもしれない。私もニンタの意思確認ができないことを申し訳無く思いながら、自分の信じた道をつき進んでいくしかない。

いよいよ本番、ニンタの二度目の入院は、まず、食事制限のない状態で一週間ほどの検査が続いた。糖質制限をしても問題のない体質か確認する(たまにケトンを作る機能が働かない人がいるらしい)。また、今後どのような変化をたどるかを記録するため、糖質制限前の骨の状態や脳の状態も測定しておく。連日検査が続くが、土日は先生もお休みなので、土日はかなりヒマだ。私は最後の土日だからと、外出届けを出して、ベビーカーにニンタを乗せて、駅前まで出かけた。4歳の体にベビーカーはかなり窮屈だ。でも歩けないニンタにはこれしかなかった。「月曜日から、いよいよごはんの勉強はじまるんだって。最後だから好きなもの食べようね」。私はいろいろ迷ったが、ラーメンなら喜びそうだったので、ラーメン屋に入る。ニンタは喜んで食べ、私も写真をとり、思い出づくりに一生懸命だった。その後少し駅前を散策し、最後にドーナツを食べて帰ろうか、と誘うと、ニンタは喜んだが、ラーメンでお腹がいっぱいだったのか、ほとんど残してしまった。最後だから、さあ食べろ、と言っても、そんなに食べられないよね…。私はニンタの食べ残したドーナツを食べて、病院へ向かうバスターミナルに向かった。

ニンタは、ベビーカーに大人しくおさまり、夕暮れの見知らぬ街で、行き交う車を見ている。ベビーカーにストッパーをかけて止まり、私もバス停のベンチに座ると、涙がボタボタとこぼれてきた。となりに座っているおばあさんに、気づかれてはいないだろうか。もし気づいていたら、大丈夫よ、心配しないで、と言ってくれそうな、上品で優しそうな人だったな、と、私は顔を背けながらおもった。大丈夫じゃないんです、ニンタの病気は治らない病気なんです。私は心の中で勝手に答えた。ニンタに知的な発達が残ることも、運動面での苦手が残ることも、ある程度覚悟はできたが、一生好きなものが自由に食べられない、一生我慢をしなくてはいけないということは、どうしたって私の心を苦しませた。もし、私がニンタだったら、とても耐えられないようなことを、私は今からニンタにさせようとしている。涙は次から次から溢れて、私はバスが来るまで、ずっと顔をあげることができなかった。

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