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デカルト『省察』「第三省察」要点・解説

「第三省察」は何を論じているか?

 「第三省察」は「神について、神は存在すること」という副題を持つ。なぜ、神が問題になるのだろうか。それは、神が存在するかどうか、その神が欺瞞者ではないのかどうかを知らなければ、確実な認識には至らない、とデカルトが考えたからだ。しかし、このような考え方は一見して、私たち現代人には受け入れにくい。知識の根拠を神のような不確かで、曖昧な概念に訴えること自体に違和感があり、飛躍していると感じずにはいられない。神の問題は信仰の問題であって、知識の問題ではないのではないか。それが現代人の良識というものであろう。しかし、デカルトにとって魂と神の問題こそが、哲学で問われるべき問題であり、魂を知り、神を知ることなくして確実な知識に至ることは不可能と考えた。
 それでは、いったいなぜ、デカルトは知識の根拠を神に求める必要があったのだろうか。それは物事の究極的な根拠は、それ以上遡って考えることができない絶対的な概念に訴える必要がある、と考えたからにほかならない。私たちは通常、知識の根拠を根本から理解することは棚上げにして、現実世界の中で通用していれば、それ以上不思議には思わない。しかし、この態度がどれほどの誤謬と危険に晒されているかということが、デカルトが「第一省察」で明らかにしたことだった。知識の問題は見ているから在るとか「1+1=2」としか考えられないから確実だといって済ますことはできない。ところで、デカルトによれば、私は様々なことを思い、様々な対象について判断しているつもりだけれども、実際には、断定できることは一つもなく、想像や感覚を含めた一切の思考は「私の存在」を表現しているに過ぎない。これが「第二省察」の結論であり、私たちはこの結論に踏みとどまる限りは確実な道を踏み外す心配はない。しかし、あらゆる思考が私の存在を表現し、それゆえ一切の思惟は私の様態であるという認識だけでは、私が思考しているところの当の対象について何か確実なことが認識できるかどうかは導かれない。したがって、私の実在以外の対象について、確実な知識を得るためには、コギトの認識だけでは不十分なのである。たとえば「1+1=2」であるとしか考えられないが、なぜそうなのか、という必然的な根拠は把握できない。確かに、この必然性について私は何ら把握できなくても、私が考えている限りは私は必然的に存在する。しかし、だからといってこの根拠について全くの無知のままであっては、「1+1=2」は真である、と主張することもできない。それゆえ、すべてを疑いつつ、私自身が実在することが確実だと知られた今、この知識の必然性の根源を探求しなければならない。すなわち、デカルトが「第三省察」で企てているのは知識の根源的な理解を可能にする絶対的他者の洞察である。デカルトにとっては、このことが神の問題だったのである。

「神の存在証明」とは何か?

