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ことばは開いていて、閉じている[4/30日記]

フリーランスになってもうすぐ一年。売上が下がって不安になって、でも今月はなんとか持ち直して… そんな今です。
創作することが、必要だなと思っていて、これがないと、生きていけないなと気づいていて、もう向き合わないといけないなという思いがあります。
今の自分は、創作することについてもう一度考え直しています。いままで何をしてきたのか、そしてどこに進もうとしているのか。

正直、音楽や詩を生活やSNSと絡めることに抵抗があります。でも、今の自分には必要な一歩かなと思って、今日の日記をnoteに上げてみます。
個人的な文章ですので、何かをお伝えしたいという意図はないです。ま、それも含めて。


何かを伝達したいという欲求、自分を理解してもらいたいという欲求から、人は文章を書く。…だが同時に、自分の存在を他者から区別したいという欲求、理解されようがされまいが、自分の輪郭をはっきりさせたいという欲求から、人は文章を書く。…
自分を開くことと自分を閉じることは、一つの文章の中で必ずしも矛盾しない。

『谷川俊太郎/詩を書くこと p86』


僕は音楽や詩を書くとき、どちらかというと、後者の目的が近い。

誰かに共有したいというよりも、自分の存在を、輪郭をはっきりさせたいという衝動に突き動かされている。

例えるなら、透明なクラゲが水の中で自分の輪郭を確かめるように、僕は自分の感じたことを言葉にして、その質感で自分の存在を確かめているのか。

だれかに伝えるために作った歌は一曲もない。

だから、説明をするのもむず痒い。いや、できればやりたくないし、意味がないと思う。

たとえば、誰かとの関係のことを題材にする。
これは、その人への気持ちを伝える歌ではない。僕はそもそもだれかに語りかけるように歌を作っていないので、誰に何を伝える歌なのかを考えたこと自体がない。

その時自分の心に起きたことを、水の中で動いた何かを、クラゲが「ああ、これは自分のうでなんだな」とわかるために、スケッチしてみる。

こんな感じで書いている。
衝動に従い、内側に呼びかける。これがきっと僕のやりたいことなんだけど、それならよくある難解な詩でもいいのではないか?

いや、それは違う。自分にはわかるものでなくてはいけない。
自分でわかること、自分の中でその言葉がどんな概念を呼び起こすのか。
そこを拠り所にして書く。
英語で書くのもそれが理由だ。英語を使うこと自体が僕の人生をカタチ取ってきたものたちを呼び起こす。
だから、わかる人には開かれている。それはそれでいいと思う。
だれにも伝わらないかもしれない。日本語しかわからない人には伝わらないし、英語がわかっても僕と同じ人生を送った人にしか本当には伝わらない。
だからやっぱり、閉じている。

閉じていることにはすごく孤独な苦しみがある。詩を作ることは苦しい。

でも、書かずにはいられないし、それを止めたくない。
なぜなら、クラゲは海ではなく、クラゲとしての命があると思うから。

英語で感じたことは英語で表現したい。
でも今後、人生を日本語で進んでいくなら日本語で感じたことがそのまま詩になっていくんだろう。
使う言語を定めなくていい。翻訳もしなくていい。
僕が選ぶのではなく、詩が選ぶだろう。

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