自分を変える努力

自分を変えるヒント

心が変われば態度が変わる
態度が変われば行動が変わる
行動が変われば習慣が変わる
習慣が変われば人格が変わる
人格が変われば運命が変わる
運命が変われば人生が変わる

とてもいい格言ですね。ヒンズー教の教えだとか。ネットで「自分を変える」と打ち込むと必ず上がってきます。

私も正直、なかなか気が利いた格言だと思うのですが、一つ、疑問があります。

理屈としてはわかるのですが、問題は当人が「変わりたい」と熱望しているのかどうか、です。熱望していれば、大抵のことは叶えられるでしょう。しかし、多くの人は「なんとなく変わりたいとは思っているけど、実行できない」「わかっちゃいるけど、やめられない」という状態にあるのではないでしょうか? ズバリ、熱望しているのか、それとも何となく思っているだけなのか。これが「変われるか、変われないか」の違いです。

「東大に行く方法」なんて、そもそも勉強する気がない人にはいくら説いても無駄ですよね。つべこべ言わず、勉強しろという話です。方法ってそれからの話ですよね。

ダイエットなんかもそうですね。まるまると太った人が「私、ダイエットがんばっているつもりなんですけど、なかなか痩せなくて」と言っても説得力ありませんね。私もそうですけど、こういう人はまず、「がんばっていない自分」に気が付かないと、ダメでしょうね。目の前の快楽には負けてしまうけど、その結果を受け入れられないというのはただの我儘ですよね。「我儘な自分」と向き合うというところから始めないと、この人は根本的に自分の行動を変えるということはできないでしょうね。

これは自己評価を自ら評価し直す、という問題で、かなり難易度が高いです。なぜかというと、人間は優秀な人間もそうでない人間も、皆、生まれながらの自然や環境に従って生きていて、敢えて自己評価を変えたいとは思わないからです。「なぜ、自分を変える必要があるのか?」 自分なりに自然に普通に生きてきたはずなのに、何かがおかしい。どうもうまく行かない。そうした時に、ほとんどの人は環境が悪い、と考えます。いよいよ、「最期の審判」がやってくるまでは、そうおいそれとは、自分自身の自然を疑おうとは思わない。それが人間というものでしょう。人は生まれながらに自然に自由に生きていますが、成長する過程で色々な困難にぶつかったり、他人から色々言われたりしてもなぜかはさっぱりわからない、大人になってからようやくその意味がわかる、というのが世の常でしょう。

しかし、それでは手遅れです。なんとか、自分がどう変わるべきなのかを、運命によって思い知らされてからではなくて、覚る方法はないものでしょうか?

あります!

自分が何者なのかを自分自身で明確に判定する基準。それが克己節制です。自分で自分をどの程度律することができるのかどうか。目先のものには手を出さず、我慢していられるかとか、

「わっちゃいるけど、やめられない」と言いますが、これは本当は怪しくて、本当にわかっているなら止められるはずです。頭の上でいくら「タバコは健康に悪い」とわかっていても、実際に健康を害すまではなかなか人はわからないですよね。本当に「毒だ」ってわかっているなら、辞められるはずです。要は「本当にはわかってない」んですよね。

このことは死について考えてみると、どれくらい根深い問題かがわかります。死は誰にでも確実にやってきます。有史以来、死ななかった人、というのはいません。善人にも悪人にも死はやってきますし、誰にでも突然の死はあり得ます。それにもかかわらず、親しい友人が突然癌になっても、健康診断に行く人は少ないですよね。「私だけにはそんなこと、起こるはずない」って思っているわけです。「私だけにはそんなこと、起こってほしくない」という願望がいつの間にか「起こるはずがない」って根拠のない自信にすり替わっちゃってますよね。実際、誰かが死ぬとしても、死につつあるのはその人であって、私ではありません。だから、いくら他人が死んでも、自分自身が死ぬ可能性って、どこか現実感がなくて、考えても仕方ないから先延ばしにしますよね。家族が突然亡くなったりすると、ようやく厳しい現実がわかってきたりする、そういう感じじゃないでしょうか。

そうだとすれば、人間の「わかっている」なんて、少しも宛にはならないです。でも、このことを頭の片隅にいれておくと、少しはものを考えたり、自分を変えようとする動機が生まれてくるかもしれません。なんらかのヒントになれば幸いです。

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