 それでは、神とは何か。神は存在するのだろうか。しかし、そもそも「神の存在証明」という発想そのものが現代の私たちからすれば怪しい。なぜなら、神ほどその存在が確かではないものはなく、仮に存在したとしても証明できないというのが現代人の考えだからである。確かに、神という言葉はどの国にも存在するが、実際に神を見た人はいない。いや、もしかするといるのかもしれないが、「神はこの人です」といって誰にも明白なかたちで指し示すことができない。それが可能であったら、神の存在は信仰の対象ではなく、アメリカ大陸が存在すると見做されるのと同じ程度の自明さで現に知識となっているはずだ。また、「誰が神か」という問題は、宗教によって意見は様々で、論争はいつまでたっても決着しない。挙句の果てには「信仰の自由」を盾に、互いの正義を主張し合う。信仰は相対化されねばならない。しかし、信仰は絶対を主張する。最初からコミュニケーションは成り立たない。話し合いの可能性を放棄して、相手の自由を果たして尊重できるだろうか? なぜ、こんな事態になってしまうのか。それは、そもそも神が存在しないのに、各々が勝手に「これが神だ」と主張して譲らないからではないか? 神の存在は極めて不確かなので、その本質についての意見も決して一致せず、いつまでたっても争いが終わらないのではないか? 多くの現代人はこう考えるのではないだろうか。
 しかしながら、デカルトからすれば事態は全く逆である。デカルトからすれば、他の事物とは異なり、神はその本質から必然的に存在する。そして、神はそもそも存在が確かめられてから、その本質について云々されるような筋合いの存在ではなく、むしろその存在に先立って本質がまずもってを通して議論されねばならない最たるものなのである。実際、「神とは何か」が分かっていなければ、何か神らしき存在に出会っても、それが神だとはわからないだろう。ところが、私たちは往々にして、神の本質について曖昧な洞察しか持たないまま、迂闊にも何かを神だと即断してしまいがちである。これでは意見が噛み合わないのは当然だ。それゆえ、「神とは何か」という問題を抜きに、神の存在を議論しても虚しい。しかし、感覚を通して予め何らかの知覚情報が与えられているものについてその本質を問うことはできるが、存在することがそもそも自明でないものの本質を問うことが果たしてできるのだろうか。
 これに関して、デカルトは「第三省察」で神の観念から神の存在を結論している。デカルトによれば、神の観念は感覚によって得られるものではなく、経験に先立ってアプリオリに万人のうちに予め置かれている観念である。それゆえ、神の観念の考察から神の本質を洞察し、その存在を検証することが可能である。神の存在証明とは、神の観念を考察することを通して、神がそもそも存在に値するのかどうか、その本質からして必然的に存在するのかどうかを検証しようとする不遜な試みなのである。「第三省察」における神の存在証明は、二通りの仕方で行われている。第一に、私が持つ観念のうち、私から由来することがあり得ないほど大きな実在性を表現する観念は神だけであり、それゆえその観念の原因として神は存在する、という証明、第二に、神の観念を持つ私は実際に神が存在するのでなければ存在し得ない、という証明である。いずれも「神の観念」がキーワードになっている。

参考①:「神の存在証明」はナンセンス?~カントの「神の存在証明」批判

 ドイツの大哲学者カントは「神は存在するか、しないか」といった問題に人間は純粋な理性的洞察によっては答えられない、という主張を『純粋理性批判』において展開した。詳細はここでは割愛するが、カントの主張は「人間が理性的存在である」という本質に根ざした衝撃的なものだった。つまり、カントによれば、人間は理性を持った存在であるからこそ、この問いに答えることができない。理性とは、物事の根拠を推論し続ける能力のことだが、理性は容易に経験から乖離し、物事の究極根拠を推理し続ける。たとえば、「世界はビッグバンによって始まった」といっても、理性は「ではビッグバンは何によって始まったのか」と問わざるを得ない。しかし、この問いは経験によって答えることのできない問いである。そこで、理性は経験(現象世界)から離れて自分自身の原理のみによってこの究極原因を説明しようとするのだが、カントによればこの企ては必ず失敗する。なぜなら、経験を離れてしまえば、結局理性はどんな主張も(神は存在する、ともしない、とも)行うことができ、必然的に自己矛盾に陥ることになるからである。カントに従えば、神も理性の終わりなき推論によって生み出された究極概念である以上、それについて実在を問うことはできない、ということになる。
 確かに、カント以降、いわゆる「神の存在証明」の議論は哲学史の表舞台からは姿を消す。「神が存在するか、しないか」という問いはカント以降、一般に信仰の問題(神を信じることは妥当か、という問題)と看做され、理性認識の問題としてはナンセンスなものと看做されたのである。しかし、純粋理性の限界を現象によって限界付けようとするカントの議論は、まだ十分に決定的な解決とはいえない。なぜなら、カントは「根拠を求める理性の活動が現象を超えると自己矛盾に陥るから」という理由で理性の限界を画定したが、そうしたカントの批判哲学の立場そのものは現象の外部に立って言わば形而上学的に決定されているからである。しかし、本来の問題は、そうして現象を踏み越えて根拠を推論し続ける理性が如何にして、一切の経験に依存することなく、自分自身の限界に気づくのか、という自覚の問題であったはずである。この問題はカントによって十分に吟味されているとは言い難い。実際、絶対者について、純粋な理性的洞察が可能でないとすれば、カントがそうしたように実践的な信念のレベルで検証されるほかはない(『実践理性批判』)。また、カントに従えば、理性はどこかで理性の外部に拠り所を持たなければならないことになるだろう。しかし、これは理性的洞察を唯一の試金石とする、という哲学の元来のポリシーに反する。特に絶対者についての理性的洞察を抜きに、哲学を済ますことはできないだろう。
 デカルトは理性は絶対者についての何らかの確実な知を持つことが可能だとしており、自己の限界を理性のみによってアプリオリに知りうるとしている。つまり、カントの批判哲学の意義は十分汲まなければならないとしても、デカルトの神の存在証明の意義が否定されたかどうかは、まだ決着していない。

