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短編小説:ヨセフの誠実

冬を好まない人間は、ひとりでいることが得意じゃない。

冬の朝、白い息を吐きつつ、人影のない歩道を歩いていると自分がまるで地球上の最後のひとりになってしまったような気になるからだ。もしくは自分がもう死んでいて既にこの世には存在していない人間なのかもしれないと錯覚してしまうから。いつも俺の隣にいるやつは「なんやそれ、別にそんなことないやろ」なんて笑っていたが、俺がそう思うのだから仕方ない。俺は冬が嫌いだし、とりわけ冬の夕暮が苦手だ。

昼の日差しの微かな温かさが少しずつ夜の冷気に溶けて、しんとした冷たい夕暮れの薄暗闇が世界を覆う時間を俺は途轍もなく寂しいものだと思っている。

 

あの苛烈な中学入試の戦場を潜ってきた人間は皆、その後の六年程、なんとなく腑抜けになるらしい。

『世の光であれ』

これが校訓の私立中高一貫校には、それなりに賢いものの、同じ市内にある武闘派の受験校に通う連中よりはやや緩く、サッカー強豪校の連中よりは見た目のぱっとしない男ばかり千人ほどが「俺らは高三から本気出すねん」なんてうそぶきながら、星を宿した十字架の校章のレリーフを天辺に掲げた校舎の中にぎゅっと詰め込まれている。

俺も真も、その中のひとりだ。

そこでは十二月の中旬に、高三生を除く中高の生徒全員でクリスマスページェントが盛大に催される。築七十年、床板があめ色に艶々と光る講堂で、創世記の天地創造物語を中学部の生徒が朗読劇を、キリストの降誕劇を高校部の一年と二年が舞台演劇を上演する。その日は市内の幼稚園の園児達が系列の女子高校の生徒達と一緒にハンドベルの演奏にやってきて、中高の父母会がバザーと軽食の出店も出す。

それはちょっとした学園祭のようなもので、クリスマスページェントの日が近づくと、学校全体がそわそわと落ち着かなくなり、皆、目前に迫る期末テストもそっちのけで準備に奔走する。特にこれが最後のクリスマスページェントになり、来年、六年ぶりにやって来る受験の茨の道への憂いを隠し切れない高二生がまるで小学生のように楽しみにしているこのイベントを、俺は実のところあまり好きではなかったし、それが目前に迫ってくる晩秋は正直なところ少し憂鬱だった。

「なあ、俺がマリア役て、なんでなん」
「そら、ウチの学校には男しかいてないからやんけ、男子校なんやし」
「せやない、俺はもう去年マリア役やってみそぎは済んだはずやてことを言うてるねん、やのになんで俺が今年もマリアやねんて。そもそもアレは毎年まだシモの毛も生えてへんようなちょっと可愛い一年がやるモンやんけ」
「アホ、高校部全域を見渡して海星が一番かいらしい、マリア役に適任やて実行員会が満場一致で決定したことやんけ、マリアが二年続投なんて高校部史上初のことやねんぞ、めっちゃ名誉なことやんか、俺もヨセフ役二年続投なんやし、俺と一緒に思い出作ろうや」
「真との思い出なんかもうありすぎて俺のストレージが一杯や、むしろちょっと消去させてくれ」
「うわ、冷たいなァ、俺らもう十七年の付き合いやんけ、大親友やろ?」
「しらん、そんなん別に俺んとこの母ちゃんと、おまえんとこの母ちゃんが友達やっただけやんけ」

真と俺は母親同士が高校の同級生で、母親達は今も親しい友人同士だ。俺の母親は大学に進学した後十年程、この土地を離れたものの結婚してまた地元に戻り俺を産み、真の母ちゃんは別の土地に移ること無くずっとここで暮らしている。お陰で俺と真は赤ん坊の頃からずっと一緒に育った。

それで、俺が真とは別の友達に誘われて日曜日に近くの教会の教会学校に通うようになると、真もすぐに「なんなんそれ俺も行く」と言って毎週日曜俺と一緒に教会学校に通うようになったし、俺が小四で中学受験をすることを決めて、駅前にある中学入試専門の学習塾に通い出すと、真はまた「俺も行く」と言って俺にくっついてそこに通うようになった。真の言い分はいつもこうだ。

