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ぶちまけたペンキに鋲を打つ

 半年ほど前に帰省した時、父の書棚に見覚えのある赤い背表紙を見つけた。父は、半世紀以上SFファンをやっている筋金入りの老人で、年相応の体力の低下から、ここ数年は愛読書の再読ばかりをやっている。新しいものを読むのは疲れるのだと父は言う。浴槽に貯めた人生分のフィクションにゆったりと浸かる……ゆるやかな走馬燈のようなその読書生活を、私は少しうらやましく思っていた。だから、書棚にその本があることには驚いた。最近の作品だったのだ。一時期、とてもよく話題になっていた小説で、そのキャッチーなタイトルは忘れようにも忘れられない。友人の評判もよく、いつか読もうと思ったままずるずると年月が過ぎていた。

 感想を聞いてみると「悪くない」「褒めてやってもいい」と父は言う。相変わらずの言いぐさに私は思わず笑った。父は今や立派なクソジジイであり、会うたびに最近のSFマガジンの悪口を言っている。「おもしろかったぞ。読め。俺はもう読んだからお前にやる」 そう言われても、私は基本、絶版作品や未文庫化作品でもない限り、ハードカバーの本を家に置く気はない。邪魔だからだ。新刊は電子書籍で買い、おもしろかったら紙の文庫本で買い直すのが私の流儀だ。その小説は話題作だったし、間違いなく後々文庫化されるはずだろう。その時、買えばいい。だが、結局、私は父に押し負けてその本を自宅に持ち帰った。文庫と講談社ノベルスばかりが並ぶ私の本棚の中で、その赤い背表紙のハードカバーは、明らかに浮いていた。

 ……その後、半年、結局私はその本に手をつけることなく、本棚の肥やしにしてしまっていた。そうこうしている内に、仕事の都合で引っ越しが決まった。無数の段ボールに無数の文庫本を詰めてゆく。文庫本は規格がおおよそ統一されており、しかも粒が小さいため、一定体積内をおもしろいくらい隙間なく埋められる。そして案の定、ハードカバーが1冊余った。引っ越し業者が段ボールを搬出し終え、大家に鍵を返して、私はその1冊を仕方なく手持ちの鞄に詰めた。新居に届いた本棚に文庫本を並べ直すのには、おおよそまる2日かかった。折角並べ終えた本棚から、本を引き抜いて読むのはどうにも釈然としなかった。なので、私は、鞄の中に入れたままだったそのハードカバーに手を付けた。

 それは短編集だった。最初の1編目を読んで、ぶったまげた。「嘘だろう」と、思わず口に出し言っていた。悪くないどころの話ではない。おもしろい。おもしろすぎる。評判は確かによかったが、ここまでとは聞いていなかった。前提となる仮定の飛距離と、仮定を基に世界を1つ組み立てる手つきの精緻さ、そしてその2つを作品として丸めるセンス。SFとして、小説として、あらゆる方向から切断しても断面が完璧に仕上がっている真球の金太郎飴のような代物だった。ロジックも、イマジネーションも、ドラマも、シナリオも、ガジェットも、テキストも、タイトルも、全てが信じられないくらい効果的で、強靭で、しかも相互に美しくバランスがとれている。破綻がなく、瑕がない。継ぎ目の見えない工芸品の小箱のように完成されており、それでいて息苦しくなく、世界が1つ地平線の果てまで伸びている。

 2編目を読んでも、まるでかげりはなかった。「出会ってしまったか」という確信で、脳がしびれた。短編集という型式に触れる時、それは偶に起こる。私が知っている限りでは、エラリー・クイーンや、稲見一良、筒井康隆などがそういうアルバムを組んでいる。全ての歯車が噛み合った瞬間に、本の形をとって現れる奇跡のようなもの。3編目、4編目と読み進め、興奮で湯だった頭でも、次第に通底するカラーが見えてきた。それはどこまでも「あなたとわたし」の話だった。一対一の対面関係というエンジンを、その作品は執拗に執拗に手放さず、花開くSF的奇想の全ての根っこに積んでいた。3人の主人公が登場する2編目ですら、それはトリオの物語ではなく、3組の「あなたとわたし」のお話だった。5編目に至っては、国家規模にまで広く拡大された風呂敷が、みるみるうちにただの2人へと折りたたまれていった。

 そして、いずれもが無辺の荒野へと限りなく広がってゆく可能性の話だった。ぶちまけられたペンキのような宇宙の話だった。全てが可能であり、全てが思い通りになる身動きのとれない自由の中で、「選択」という不自由を選び取る話だった。そして、その選び取る行為の根底、そのアクションを実行させうるエネルギーを生むのは、「わたし」の前にいる「あなた」なのだと絶叫する話だった。それに殉じるように収録された6編の短編は、全てその結末において読者に想像をゆだねることを許さなかった。そこには必ず、明確な結末が描かれており、「わたし」が何を選び取ったのかが逃げることなくはっきりと書かれていた。3編目、壮絶な非恋愛関係の結末を描くことは、野暮なのかもしれない。しかし、野暮も余韻もかなぐり捨て、結末を書き記すその時だけは瑕だらけになることを厭わないその真剣さが、これが俺の小説なんだ!という作者の証明だった。そこがこの短編集の肝であり、一番の凄さだった。

 SF的な仕掛けにより、主人公たちが属する世界はどこまでも限りなく広がっていった。それは架空の感覚がもたらすパラレルワールド重ね合わせであり、タイムスリップによる歴史改変であり、脳の自由な改造を可能とした未来科学であり、少女に発現した超常の能力であり、シンギュラリティだった。だが6編目、このアルバムを閉じる最後の短編においてのみ、ペンキはSF的仕掛けではなく、ごく当たり前の事象によってぶちまけられていた。走り続ける新幹線を無限に拡散させてゆくのは、人が物語を語ること/語らずにはいられないことという、私たちの世界と同じ仕組みであり、ここでついに、SFの小説は、小説のSFになっていた。最後のその6編目にして、とうとう物語の物語を語り始め、最大級のビッグバンを起こして見せたこのアルバムは、当然のしめくくりとして、これまで世界を広げ続けてきたSF的な仕掛けによって、逆に鋲を打った。私は、この6編目がこの短編集の中で一番好きだと思った。逆巻きの構成が否応なくアルバムを締めくくり、読者を現実へと送り返す。まさしくタイトル通り、ひかりよりも速く、ゆるやかだったその読書体験に少し呆然としたまま私は本を閉じた。そして、熱がひかないうちに、父に電話をかけた。



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