「内なる観念」から「観念の外」へ

 それでは、デカルトは「第三省察」で神観念を如何に獲得し、また存在証明を如何に問うのだろうか? デカルトの戦略は驚くべきものだった。デカルトは私の思考を「私の思惟の一部」としてのみ捉える境地から、私の思考を観念として捉え直すことで、神についての論証を可能にする。デカルト的観念とは事物の像である。なぜ、事物の像なのか。それはあらゆる思考は私の思惟の一部であるという意味では違いはないものの、何かを思考している限りその対象が何であれ事物のように対象を表象するからである。デカルトは、明晰判明な認識が私にとって真であり私自身が実在することは動かないので、観念も無からは生じることはあり得ず、観念の原因として私か私以外の他者が実在していなければならない、と「第三省察」で論を展開する。そしてある観念において表現されている実在性が私の実在に還元し得ないほど凌駕していれば、その原因として他者が実在していなければならないこれがデカルトの神の存在証明のシンプルな骨格である。
 順を追って考えてみよう。「私が考える」は私の実在を表現すると見做される場合においてのみ確実である。これが「第二省察」で得られた知見であった。実際、私の思考が私の実在しか表現し得ないとすれば、あらゆる思考は「私が実在する」という以上の確実な意味を持ちえないことになる。ある思考において、それが私の実在以外の意味を持つためには、そこにおいて私の実在には決して還元され得ないような何かが表現されねばならない。それでは、何によってこの実在性の水準の理解が得られるのだろうか。それはコギトの発見と同様、徹底的な懐疑によってである。たとえば、確かに私は「2+3=5」であると明晰判明に観るとしても、真なる神の観念を得ないうちは、言い換えれば私自身の能力の限界を正しく知らないうちには、私にまだ知られていない能力があってそれによって「2+3=5」だと定めているにすぎず、あたかも神の法則を受け取っているかのように思い込んでいるだけ、という可能性を否定することができないからである。それゆえに、確かに私は「2+3=5」であると明晰判明に観るとしても、それだけでは「2+3=5」であると明晰判明に観ていると思うところの私の実在しか確実と見做すことができない。このため、「2+3=5」が真であると主張できるためには、その認識が決して私の能力の可能性からは説明され得ないことを示す、ある別の観念が必要なのである。したがって、徹底的な懐疑と同様に、私の能力を最大限まで増幅できると仮定し、それによって明晰判明な認識が説明できるのか、説明できす他によって保証されねばならないのかどうかを探究しなければならない。いずれにしても、観念が無からは生じることはあり得ないので、観念において表現されている実在性の原因として私か私以外の他者が実在していなければならない。これは純粋な理性的洞察のみによって可能な探求であり、検証である。
 デカルトによれば、これが「欺く神」の懐疑にも耐えうる、唯一の論証である。なぜ、これが唯一の論証だといえるのだろうか。それは、この論証だけが、即断と偏見によってではなく、事物そのものの必然性によって可能な論証だからである。デカルトが「第三省察」で明らかにするところに従えば、虚偽はそもそも、ある観念についてそれを観念の外にある何かに衝動的に関連付ける判断から生じる。「第一省察」においてすべての意見が疑われたのも、実はこの判断に即断と偏見が含まれていたからだった。逆を言えば、私の内なる観念を他の何ものにも関係づけず、ただ実在する私の思考の様態としてだけ理解するなら、そこにはどんな虚偽の可能性も生じない。真理と虚偽は判断に存するのだ。そして、最も多い虚偽は、ある事物の観念が私の外にある事物と似ている、あるいはそこから送り込まれているという判断から来る虚偽だが、この判断は単に盲目的な衝動によって習慣づけられているにすぎず、確実な根拠がないことが直ちに明らかになる。したがって、判断に確実性を求めるならば、盲目的な衝動によってではなく、疑うことから私が存在することを正しく結論した時のような必然性に基づいて判断すべきだ。この必然性をデカルトは「自然の光」と呼ぶ。これは単に習慣によって事物に対して私たちが課しているに過ぎない必然性ではなく、事物そのものが私たちの思考に対して課する必然性と言ってもよいだろう。すなわち、観念が私の内にある限りにおいて考察し、この「自然の光」に照らして、私自身の実在には還元できない他者の実在について判断できないか、ということがデカルトの企てでなのである。さらに、デカルトはこの自然の光に照らして「因果の原理」を導く。これは「無から有は生じない」とか「原因は結果においてあるのと同等かより大なる実在性を有していなければならない」といった原理である。これらの原理をデカルトは前提することができる。なぜならば、これらの原理が偽であり得るなら、私は思惟しているとき無であるということにもなりかねないが、このことはコギトの発見によって否定されるからである。それゆえ、「因果の原理」はコギトと同様の信頼を置いてよい。ただし、絶対的にではない。神の実在がまだ証明されていないからである。神の実在が証明されないうちは、この原理は私自身の本性を証明するにすぎない。この原理がすべての実在に適用できるかどうかは、ひとえに神の実在とその誠実が私自身に明晰判明に知られるかどうかにかかっている。