「海星がやるなら、俺も一緒にやりたいやんけ」

真の両親は市内で焼き肉屋を二店舗と精肉店を一店舗経営している。プロレスラーみたいな体躯の真の父ちゃんはその見た目に反して少し気弱な、でもとても優しいおっちゃんで、焼き肉屋の美人女将として近所ではちょっとした有名人である母ちゃんは昔から俺にとても優しいが真はいつも『地獄の番犬』と呼んでいる。それでも二人とも、真がやりたいと言い出したことはなんでもやらせる、頭ごなしの反対はしない、出来得る限りの応援をする、そういう両親だ。だから真が俺と中学受験専門の学習塾に行くと言った時、入塾テストを俺と一緒に受けた真は入塾を一旦保留、言い換えると遠回しに断わられてしまうような成績だったのを

「そんなもん六年の冬までにベンキョーが追い付いたらええことや」

そう言って半ば強引に塾に放り込んでいたし、真が小六の時の担任講師に「それはちょっと難しいというか…」などと随分渋られていた志望校も「オマエはやれば絶対にできるヤツや」と言って、散々な合格判定テストの結果も担任講師の反対も一切気にせず入試会場に笑顔で真を送り出し、真はその全く根拠のない「俺はやればできるヤツ」というほぼ虚構に近い自信と両親の惜しみない応援を糧に俺と同じ私立中学に合格、晴れて俺と一緒にそこに入学した。

そうやって十七年間ずっと俺の隣にいる真は、とにかく無垢というか、無辜というか、呑気で鷹揚で、というよりは大らかすぎる性格をしていて、俺からすると

「なぁ、オマエって、悩みごととかないんか?」

真顔でそう聞きたくなるような性格の高校生に育った。食い物屋で注文を間違われても絶対怒らず、街で見かけた迷子らしいちびっこ子には秒で「オッ、どないしたん」と膝をついて話しかけ、電車で杖をついているじいちゃんが立ってればその人に座席を譲ることを一瞬も躊躇しない、そういう十七歳になった。あまり本人の前では言いたくはないが物凄くいいヤツだ、みんななんだかんだ言って真のことが好きだ。だからこのクリスマスページェントの準備の時も、実行委員が全員総がかりでバザーの会場割りだとか、チラシの印刷枚数と台割、それから舞台のタイムスケジュールを作成している横で真が突然

「なあ俺のツレが今、学校の実習でクッキー焼いてるんや。そいつの学校、職業訓練て科目があって商品になるクッキーとかジャムなんかを作るねん、そんで自分で焼いたクッキーを俺にくれてん、それがめっちゃウマいねんな、せやからソレ仕入れてクリスマスページェントの日のバザーで売ろうや、絶対売れるって」

そう言った時、最初クリスマスページェントの実行委員のメンバーは俺を含む全員が「オマエは何を言うてるんや」「アホかこの忙しい時に」「これ以上やること増やしなや」と言って強く反対した。第一バザー用物品の仕入れは父母会の仕事だ、そうでなくても期末考査とこのクリスマスページェントの準備期間が丸被りしていて、皆それなりに逼迫しているし、降誕劇に関わっているやつにはその練習もある。

それでも真が「せやけど…ウマいねんもん」と教室の隅にあからさまにわざとらしく体育座りをして泣きまねをし始めると皆、ため息をつき頭を掻いて渋々真の提案の一部を飲んだ。

「しゃあないなァ、ほな検討するから一度そのクッキー?俺らにも持ってきてえや、ウマいんやろ」

すると、その巨体を折り曲げて部屋の隅に虫みたいに丸まっていた真はパッと顔を上げて、ちょっと頭の悪い柴犬みたいな笑顔で言った

「ありがとう、心の友よ、ばりくそウマいで」

 

「心の友て、オマエはジャイアンか。俺らにいらん仕事ばっかり増やして」

校門を出た瞬間、俺は自分の二十㎝程上空にある真の頭を拳で小突いた。精肉店の長男として栄養豊富な環境で育てられた真は中学二年頃から毎年筍のようにすくすくと背が伸び出してその上背は今や一九〇㎝に迫る勢い。俺を含む周囲からは「その身長のせいで頭に栄養が行かへんのや」「デクノボーってこういうヤツのことか」などと言われている。皆やっかんでいるのだ、真が九等身はあろうかという体格で、手足がケタ違い長く、それがとにかく人目を引くものだから。

