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空區地車の力学48.地車の名家は子沢山(こだくさん)

本住吉神社は9つの地区からなっており、その内8つの地区が地車を保有している。
西、茶屋、吉田、空、山田、住之江、呉田、反高林の8つだ。ちなみに観音林は地区として小さいので、地車はなく神輿で参加している。

各地車は子供会や父兄も含めると50~100人ほどの曳き手と30人ほどの裏方で成り立っている。何だかだ本住吉神社例大祭には1000人ほどが直接的に関わっていることになる。加えて多くの地元民が寄付など有形無形で支えてくれている。

2017年度例大祭 空區地車を支える若中

本住吉神社の氏子、もしくはそのご子息、ご令嬢は、神戸市立住吉小学校から神戸市立住吉中学校に進むのが定められた道。中には神戸大学付属小学校に通う秀才児もいるが、その子たちはたいてい地車には興味を示さない(?)。
また、地元生まれ、地元育ちではないが、引越しで地元民となり地車の魅力にハマる人もいる。逆に引っ越しで他県に移り住んだが血が騒ぎ、祭りの日には帰ってくる人も多い。また、学生の空區若中の友人も多く参加しているが、社会人になると顔を見なくなる。
ちなみに私は灘区の生まれ育ちだが、結婚で引越して山田區の飛び地に住みかを設けたが、縁あって空區若中に入った越境者だ。

父さんが地車バカだと遺伝子はその子に受け継がれ、男だろうが女だろうがたいていは地車バカになってしまう。
祭りはかっては女人禁制、男だけのものだったが、今は女子も若中として参加している。かくいう私の次女も私の地車バカが遺伝し、小学2年生から20年以上冷めやらない地車バカ女子だ。

女性陣は地車後ろに乗り、提灯を振る

それでも祭りはまだまだ男社会。したがって男系の子沢山(こだくさん)の一族が勢力を持つことになる。
高度成長期から昭和50年代には、レジャーの多様化で祭りが下火になり曳き手が激減、曳き手不足で地車が出せないようになった。仕方なくアルバイトで曳き手を雇う地区も出たが、空區は桜井5兄弟と山岡4兄弟がいたので、重さ4トンの地車を何とか地車小屋から出せたと今でも語り草になっている。

昭和50年代? 飛ばせ!で疾走する空區若中

桜井3兄弟と山岡カズさんは、今でも法被を着て曳いている現役バリバリ選手だ。
特に山岡家は、ご子息もご令嬢もお孫さんまでもがこぞって地車好きで、空區若中の一大勢力となっている。
最近は核家族、いても子供二人という家庭が増えている。そんな中、男であろうが女であろうが、運良く地車バカの遺伝子を受け継ぐ者があれば勢力図は一変する。
残念ながら我が家は女系家族で、今でも曳いているのは私と次女のみ。それでも2人が若中なので、多少幅を効かせている(?)。しかし、お世継ぎとして、男の孫が生まれない限り、いずれ衰退する運命にある。

子供会の力を借りて坂道も何のその

いま私は子供会の綱を担当させていただいているが、私の前は2大勢力の一角である桜井家の一二三さんが担当しており、次女も私もその姿に憧れた。時として一二三さんは次女に男性観、結婚観、人生観を私に変わって諭してくれる。そんな一二三さんが連絡もなく祭りを欠席すると「おっちゃん、祭りには毎回来てよ、どっか悪いんか心配になるわ」と逆に諭されている。

二人のやり取りを聞くに、私は「若中としても、父としても、人間としても、まだまだ修行が足らん」と落ち込むのであった。

地車を知り尽くす桜井3兄弟は力が常に最も加わりやすいポジションで曳く

最近は夕方、子供会が解散したら、私はお役御免とばかり責任者から後ろテコを任命される。そんな時は昔も今も空區の巨大勢力・山岡家のカズさんに教えを乞うている。本心は地車を曳きたい私にとって「後ろテコを担当するのはまだ早い!」と心の中で絶叫してするのだが、責任者からの指名とあれば致し方ない。後ろテコを担当する。
しかし、あと5年経ってもカズさんのごとく中腰で踏ん張りながらテコ棒を持っていられるかと問われれば、全くもって自信がない。
カズさんはスゴイ。

後ろテコを担当しない時のカズさんは後ろの若中の状況を見て適宜指示を出す

祭りは年に2日間しかない。あっという間に過ぎてしまい、ポカもやらかしてしまう。多くの先輩に叱咤激励されながら私はいまもニコニコと曳いている。
毎回楽しいが、毎回反省の祭り。
先輩に感謝、子供会に感謝、若中に感謝、地車に感謝。
私だけではない、若中にとっても地域にとっても、住吉の地車はコミュニティとしてしっかり根付いている。