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AIと音楽について考えていることをつらつらと

今のユーミンと、荒井由実時代のユーミンが、今のユーミンが作った歌を一緒に歌っている。そんなことができる時代になった。

わずかに残る、荒井由実時代の歌声データや、多数の一般の人たちの話し声のデータベースを用い、AIで荒井由実時代の歌声を生成。松任谷由実と荒井由実のデュエット楽曲として「Call me back」を2022年にリリースした。

2020年には美空ひばりの歌声をAIで再現し、新曲を紅白歌合戦で披露するというパフォーマンスもあった。

最近ではThe Beatlesの新曲「Now And Then」にAI技術が用いられたことも話題になっている。ジョン・レノンが生前に自宅で録音したデモテープから、歌声だけを抜き出すためにAIの技術が用いられている。

文章や絵と同様、音楽にもAIの技術が使われ始めている。AIが作ったのか人が作ったのか、パッと見では判断が付かないほど、クオリティも上がってきている。

他にも、例えばピアノで弾いた音源をバイオリンで弾いているように変換するとか、AIが書いた譜面を人間が演奏するとか、活用の仕方は今考えられるものだけでも無数にあり得る。これから先、どんどん活用の幅が広がっていくだろうと言われている。

でもAIが作ったものを「芸術」として捉えられるのが適切なのか、倫理的にも技術的にも問題はないのか、議論すべき問題は山積みである。「AIが作ったものは生理的に受け付けない」という個人的な感覚も、あってしかるべきだと思う。

上記の3つの例を考えてみても、ユーミンとThe Beatlesの作品は、本人ないしは遺されたメンバーによる了承が得られている。この曲を自分の作品として世に出すことを、自分の意思によって決定している。

しかし美空ひばりの作品は、亡くなってしまったあとに作られた歌詞や楽曲を、本人の了承なくAIによって歌わせ、世に出すことになる。そのことに対する倫理的な疑問や、生理的に受け付けないという反応も多かったみたいだ。

この問題については、作品の良し悪しや好き嫌いを一旦脇に置いて考えないといけない。みんな好きに音楽を聴いたり聴かなかったりすればいいじゃん、とつねづね私は思っているし、私は新しもの好きでもある。

だからといって「AI使おうがなんだろうが良い音楽ならいいじゃん」とは片付けられない。AIの登場によって、自分自身が今まで築いてきた、音楽体験の土台がぶっ壊されそうという予感もしている。

クオリティを高めるには技術的にどうしたらいいのかとか、具体的に法整備としてどうするのかとか、そういう話は専門家の方々にお任せするとして。

私がここで書いておきたいのは、AIと音楽の関わりが深まっていく世の中になるとして、根本的な音楽のあり方も鑑賞体験も変わっていくとして、その中で1人の音楽ファンとしてそれをどう受け止め、どう付き合っていこうか、ということである。

感じていることを今の時点で整理して、自分軸を失わず、でも新しい音楽をしなやかに楽しめる自分になりたい。そのために書いている。

先日YouTubeで、好きなミュージシャンの歌声で、他のミュージシャンをカバーする動画を見た。歌声を学習するAIを用いて、ミュージシャンとは関係のない見ず知らずの誰かが作った動画である。「AIカバー」と呼ばれている。

興味本位で聴いてみた。普通にめちゃくちゃ感動してしまった。アーティストの組み合わせや選曲には動画作成者なりのこだわりも感じられたし、本人の歌声のクセもところどころ再現されていて、そのアーティストの新曲を聴いたときのように泣いてしまった。感受性と涙腺がぶっ壊れているという自覚はある。

ただ、少し冷静になって考えるうち「本当に歌ってくれたらな」という考えが浮かんだことも事実だ。私にとっては、音楽が音としてどう響くかということと同じくらい、その音楽をどんな人が、どんな文脈で作ったかということも重要な要素なのだなと思った。

ちょっと機械的で、不自然だなと感じる箇所があることにはある。ただ、ボーカロイドが世界的に人気になっていることを考慮に入れれば、「人間っぽくない」ということだけで音楽への価値判断を下すことはできない。

またYouTubeのコメント欄に多かったのが「本人はこうは歌わない」という意見。もちろん「本人が実際に歌うなら、ここはこう歌うだろう」とか「本人のこういうクセが好きだから残して欲しい」といったことは、そのミュージシャンのことを本当に好きで、熱心に聴いているファンにとっては譲れない部分だと思う。

しかしそれらは全部、ミュージシャン本人が実際に歌うまでは誰にも断定できず、究極的には個々人の感覚や好みのなかに留まるものでしかない。客観的に「こうだ」と答えを出すことは、本人がカバーするまでは出来ない。

歌というのは、その人の肉体から発される声によるものということに加えて、「どういう歌い方で歌うのか」という選択の連続によって、創作性や独自性を帯びる。

どういう発音で歌詞を発するか、どこにアクセントを置くか、どこでしゃくりあげるのか、裏声で歌うか地声で歌うかなどなど、音程の他にも音楽的な表現には多様なものがある。