「ええやんか、これで光が儲かるやろが」
「アホ、なんぼクッキーがバザーで売れたかて、光個人が儲かる訳とちゃうやろ、収益は全部学校のモンや、それかって千個売っても儲けなんか雀の涙や」
「ほしたら、その雀の涙でお高級な小麦粉とかバターとか、そういうモンを学校で買うてもろてやな、あのウマいクッキーをまた更にウマくしたらええやんけ」
「うわ、こいつなんか突然マトモなこと言いよった」
「俺は常に正しいことしか言わん。せや、このこと伝えにちょい早めにバイトリーダーのとこ行こうや、弟の激ウマクッキーが大々的に世に出るチャンス到来やぞって、真里亜に言いに行こ」
「ええけど、店ではちょっと話すだけにしとけ、前みたいに仕事の邪魔してみ、真里亜からゲンコツ貰うで」

時刻は午後七時の少し前、冬の入口の季節のこの時間は夕の茜色がその余韻をひとつも残すことなく消え去って、特に背後に古い社とそれを囲むように森のある学校の周辺はしんとした暗闇になる。

校舎に掲げられた校章の星だけがほんのり浮かび上がる学校を背にして、俺達は二人明るい駅前を目指した。

俺と真が真里亜のアルバイト先に「なんやしらんけど突然ポテトが食いたくなったんや」とか「今ハッピーセットがリカちゃんやしな」なんてしょうもない理由をつけてはそこに入り浸っているのは、真が真里亜に会いたがるからだ。俺も真里亜に会いたいか会いたくないかと聞かれれば、まあ会いたいので、真の部活が終るのを待っていつも真について行っている。

真里亜は俺達よりひとつ上の、市内の公立高校に通っている高校三年生で、その弟の光は俺達と同い年、光は特別支援学校の高校部の二年生。二人とも真と同じで、赤ん坊のころからの付き合いになる。

真里亜の母親と、真の恐怖の母ちゃん、そして俺の母親は三人とも高校生の頃からの友人だった。真里亜と光と俺と真、四人は年が近いこともあってよく一緒に遊んだし、小学生の途中まで俺と真が通っていた教会学校に最初に俺を誘ったのは真里亜だ。真里亜は気が強くて頭の回転が良くその分弁も立ち、仮に口喧嘩なんかしようモンなら、今、確実に腕力で勝てるはずの真も「真里亜と喧嘩なんかようやらん、アイツの口で精神的に殺される」と真顔で言う位で、俺も、今日まで真里亜に逆らったことはない。

でも弟の光の方は昔からあまり喋らない、というより光は六歳くらいまで緘黙状態でひとことも話さなかった。光は六歳の夏に俺達四人とそれぞれの母親達、七人で遊びに行った京都の鉄道博物館の鉄道ジオラマの前で突然言葉らしいものを話し、その記念すべき一言目が「新快速」だったことは俺もよく覚えている。

その当時の光のボキャブラリーといえば環状線だとか東海道線、それから地下鉄なんかの駅名といくつかの電車の車両名で、今はもう少し言葉を話してくれるので会話らしいものが成立しないこともないが、六歳だった当時の光は本当に駅と電車の名前しか発語がなく、俺はそんな光の様子にちょっと戸惑っていたが、真は

「光すげえなあ、天才か?なんでそんなに駅名ばっかり覚えられるねん」

そう言って、これまでひとつも話をしてくれなかった光が突然アップデートされ、路線図だけで構成された言語を獲得してそれをくり返し口にすることをただ無邪気に喜んでいたし、何時間でも熱心に光との会話とも言えない会話に付き合っていた。それだからか、光が最高に機嫌の良い時は大阪メトロ御堂筋線、特に可もなく不可もなく普通という時には環状線、何もかもやる気が起きないと言う時にはJR琵琶湖線、悲しみに暮れている時は大阪メトロ谷町線の駅名をひたすら復唱し続けるという、光の言葉の法則を最初に発見したのは真だった。

多分あの当時、光の家族以外の人間で光と一番意思疎通が取れるのは真だったはずだ。知らない人や知らない場所でひどく緊張してややもすれば壁に頭を打ち付けたり、手直にあるものを力任せに噛んだりしてしまう光は、真と俺といる時は比較的落ち着いていた。

「よく見知った、慣れてる人が近くにいると光は安心するんよ」

真里亜はそう言っていた。そんな光とは、夏休みなんかに母親達に連れられて一緒に旅行にも行ったし、教会学校の時は真と光と俺が大体セットで小礼拝堂の長椅子に座って、互いの家に泊まって遊ぶこともしょっちゅうあった。

それがある時から糸が切れるようにぷつりと無くなってしまったのを俺は、真里亜が高学年になって、俺達みたいな年下の男子とはもう遊びたくない年頃になったからで、かつ俺達も中学受験の準備に入り、土日にも模試だとか特別授業なんかがしょっちゅう入って忙しくなってしまったからだと思っていた、そのせいで毎週通っていた教会学校にも行かなくなってしまったし。