参考②:デカルトの神の存在証明って所謂「循環論証」じゃないの?

 「神が存在するのは私が神が存在すると明晰判明に観るからである。ところで、私が明晰判明に観ることが真なのは神が存在するからである」。こうして、デカルトの神存在証明は循環論法ではないか、と昔から疑われていた。研究者の間でもまだ統一見解はないようだが、形式的には循環論証の感は拭えない。しかし、ここまでデカルトの議論を丹念に追ってきた方はお気づきのように、少なくともデカルトはコギトを基礎付ける際には循環論証を犯してはいなかった。なぜならば、「私は考える」は意識の明証性として直接的で無条件に肯定されたわけではなく、それが私の実在を表現すると見做された場合にのみ確実であるとコギトの発見によって根拠づけられたからである。「私が明晰判明に観るものは真である」という「真理の一般規則」は「一切を疑い尽くしてそれでも尚且つ真として現れるものは、実際に真である」という懐疑のプロジェクトの遂行によって確立された。
 神の存在証明も同様である。コギトの発見以前には如何なる思考も確実ではあり得ないように、神の存在証明以前にはコギト以外のいかなる思考も確実ではあり得ない。なぜならば、先に見たように真なる神の観念が獲得されないうちはコギト以外の如何なる認識も確実であり得ず、真なる神の観念の獲得は徹底的な懐疑の精神の貫徹によって根拠づけられているからである。一切に対する懐疑がコギトを発見せしめたように、一切の思考をコギトに還元せしめようとするとき神の真なる観念が立ち現れる。というのも、真なる神の観念を得ることは私の能力の可能性の限界を知ることと同じだからである。つまり、デカルトは「真理の一般規則」からコギトと神を基礎付けているのではなくて、逆にコギトと神の発見によって「真理の一般規則」を基礎付けている。そしてそのいずれもが懐疑の精神によって根拠づけられている。したがって、ここに循環は存在しない。

