『14』

さて、一番上の子が14歳になったので、私も人の親になって14年ということになりました。

『14年』という年月が一体長いのか短いのかと聞かれると、それが1日1日単位だと長かったように思えるし、それを年単位のカタマリで捉えると短かったようにも思えるし、なんだかちょっとよく分からない。

というよりも毎日があまりにも慌ただしくて、それがまるで春の嵐のように過ぎ去って

「この人を、一体どうやって育てていたのかあまり記憶にない…」

というのが正直なところ。初めましてあかちゃんのその後、それまであった自分の世界のすべてを吹き飛ばすほどの大嵐ののちに、気が付くとあら不思議「ではこちらにお母さんよりもやや背の高いお子さんをご用意しました」というお料理番組的な案配で、今は毎朝のっそり自室から出て来るその人をみるにつけ

「なんだこりゃ、でか!」

と思っていちいちフレッシュに驚いている次第です。薔薇の木に薔薇の花が咲くのは不思議なことではないけれど(©北原白秋先生)、かみさまから頂いたもとい自分のお腹からやってきた当時は身長48㎝だったちいちゃくて弱くてふにゃりとしているばかりの生き物が、なんだか骨ばって硬そうでそのわりに細身の約170㎝の人間になるのは本当に不思議なことです。

それは別に大谷翔平君のような193㎝で100㎏近い体躯の、そういう相対的な大きさではないのだけれど、元々赤ん坊だったものが14年の年月の後に自分の身長を凌駕するというのは、当たり前であることながら、新鮮な、驚愕の、そして幸福な驚きなんですのよ、奥さんほんま。

それでよく往年のお母様やお父様が「子育てには特に何も手をかけた覚えがない」など仰るじゃないですか、でも実のところあれは、日々食べさせて着せて風呂に入れて寝かせてという人間を成育していくその過程の中で「おれはベランダの柵を越えて大空に羽ばたけるぜ」などいう危ないことを画策したり、「ぼくは自分の足で4つの大陸を踏破できるんや」と勘違いして勝手に冒険の旅に出たり、「世界にある7つの海をあたしは自由に泳ぐのよ」とか妄想して水溜りにダイブしたり、「洗濯機の中に未知の世界があるのかもしれない」なんてそら恐ろしいことを考えてそれに挑戦する小さい人を

「そういう…自ら死のうとするのをやめろ!」

とTシャツの裾を引っ張って、その襟首をつかんで、必死に止める日々にくたくたにくたびれていた人の脳細胞のひとつひとつには、細かい日々の些事を覚えていられる余裕がなかったのではないかと、私は思っているのだけれど、その辺どうでしょう。

ともかく14歳は最近、14歳になりました。

この人は、乳児期には「これは…拷問…?」って泣きたくなるほど朝も昼も夜も寝てくれなくて、幼児期はまったく同じ年ごろの子どもとかみ合わず、というよりその子達に因縁をつけに不良のように向かってゆくので公園につれていけず、小学校の低学年時代には毎日筆箱まるごと無くして教科書をその辺に置き忘れ、どころかそれが収納されているランドセルを「どっかいってしもた」というものだから

「ランドセルが歩いて勝手にどっかいくわけないやんけ!」

と怒鳴りつけたくなるのをぐっとこらえて、いずこかへ逃げたらしいランドセルを捜索しに行っていて、やっと迎えた小学校高学年時代だってお勉強は興味のあることだけしか手をつけず、目についたものには興味をひいたものには授業中でも構わず突進していくものだから、いいかげん担任の先生に「こんな子みたことありません」などと言われて匙を投げられ、親はとにかく毎日平身低頭、謝り倒していたことでした。

当時の私はなんだか野生動物を育てているような気持ちで、「根気強く言い聞かせればわかります」という育児系しつけの金言は、共通の言語と認識と概念をもつものの間で通用することであるのだなあとつくづく思ったものです、うちの子にはひとつも通用せんやんけと。