だから、俺が小五になった丁度今頃、塾の合格判定模試の帰りにコンビニで肉まんを買って齧りながら、ふと真里亜と光のことを思い出して真に

「真里亜と光って最近どうしてんのかなァ」

夕暮れの空に立ち上る白い息と一緒に吐き出すようにそう言った時、真が少し躊躇しながら、真里亜と光がもう俺達の住んでいるこの街にいないらしいと俺に教えてくれた時は驚いた。真は「海星、オマエなんか知らんの?母ちゃんになんか聞いてへんの?」と俺に聞いたが、そんなこと俺は自分の母親からも父親からも、何ひとつ聞いていなかった。

「いや、聞いてへんし知らんでそんなん、真おまえ、真里亜と光が引っ越ししたなんてこと一体誰に聞いてんや」
「いやうちの父ちゃんと母ちゃんが昨日の晩そんなこと話しててん、光の父ちゃんの…なんやったかなァ、ホラ…なんとかて会社がアカンくなって、父ちゃんが逃げて?いや母ちゃんの方が逃げたんやったかなァ?とにかくなんか知らん間に引越ししたんやって」
「光の父ちゃんて、社長さんやってんやろ、ほしたら会社が潰れてしもたんか?そういうこと?」
「…そうなんかなあ、光も真里亜もおばちゃんも、あの白い家にいられんなったんやて。母ちゃん、めぐちゃんが可哀想やて父ちゃんの前でおんおん泣くねん」

めぐちゃんと言うのは、光と真里亜の母親のことだ。小柄で手の甲にえくぼのあるふっくらとした見た目の通りの、おっとりとした気性の優しい人で、一方の配偶者である光と真里亜の父親は、痩せて険があるというのか、酷く威圧的な雰囲気のある神経質そうな男だった。俺や真里亜や光が家に遊びに行くと「来たなァチビども」と言って店の厨房でソフトクリームを作ってもなしてくれる真の父ちゃんや、真や真里亜や光が俺の家に来ると「よっしゃみんな行くか!」と言って全員を車に乗せて、どこにでも連れて行ってくれる俺の父親とは違い、実子である真里亜と光のことすら煩わしそうに遠ざけ、俺なんかは普段ほとんど顔を合わせることがなかった。その人がいなくなって、真里亜と光は、どこか別の所に引き移ったのだという。

「あんま喋られへん光はともかく、なんで真里亜は引っ越すことになったんやーって、俺らに教えてくれへんかったんかな…」
「さあなァ…」
「てことは真里亜、中学受験もやめたんか、模試の成績とかばちくそ良かったのに、アイツ、四天に行くんやってめっさ勉強頑張ってたやん」
「多分なァ…」
「ほんでも、引っ越すことくらい教えてくれてもええやんなァ」
「せやなァ…」

一体どうして、ずっと実の弟と同じように俺達に接してくれていた真里亜と、意思疎通がうまくいかないことがあっても俺達と三つ子の兄弟にみたいにして育ってきた光が、俺達に何も告げずに俺達の前から突然姿を消してしまったのか、それを当時まだ小五だった俺と真はひとつも理解することができなかった。夕暮れのバス停でただ口を開けて「なんでやろなァ」を繰り返す俺と真の掌の中で、コンビニで買った肉まんが冷えていった。


真里亜が俺達に事情も理由も言わずに、さよならとも言わずに煙のように俺達の前から消えてしまった理由を理解できたのは、俺が高校生になってからだ。

当時俺達よりひとつ年上で、普通とはやや違う性質と特性を持つ弟の光の面倒をいつも見ていた真里亜は、あの頃既に大人のような分別があり、例えば街中で光が突然暴れたり、トイレが間に合わずに粗相をしたりしてもすぐに対処ができてかつ周囲の、手を貸してくれた大人達にお詫びと御礼のできる、実年齢を遥かに凌駕した、ひどく大人びた12歳だった。

だから自分の父親が会社を潰し、その負債をすべて妻に押し付けて自分と光を捨てて逃げ、それでこれまで暮らしていた広い芝生の庭のある白い家を売ることになり、ずっと準備してきた中学受験もできなくなって公立中学校に行くことになったのだということを、年下の幼馴染である俺達に包み隠さず告げて「可哀想やなァ」なんて憐憫を向けられることや、そのことで色々と気を使われたりすることを嫌ったのだ。

