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プレゼンシート3 東晋編 解説

こんにちは。
「五胡十六国入門」です。

前回は五胡十六国、いわば東晋時代の北半分をやりましたので、今回は南半分、東晋についての紹介を。東晋と言うよりは「なかなか併呑しきれなかった南部をどうやって北部が併呑したか、またその情勢が生む南部のオモシロ政変とは」みたいな感じですね。

プレゼンシート3 東晋編


要するに長江やばい

 三國志の時代、呉がなかなか魏に制圧されなかったのも、だいたいこれが理由です。長江やばい。広く、水量豊か。そしてこの近くに住んでいるひとたちは当然長江の恵みをフルに活用しています。そのうちの一つが、水軍力。黄河ってなにげに川底が浅かったり、わりと凍り付いたりとかで、長江ほど水軍力が徹底的に整備しきれないんですよね。この段階で、既にアドバンテージがやばい。
 解説ひとコマ目にも書きましたが、東晋が成立した 317 年から陳滅亡の 598 年まで、北方勢力はほぼ長江を渡ることが叶いませんでした。

ならどうやって潰しましょうか

 結論は「数の暴力で殴る」でした。上には西晋と隋の制圧軍の編成を書いていますが、要は「建康を殴るにあたって水軍が長江の上流も同時に殴っておく」という形です。逆に言うと、これだけ大規模の軍を同時に運用しないと長江の南はどうしようもない、というわけです。
 ちなみに苻堅も 383 年の戦いで益州から姚萇、襄陽から慕容垂、寿春から苻堅苻融、下邳から梁成王顕という黄金パターンで動員しましたが、うっかり苻堅が出っ張って、しかも大敗したもんだからおじゃんになってます。プランだけなら良かったんだけどなぁ、プランだけなら……。

守る東晋、どうやって守る?

 さて、東晋はもともと呉を大動員によって攻め滅ぼした実績のある国です。ともなれば、同じ国に閉じ込められた以上、大動員によってひどい目に遭わないよう守りを固めねばならない。それが俗に言う北府軍、西府軍でした。北府軍によって下邳寿春方面からの敵を防ぎ、西府軍によって襄陽益州方面の敵を防ぐ、という形ですね。ひとまず守りは、確かにこれで機能します。
 問題は仲間割れなんだよなぁ。

仲間割れ、というか

 東晋が立って間もなく、琅邪王氏の権勢が高まっているのを恐れた元帝が琅邪王氏を牽制。王敦の乱を招きます。
 琅邪王氏の勢いを削ってから台頭してきた庾亮が無駄に厳しい引き締めをやったせいで軍部の反感が爆発。蘇峻の乱を招きます。
 蘇峻の乱以降なんとかバランスが取れたように思えますが、その均衡をついて庾亮の姻戚であった桓温が一気に勢力伸長。西府と北府を抑えて簒奪を狙いますが失敗。
 桓温のもと幕僚にして桓温の野望をくじいた謝安でしたが、この頃前秦の脅威がマックス。淝水の戦いで奇跡の勝利を収めたと言われる謝安ですが、謝玄軍に 85000 しか兵力を持たせられなかった辺り、その立場って盤石じゃなさそうです。
 前秦を退けた国内では孝武帝の弟、司馬道子が朝廷に芸人上がりを官僚として引き込むことで政が一気に乱れます。それに怒る各地名族同士でも利害のバッティングがあったりして、そこを司馬道子の息子司馬元顕に引っかき回されて、なぜかただのいち軍人でしかない劉牢之が北府を任せられることに。けど寝技がいっさいできない人だったので桓温の息子にして、父の悲願を叶えんと燃える男、桓玄にはめられ没落。そして桓玄が司馬道子司馬元顕を滅ぼして皇帝に。
 そんな桓玄をクーデターで倒した劉裕が、最終的に安帝を殺害、恭帝より簒奪。そして恭帝も殺害。
 なにこれ。

ちなみに弱いわけじゃない

 とは言え、東晋百年の歴史を見ていると、黎明期に石勒を震え上がらせた祖逖であるとか、中期に前秦前燕相手に斬った張ったを繰り返した桓温であるとか、そして末期には南燕後秦を踏み潰して北魏をビビらせ(たけどその死後にはお礼参りを食らっ)た劉裕であるとか、各時期ともに五胡諸国を脅かした将軍たちも存在しています。
 決して南の隅でぷるぷる震えていたベイビーちゃんって訳ではない、というところは重に協調したいところです。

 ここまでは大まかな流れでしたので、次回、全体を更に乱暴に紹介してみたいと思います。

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