それでも、中学生になってからはやっと人間らしくなった。

というのはほんのり嘘で、今も自室はとんでもなく汚いし、野菜はぜんぜん食べないし、服は前も後ろも表も裏もとにかく適当だし、朝は起こさないと絶対起きてこない。まあでも14歳なんて、大体はみんなこんなものなのかもしれない、広い世の中には神童など言われる、年よりうんと大人びていて人生は3周目のような風情の子もいてるとは聞くけれど、14歳というのはほんとうにまだ子どもで、なにもかもこれからの人なのだから(しかしね、ミカンの皮を床にぽいと捨てるのはどうなのよ)。

自分とは異なる人格を持ち、しかし自分が保護監督、なんならその生存すべてを任されていて、そして過去も、今も、あともう少し先の未来も、未完の不完全な状態である人間を育てるというのは、とりわけ欠点と不足ばかりの人間の私には、思えばとんでもない挑戦でした、それを「どうしてお前にできると思った」と聞かれたら「さあ…どうしてでしょうか」という前置きの後に、きちんとお返事するのに暫くお時間いただかなくてはいけないことになってしまうから困る、結果的に今は自転車操業的になんとかはしていますけれども。

でも人類は繁殖しつつその血脈を種の遺伝子を今日まで繋いできたのだから「みんなやってることやろ」と言われたらそれもそうなんだけれど、しかしその「みんなやっている」ことの途方もなく困難な道のりよ。先達である人々の努力の轍よ。

現代的な価値感を鑑みれば、そしてこの閉塞した世界に不完全で弱い生き物の暮らす隙間があまりにも狭いことを考えれば、今コドモを持つということが果たして正解なのかということは、もうお腹いっぱいだからお母さんは聞きません。

でも実際ほんとうに日々大変なことは多いし、公立中学に通っているこの人の学習塾代は3年累積でえらいことになりそうだし(普通の公立中学から普通の公立高校にあげたいだけなんやが)、実のところこの子が普通の子かと言われるとほんの少し、そうでもないし、未来への心配はつきないのだけれど、私がこの14歳の人を皮切りにあと2人、合計3人の子を産んで育てて「よかったな」と思うのは、真ん中の子が結構力持ちで、頼めば固いジャムの蓋を開けてくれるとか、14歳の子に2,899円の3割引きってなんぼ?と聞いたら小数点以下切り捨てで即答してくれるとか、末の子が「今日病院だよ」と予定のリマインドをしてくれるとか色々とあるのだけど、いやそれはただ単に子を便利に使うてるだけなのであって、本当のところは己の価値基準の中に

「今私の考えて実行しようとしているこれは、子ども達の前で胸を張ってやっていいことだろうか」

というものが追加装備されたことだと思うのです。

私のように成人した後も自意識ばかり高くてひとつも成熟してゆかないタイプの人間が、何とかして虫みたいな状態から二足歩行の人間になって、ほとんど子どものような精神を力業で大人の成熟したものに近づけてゆくためには、多分自分よりずっと小さな存在が必要だった、多分、いや絶対そう。

実のところ、私は少子化の弊害って、社会保障費とか国家が成り立たんとかそういう現実的な話の他に、こういう点もあるよなと思ったりするのですよね。

もしかすると人類の中には産まれた時から成熟している人というのもいるのかもしれないけれど、実子であるかそうでないかは全く関係なく、世界自体に小さくて弱くて守るべき子どもというのが存在していなければ、大人は相対的に大人になることができないし、ただいたずらに歳をとっただけの人間として、誰かのお手本になろうと背筋を伸ばして襟を正したりはしなくなってしまう気がするものだから。

弱くて未熟ということは、世界の大切な構成要素であって、それを私の世界では、今のところ自分の子どもが担ってくれている。

その内面の柔らかさに対して、子どもから大人になってゆくその過程の不安定さに即して、世界の先端が鋭利で固すぎると一番感じるのだろう年頃の14歳には、その弱さ故に、世界に対して鋭敏な心で、良いものは良いと、悪いものは悪いと、綺麗なものは綺麗だと感じて、次の15歳を迎えてくれると嬉しいなあと私は思っているし、何よりこの先の未来が全然未定で全部がこれからの人というのは、春の朝のひかりのように柔らかく眩しいものです。ほんとうにいいなあと思う。

14歳ですって、ほんとうにおめでとう。

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