真里亜はそういうヤツだった。しっかり者で、気が強く、光だけでなくみんなの姉ちゃんだった。

だから俺達が高一になった四月の土曜日、満開だった桜が明け方の雨できれいに散り、そのすべらかな花びらで歩道が薄桃色になっていた日に、土曜授業の後、寝坊して朝飯を抜いて来たらしく、完全に飢餓状態で震えてさえいた真が「今ここで何か食わへんと俺は死ぬ」と言って煩いので、目に付いた入ったマクドナルドに入った、その店のカウンターに真里亜が立っていたのだ。五年ぶりに真里亜の姿を目にした時、俺は冗談も誇張でもなく暫く息が止った、そして次に

「真里亜か?元気やったか、今までどうしてたんや」

そう叫んで真里亜に駆け寄りたい衝動が頭から足先まで電流みたいに走った。けれどあの十二歳だった頃の真里亜の心情を思うと、ここは当たり障りなく「おう、久しぶり」なんてごく冷静に軽めの挨拶をするのが正解なのか、むしろ目の前の人が真里亜であると気が付かないフリをする方がいいのか、仮に挨拶をするとしても大げさに騒げば真里亜は嫌がるかもしれないし、そもそも真里亜は今バイト中だろうと、レジの列に並んで順番待ちをしていた俺は三分程の間、真剣に悩んでいた。

ただこの時の俺は自分の隣にそういうことを一ミリも考えない性質を持つアホが割引クーポンを探してスマホをじっと睨んでいたことをすっかり忘れていた。

「うわ!おま…真里亜やんけ!」

カウンターを挟んで俺と真、そして真里亜が向きあった時、やっと注文を決めてそれを店員に伝えようと顔を上げた真が、マクドナルドの制服を着ている目の前の真里亜を見て躊躇なく大声で叫び、次いで驚いて固まった真里亜の両肩を掴んで自分の方に引き寄せようとしたので、俺はそれを慌てて止めた。

「アホ、それではただの痴漢か暴漢や!それにオマエの前にはカウンターがあるやろが、そっから引っこ抜く気か、真里亜を」

真里亜は最初、目の前の背の高い男子高校生の突然の咆哮に驚いて目を丸くしていた。でも目の前で叫んだ男子高校生とそれを止めている同じ制服のもうひとりが一体誰と誰なのかをすぐに理解したらしい、カウンター越しに腕をにゅっと伸ばして、前かがみになっている俺と真の額を続けざまにがちんごちんと叩いた

「あんたらうるさい!他のお客さんの迷惑やろ、ホンマに変わってへんなァ、大体なんなん真のこの異様なデカさ、もはやゴリラやんか」

真里亜のゲンコツを受けたのが五年ぶりだった俺達は、なんだか妙に嬉しくなり互いに顔を見合わせてへへへと笑った。すると真里亜もまた、あんたらなに笑うてんねんと言って嬉しそうに笑った。

「真、海星、今日暇?あと三十分待っててくれる?うちもう直ぐ上がるから」

真里亜はそう言って俺達をバイトが終わるまで待たせ、その日、本当に久しぶりに俺達は三人並んで一緒に帰った。そうやって午後の白く明るい陽光に照らされた桜並木の下を歩きながら、真里亜は真里亜の家族が今どうしているのかを話してくれた。光が元気に特別支援学校の高校部に通っていること、自分が市内の公立高校に通っていること、あの時真里亜と光を連れて逃げるように街を出た優しい真里亜の母ちゃんが今元気に税理士事務所の事務と小さなスナックというのか、飲み屋みたいな店の手伝いをしていること、あと真里亜たちを捨てて消えてしまった父親のことは。

「どこにおるか知らんねん、いまだ行方不明で生死不明。うちとしては南港に沈んどることを真剣に願ってるけど」

などと物騒なことを言っていた。そしてあの時、事情も言わずに挨拶もせず、逃げるように引っ越しをしてしまった不義理を、いつも良くしてくれた俺達の両親に詫びたいとも言った。

「いつかうち、ちゃんと挨拶て言うかお詫びに行く、とにかく今日、あんたらが家に帰ったら、おじちゃんとおばちゃんらに、ほんまにすみませんでしたって、言うておいてな」
「なんで?なんで真里亜が謝るん?うちなんかいつでもアポなしで来たらええねん、オマエならソフトクリームも肉も食い放題やぞ、なあ海星」
「せや、うちの親かて真里亜の顔見たら絶対、喜ぶわ」