私は神に成り得るか?~神の存在の第一証明~

 かくして、デカルトは観念の持つ「対象的実在性」に「因果の原理」を適用して神の存在証明を行う。デカルトはあらゆる観念は私の思惟の一部である、という意味では観念相互に違いはないとしても、各々の観念が表現する実在性の量に違いがある、という。たとえば、私の個々の思惟(様態)において私(実体)が実在するという場合、前者が後者を表現する限りにおいて確実だという関係性が存在している。この場合、様態は言わば述語として主語に包摂される関係性なので、様態よりも実体のほうが実在性ないし完全性においてより大きい、と主張することができる。この観念が表現している実在性の大小に「因果の原理」を導入してデカルトは「神の存在証明」を構築する。すなわち、観念といえども、実在的な何かを表現する限りはその実在性を原因から借りてこなければならない。そして、観念の第一原因は単に思考の中に思念的に存在しているだけではなくて、観念の言わば原型として実在していなければならない。したがって、このことからその実在性を私以上の実在から借りてこなければならないほどの観念がもし存在すれば、その観念の原因たる他者が必然的に存在することになる。そして、それほど大きな実在性を表現するのは神の観念のみである。なぜならば、神の観念のうちには、私が明晰判明に認識するものの完全性が、言わば原型としてすべて含まれているからである。デカルトは「神という名称のもとに私が理解するのは、或る無限なる、独立なる、全智なる、全能なる、そして一方、私自身を、また他方、もしさらに何ものかが存在するならば、存在するほどのものの一切を、創造したところの、実体である」と定義する。この定義の内実はどのようなものだろうか。その手掛かりを得るために、一般的な神観念から考えてみよう。
 人が神について考えるのはそもそもどんな時だろう? それは何らかの困難に直面するときではないだろうか。逆を言うと、困難に直面しなければ、そもそも神について考えることはないのではないだろうか。すると、私が神に用があるのは、困難に直面するからであって、困難に直面しなければ神には用がない、ということにもなりかねないのではないだろうか。神は私の限界概念であり、私自身の観念から容易に構成できるということにもなりかねない。つまり、私が神だと思っているものは、私の本質を投影したものにすぎない。それは天上に掲げられた私の肖像画なのだ。したがって、神の本質は私の本質であり、他者の本質を示していないことになる。
 デカルトの神観念は、これとは全く異なっている。上の通俗的な神観念はまず、私の能力の限界を経験によって思い知らされてから、神観念が要請されている。つまり逆を言えば、もしも、私の能力の限界を超えることができたら、その神観念も消滅してしまう。このため、このような神観念は本質的に私によって創り出され得る。ところが、デカルトの神観念は私が如何にしても創り出すことができない何かなのである。神の属性のうち特に重要なのは無限である。無限とは何か。デカルトはこれを無際限との違いによって説明する。無際限は「いつでも次が在る、際限が無い」ということである。たとえば、数は無際限だ。これに対して、無限とは「それ以上大きなものが考えられないところのもの」である。したがって、無限は無際限ではない。たとえば、「最大の数」という概念は矛盾を含んでおり、存在しない。数は無限には至らない。しかし、「全知」とか「全能」といった神に帰される概念はいったい何をすれば全知や全能になるのかを具体的に示すことはできないが、それによってはじめて限界が示されるという仕方で思考され得る。たとえば、数には際限がないが、限界が存在しないわけではない。数は「どこまで行っても無限には至らない」という仕方で限界に与っている。
 さらに、「疑う」という現実的な場面に即して、無限の現実性について考えてみよう。そもそも、私は一切のことについて疑ったが、それは私が完全ではないことを証明しているように思われる。もしも、私が完全であったら、疑うということはなかったはずだからだ。しかし、大概の困難を人間は科学技術を進歩させることによって乗り越えてきたように、私自身がいつかは完全な存在となり、疑うこともいかなる神について思惟する必要性も決してない、という事態はあり得るのだろうか? もしも、この問いに答えられなければ、私は自分自身の限界に気づくということは決してないだろう。そして、その可能性を否定できなければ、私には確実な知識を得ることは決してできないだろう。しかし、私は自分の能力がそれ以上先がないというところまで行きつくことは決してなく、疑いの必然性そのものが消滅するところまでは拡大できないことを、経験によって教えられなくても、単に理性のみの洞察によって覚知することができる。つまり、この限界は他の諸々の経験的な限界と同じように、私が恣意的に設定するということはあり得ない。私自身の限界は神の観念に照らすのでなければ、決して自覚することができない。「私が有限な存在であることを私はどこから知るのか?」と問うた時、「有限の否定によって無限を思考するのではなく、無限が有限に先立つ」ということがはっきりとわかる。そして、この自覚なしには私は私の実在以外のどんな認識についても真を主張することはできず、疑いから抜け出すことはできない。かくして、神の観念が分けても真であり、この観念のうちには私が真と認識するもののすべてが原型として含まれており、一切の真理の源であって実在することが判明する。