さらには、身体性という制約の中でいかに理想の音楽を追求するかということに対しても、音楽の価値判断は働く。「人間離れした演奏」という賞賛があるように、肉体の限界を超えた鍛錬や理性によって、理想の音楽表現を形にすることも、音楽の価値を生み出すための1つのアプローチだ。

一方、身体性の制約を抜けきれない部分が「人間味」や「個性」、「色気」を表現するものとして音楽の中に残る。加齢などによって声や演奏スタイルが変化していくこともある。機械ではなく人がやっている何よりの証拠として、音楽の魅力を生み出すものでもある。

コントロールできる部分もできない部分も含めて、そこに個性や意匠が宿ることこそ、人間が音楽をやる醍醐味ではないだろうか。それは聴く側の立場だけでなく、演奏したり作曲したりする立場になったときにも言える。

YouTubeにアップされている「AIカバー」は、音楽表現に関する「選択」を、歌っている本人がしているわけではない。AIがしている(もしくは生成後の音源を人の手で調整する工程を経ているのであれば、見ず知らずの動画作成者がしている)に過ぎない。

また、AIに学習させている音源データは、すでにリリースされている過去のレコーディング音源であることが多い。つまり、AIカバーの声はミュージシャンの過去を煮詰めて固めたもの。

ミュージシャンとしてのスタイルを変化を無視して、デビューから現在までの音源を網羅的にAIに学習させ、生成した音声は、果たしてそのミュージシャンが歌っていると言えるのだろうか。

私がそのミュージシャンを好きで聴いている理由は、その人独自の声や音が好きということと同等に、音楽表現を通して、そのミュージシャンの価値観や人間性が宿ると信じているからだ。音楽に触れることで「心が通じた」と感じたくて、音楽を聴いている。

だからAIカバーは、私が音楽を聴く動機には合致していない。AIカバーを容認することは、私が音楽を楽しむときに土台にしてきた「音楽の醍醐味」が崩れ去ることを意味する。

AIを音楽表現に取り入れるとき、単純な音楽の良し悪しや好み以上に、「どういう文脈でAIが用いられているか」が大きなウエイトを占めてきそうだなと思う。

ピアニスト兼作曲家の角野隼人さんは、東京大学の大学院やフランスの研究機関IRCAMにて、AIの音楽への活用に関する研究を行っていた。彼はインタビューの中で、AIの音楽分野への活用に対して、賛成とも反対とも割り切らない立場を取りつつ、こう話していた。

例えば進化論や地動説を考えても、人間が他の動物と違う特別な存在であるとか、世界は地球を中心に回っているとか、それまで信じられていたことがそうでないと証明された時、人々は「そんなはずはない」と抵抗したわけです。つまり、人間の尊厳が否定されるような気持ちになる。芸術とAIについても、これと似たようなことが言えるのではないかと。

「角野隼斗に聞く、AIの進化と音楽表現の未来 「“完璧な演奏”の価値が揺らぐかもしれない」リアルサウンド

現在私たちは「芸術的活動ができるのは人間だけ」ということに、人間とそれ以外の存在との境目を見いだしている。進化論が受け入れられる前は「自分たちは神が作ったアダムとイブの子孫だ」ということがその境目だった。

この記事を読んでいて思い出したのは、子供の頃テレビやラジオに触れて、「なんでこんな小さい箱の中に人が入るの!?」と不思議に思っていたことだ。幼い頃にそんな疑問を持った人は、私だけではないのではないだろうか。

テレビやラジオに限らず録音再生技術も、極論を言ってしまえば、声や楽器の音に似せた音が、円盤やデジタルファイルにパッケージされているに過ぎない。

録音されたものを聴くとき、声や楽器の音を電気信号なりディスクの溝なりに変換し、再生機器によって空気振動に変換して、人間の耳には遜色なく聴こえるところまで似せたものを聴いているわけだ。厳密に言えば、アーティストが発した声や楽器の音自体を聴いているわけではない。

それでも、私たちはなんの疑問もなく、正真正銘ミュージシャンが演奏した音楽として楽しんでいる。録音技術が生まれる前の人からすれば「そんなの音楽じゃない」と言われるかもしれない。

「そんなの音楽じゃない」とまでは言わずとも、同じ空間でミュージシャンが演奏している音楽を、体全体で受け止めるのは、やっぱり録音されたものを聴くのとは、全く違う感覚であると私は思う。その喜びが私の日常にもたらすものは少なくない。

そして、いつでもどこでも、何回でも、日常的に音楽を聴き返せる状態も、私にとっては生きるために必要なことである。録音技術万々歳。

そこにAIが加わることは、果たして音楽にとって、音楽に関わる全ての人にとって、幸せなことになるだろうか。

「音楽は心と心を通わせるもの」なんて、なんだか小学校の教科書にでも書いてありそう。でもあえて、それくらいストレートなところまで立ち返って考えることが、今必要なことなのかもしれない。

私の夢は、自分の子供や孫と一緒に、音楽を楽しむおばあちゃんになることだ。「ばあちゃんの部屋で流れていた音楽に影響を受けた」と、20歳前後の孫に言わしめたい。

音楽は人の心と心を通わせるものであり続けるのだろうか。


コンビニでクエン酸の飲み物を買って飲みます