 そんな昔のことなんかはもうどうでもいい、俺はあの日の十二歳だった真里亜が高校生になっていて、そしてこの日偶然再会できたという事実がただ単純に嬉しかった。真もきっとそう思っていたはずだ。

「光のクッキーな、クリスマスページェントで販売できると思うで、バイトリーダー」
「え、ほんま?実行委員会てそんな権限あんの?すべてにおいての決定権が?」
「決定権はないねんけど、実行委員がここのクッキー仕入れて売りたいですって父母会に依頼することはできるねん、言うてもまだ実行委員の連中に試食してもらうことになったてだけなんやけどな、せやしこの段階で大口叩くのやめとけ真」
「そんなん、あんだけウマいんやし絶対満場一致でいけるて、それに俺んとこキリスト教の学校やろ、アレやアレ、りん…りん…」
「隣人愛」
「それ、互いに愛し合わなあかんねん、光の学校のやつらとも。それに実行委員がええて言うたらあとは校長に直談判でイッパツや、なんせ神父やしな猪木は」
「真、それ本人の前で言うなよ。真里亜、校長は猪木て名前ちゃうぞ、アントニオや、メキシコ人」
「それ、あたし前もおんなじこと聞いた気がする、そん時真は校長先生のことボンバイエて言うてた」
「猪木、ボンバイエ、どっちでも通じるねん」
「ボンバイエとか言うてんの真だけやぞ」

いつものように真里亜のアルバイトの上がる時間に合わせて真里亜を迎えに行き、真里亜にちょっかいをかけ、注文したポテトだとかチキンを齧り、真里亜のバイトが終わるのを待って真里亜を自宅に送る、その時に真が以前光に貰ったクッキーをクリスマスページェントのバザーで販売できるように掛け合っているのだと真里亜に伝えると、真里亜の口ぶりはいつも通りの素っ気なさだったが、うす暗闇に俺と真の顔を交互に見上げた真里亜の顔は「まあ…そうなるなら光も喜ぶやろうけど」なんて結構嬉しそうだった。

「でもそれ、ちゃんと全部が決まってから光に言うてよ、かもしれへんて段階で言うてしもて、やっぱあかんかったってなったら、あの子そういうのホンマに落ち込んでしまうんよ」
「判ってる、それはやらんて。だってあいつそうなったらずっと壁に向って、八尾、長原、出戸、喜連瓜破きれうりわりて谷町線の駅を、守口までひたすら呟いてまた折り返すやろ、あれ見るとまじでゴメンて思うし、なんかこう…罪悪感ていうか、鳩尾の辺りがギュッてなるねん」
「まあ、これまで光の学校の子らの作った木工品とか手芸の商品とか、そういうのは卸してもろてバザーとか学園祭でも売ってたことあるから、食品かて別にいけるとは思うけどなァ」
「海星がそう言うなら、間違いないとは思うけどな」
「なんやそれ、なんで俺が言うたら間違いやとか思うん」

俺達が時々真里亜のバイト上がりに家まで送って行くようになったのは、三ヶ月程前に真里亜が付き合っていた男と別れてからだ。真里亜とその男が別れる時少し揉めたらしく、真里亜のことを諦めきれないそいつが真里亜のバイトの帰りに真里亜の家までついてくることが何度かあったらしい、それを聞いた真は、真里亜を家まで送ると言い出した。

「真里亜になんかあったら、俺がそいつのことボコボコにしたるねん」

そんな風に息巻く真は、中学部からラグビー部でポジションはスリークオーターバックス、足が嘘みたいに速い上に力もゴリラ並みに強い。それで俺が「やめとけ、真が本気だしてそいつのことぶん殴ってみい、一歩間違ったら殺人事件や」と諭すと、今度は

「そうなったら、死体は俺の家の業務用冷凍庫に隠しとくから海星は黙っといてくれな」

などと物騒なことを言うもので、結局俺も毎回真について行っていた。

真里亜が付き合っていた男というのは、高三になってすぐの新入生のオリエンテーションの実行委員を真里亜と一緒に勤めて、それがきっかけで親しくなった真里亜の高校の同級生だった。俺達は真里亜からそれを直接聞いた。「まあ、アンタらと違てうちは共学やしな」と共学マウントを取る真里亜に俺達は

「男子校馬鹿にすんなや」
「お前ら受験生ちゃうんか、なめんな」

なんて散々ふざけて悪態をついてついでに「俺らとザリガニ釣ってた真里亜がなんやしらん、大人になってしもた」などと揶揄いもしたが、実際のところ俺は妙に淋しいような気持ちになっていたし、真なんかあからさまに真里亜の相手に敵愾心をむき出しにしていた。