私の存在は贈与された~神の存在の第二証明~

 「第三省察」においてデカルトは、さらに進んで、「神が存在しなかったならば、神の観念を持つ私は存在できるかどうか」を探求する。所謂「神の存在の第二証明」である。私の作者の候補として、両親なども挙げられているが、とりわけ問題なのは、「私」である。私自身が神であり、私自身が私の作者であるかどうか、である。この問題は「無限の観念」の理解をさらに深化させる方向で理解されねばならない。「私自身が神である」という想定は成り立たない。なぜなら、私が私自身の作者であるとしたら、私自身をまったく別の本質に生まれ変わらせることも、私の存在を維持させることも可能なはずだが、そうしたことはまったく有り得ないからである。
 たとえば、私には「2+3」を「6」にすることはできない。なぜならば、「2+3=5」としか思考できないというのが私自身の本質なので、それを私が変えられるとしたら、私の本質を一端無にして全く別の存在に生まれ変わらねばならないが、そうしたことは私の与り知らぬところだからである。自分の隠された能力にうっかり気が付いていなくて、そうした事態があり得るということもない。なぜならば、この限界は、丁度、勉強や恋愛での挫折のように、偶然的に与えられるものではなくて、1+1=2であるのと同様に絶対的な仕方で与えられているからである。また、今私が存在する、ということから次に私が存在する、ということは出てこないように、私は存在している全時間を神によって維持されてねばならない。なぜなら、創造と維持は本質的には同じであり、私は存在しているからである。コギトは時間において存在している以上、その全存在を神に依存している。
 このように、私の存在が本質的に与えられていることを通して、また何か真なる認識に私が到達するなら、それはすべて無限な存在に根拠を持っていることを通して、私は神の観念が空虚な形式的な観念ではなく、「創造の痕跡」として私自身のうちに存在する最も原初的な観念であることを知る。すなわち、私の実在は、私以上の何か、無限な存在によって与えられねばならない。無際限な事物の系列から偶然に発生することはあり得ない。もしも、無限の観念が虚偽であったら、私は自分の限界にそもそも気が付くことができないし、存在することもできない。私の実在は無際限な事物の系列からは与えられず、私の本質と存在は無限なものによって創造されていなければならない。

結語~「循環」の解決~
以上が「第三省察」の要点となります。私たちが通常抱いている神概念と、デカルトの神概念とは異なっていることがわかるでしょうか。デカルトは「第一省察」から、徹頭徹尾「精神から感覚を引き離す」ということを具体化してきましたが、上に見たように、感覚的な経験がベースになっているような常識的な神概念は容易にその存在が疑われ得ます。これに対して、デカルトは絶対に私の思考が恣意的にできないような仕方で、「欺く神」という想定にも耐えうるような仕方で、神の観念を精錬させています。この精錬の過程がデカルトの神存在証明を理解する上でのひとつの鍵だといえるでしょう。すなわち、私がいかなる意味で有限な存在なのかを正確に知る、という思考のプロセスを通して、彼は神の存在証明を有意味なものとしている、ということです。「私自身が神となることは有り得ない」「私の存在は神よって与えられ、維持されねばならない」「神の観念のうちには私が真と認識するもののすべてが原型として含まれている」といったことを本当に知らなければ、数論や幾何学でも容易に疑いうるからです。しかし、今や、神の何たるかと自分自身が何者であるかをはっきりと知り始めているので、もはや私が明晰判明に認識したことについて疑いが生じる危惧はありません。デカルトが神は最高完全者であるから欺かない、と述べるとき、それは神の観念が真なる観念であり、捏造できないことを根拠にしています。捏造できないということは、このことは、実際に私よりも完全な存在によって私が創造されていることと同じ意味です。私は自らが創造されたものであることを知りつつ、存在しています。このことは私が今夢を見ていようとも、いささかも変わりない、これが「第三省察」の結論です。

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