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沢海騒動について考えてみます(4)

さて、新発田藩ですが・・・
Wikipediaによると、
「秀勝は1600年関ヶ原の戦いのとき、徳川家康の東軍に与して越後に在国し、越後で発生した上杉旧臣の一揆を鎮圧した功績により、家康から本領を安堵され、新発田藩6万石が成立した。越後国譜代大名親藩のひしめく中に位置する外様大名であった。」
とあります。
新発田藩藩祖秀勝が長男宣勝に家督を譲るとき、次男溝口善勝に一万石を分与しています。
ただ、この分与には二代将軍徳川秀忠の意向が関わっていたといわれます。
このように1610年に新発田藩・長男宣勝と沢海藩・次男溝口善勝は分かれていきます。
新発田藩領域は、のような水草の生い茂る低湿地帯であり、そのままでは農耕に適さない土地でしたが、干拓・新田開発や治水工事を実施したことで穀倉地帯となりました。
実石(実際の石高)は40万石程との説もありますが、
他藩との交易(塩の販売等)、水運に関わる運上金などがあったと推測できます。
そういった経済的発展というか進化が他藩特に保科家(会津藩)との確執発生につながります。
次回は、保科正之の会津藩を見ていきます。沢海騒動の遠因はこの藩にあったと私は考えます。


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