「なあ海星、真里亜って性格はともかく顔だけ見たらまあまあの美人やろ、あれは共学ではモテるわな。せやけど顔だけで女を選ぶ男に碌なヤツはおらんで、人間ハートが大事や」
「ていうか『なんとなく』付き合うてなんなんやろな、なんとなくて。そいつはハナから真里亜狙いで新入生オリの実行委員とかやってたんちゃうか、邪道やろ、新入生オリなめんな」
「そいつ志望校どこよ、関関同立の推薦狙いとかならハナで笑うたるわ、あいつらより偏差値だけやったら俺らの高校の方が上なんやぞ」
「アホ、オマエがその関関同立推薦狙いやんけ、それに真の成績なんか学年のドンケツやろが、スポ推の概念がこの世になかったらオマエなんかFラン決定や」
「その辺は旧帝大クラスを既に射程圏内にしとる海星が勝負しといてくれや、俺は拳で勝つねん」

十二歳から今までずっと男子校で育ち、そういう男女の間にある色々を遠い外国の出来事のような、お伽噺の中の絵空事であるように感じていた俺と真は、真里亜のいない所で相手の男について散々悪態をついた。真も俺もなんとなく、面白くなかった。

でも二学期になって少し経った頃、俺達が真里亜のバイト先に顔を出し、バイト上がりの真里亜と一緒に街路樹が長い影を作る夕暮れの中を歩いている時、俺達の半歩前を歩く真里亜がひとつも面白くないが別に傷ついている訳でもないという声でぽつりと「別れたんよ」と言ったのだった。

それを「そっかー」とひとことでさらりと流しておけばいいものを、真が「え、なんで?なんかあったん?もしや振られたんか?」なんて明らかに嬉しそうな声で真里亜にその詳細を聞き返したので、俺は30㎝あるまな板みたいな真の足を脊髄反射の速度で思い切り踏んづけていた。しかし真はとにかく天真爛漫で天衣無縫のアホだ

「痛ェ!なんで踏むんや、海星のアホ!」

真は俺に文句を垂れるだけで、俺の行動の意図というか本意にはひとつも気づかない(コイツほんまにアホやな、一ぺん死んでこい)俺はそう思った。そうしたら真里亜はちょっと笑って、例の同級生の男と別れた理由を話してくれた。

「光をな『キモい』とか言いよったんよアイツ、せやから」

九月の始め、近くの河川公園ちょっとしたイベントがあった。特設ステージにこの街が地元になるお笑いタレントが司会者として登壇し、可愛いのか可愛くないのかひとつも分からないゆるキャラの着ぐるみがやって来て、近くの大学のチアリーディング部が踊り、幼稚園の鼓笛隊のちびっ子が演奏を披露する。河川敷にはフードトラックと屋台がずらりと並び、夜7時からはイベントの締めくくりの打ち上げ花火があがるという、結構盛大なやつだ、街を上げてって感じのやつ。そこに真里亜とそいつは一緒に出掛けたらしい。

「デートか」
「デートよ、なんやの、悪いん?」
「真、そこに突っかかんな、そんで何?真里亜はその日に男と別れたってことなんか?」
「そ、あん時な、光もそのお祭りの会場におったんよ」

同じ日、その会場の一角で、光の通う特別支援学校の生徒らが店を出して、授業で製作した陶器のコースターとか陶器のベルなんかを並べて売っていた。商品の製造から販売、接客、金銭のやり取り、すべてを通しで学ぶ校外実習なのだそうだ。まだ夏の名残の残る日差しの中、光と光の同級生たちがちょっとゆっくりとした動きと言葉で、時にやや大声で、額に大粒の汗をかいて教員と一緒に店を切りまわしている様子を見たそいつは

「うわ、キモ、おれああいうのまじで無理」

吐き捨てるように、そう言ったのだそうだ。

俺は赤ん坊の頃から光を知っている、だから今更光のことをそんな風には思わない。でも自分とは明らかに違う雰囲気を纏う光達を見て、ちょっと面白いような、それでいて恐ろしいものを見た時のように「キモ」と言ったそいつの思考というか感覚は、やっぱり分かってしまうのだ。

勿論そんなこと、真里亜には言わないけれど。

人間は未知なるものを嫌悪するものだ。実際光は、酷く緊張したり驚いたりすると叫んだり、壁に強く自分の頭を流血する程ぶつけたりすることがある。それを事情を知らない人がそれを見たら、やっぱり怖いと思うのかもしれない。あの独特な喋り方も、こちらに視線を合わせてくれないところなんかも。しかし真は俺の隣で腕組をして唸り、そして心底わからんと言う顔でこう言ったのだった。

「なんやそれ、ソイツは一体何を言うてるねん、ぜんぜん意味がわからへん、光の学校の子らのことをひとつも知らん癖に突然そんなこと言うオマエの方が確実にキモいやろ」

そうして俺に「なあそいつ、滅茶苦茶ハラ立つから大川の堤防とかに呼び出して俺と海星でボコろうや」などと言い出したのでそれはやめとけと俺は真に言った、犯罪は割に合わへんぞと。

「いいか真、世の中にはそういうオマエとは別方向に頭の貧しい残念なやつもおるねん、聞き分けろ」
「なんや、最後は俺の悪口か!」

真里亜はこの話をした最初、いつもと違う抑揚のない声で、俺達を振り返ったその顔も普段の強気な眉がやや下がり、情けないような心もとないような捨て犬みたいな表情だったのが、俺達のやり取りを聞いて徐々にいつもの真里亜の顔を取り戻し、俺がそいつを評した「頭の貧しいやつなんや」というひとことを聞いてゲラゲラ笑いだした。

「あんたらがいてると、和むからええわ、あー落ち込んでたのがアホみたい」
「やろー?」
「やめてえや、真のアホを見てると和むってことにしてくれ、俺のことまで巻き込まんといて」
「しゃあないやんか、真と海星はうちの中でニコイチやねんから」
「ニコイチてなんやねん」

真も笑って俺も笑った。でもそうやって笑いながら、俺の頭の中には真里亜が今背負っているものがいくつもいくつも頭の中でぐるぐる回った。

普通に生活していくのに常に誰かの手助けが必要になる弟の光のこと、父親が遺した借金がまだ結構な額残っているらしいこと、それで中学受験に続き大学受験もまた諦めようとしているらしいこと。

それと真と俺、真里亜と光、神様か誰かのほんのすこしの気まぐれな匙加減で、俺達の運命のようなものがきれいに別れてしまっていることの理不尽について。

月曜の午前、週に一度ある聖書の授業というのは、俺達にとって分厚い聖書の影で他教科のテキストを解くか、または寝るか、真に関しては家から三つ持ってきている弁当の内のひとつを食べるための時間だった。アントニオ先生は神父という職業柄か生まれ持った性格なのかは知らないが、普段からまず怒らない人で、例えば小腹をすかせた真が授業中、聖書の影でこそこそと菓子パンだの弁当を食べているのを見つけても

「神様の言葉は耳に入ればかならずアナタの心の中に残るものです、食べながらでも、眠りながらでも良いので、みなさんどうぞ聞いていてくださいね」

そう言って、飯を頬張ったまま固まっている真に向ってぱちりと片目を瞑り、真の早弁を笑顔で黙認してくれる。それで真なんかはアントニオ先生を「仏の猪木」と呼んでいて、それをクラスの連中から「真のアホ、アントニオ先生は神父や」と笑われていた。でもクリスマスページェントを間近に控えたその日、校長であるアントニオ先生は、その大柄な体をゆすって教室に入ってくるなりこう言ったのだった。

「サテみなさん、僕はいつも、この授業で皆さんがどんなことをしていようとあんまり、咎めることをしなかったんですけれどもね、今日だけは僕の顔を見て、ちゃんとお話を聞いてください、君たちにとってとっても大切なコトをお話ししますからね」

南米の人らしい、眩しいくらいに明るい笑顔と大きな身振り手振りで今日はちゃんと話を聞きなさいと言うので、俺は桐原の速単をそっと机に仕舞い、真は取り出しかけていた弁当の袋をカバンに静かに戻した。アントニオ先生は今日、イエス・キリストの誕生物語について話をしたいと言い、教室に詰め込まれた四十人の俺達を前にしてまずこう切り出した。

「ええとねェ、君たちは今クリスマスページェントの準備を、とても頑張っていますね。みんなでイエス様の誕生をお祝いする、とてもいいことです、素敵なことだと思います。ではねェみなさん、クリスマスの降誕劇の中に出て来るマリア様は一体何歳であったのかなって、そういうこと、考えたことはありますか?」

新共同訳聖書を片手に持って掲げながら突然、イエス・キリスト誕生の時、その母、マリアは何歳であったかという質問を繰り出したアントニオ先生を見つめながら、教室の中の四十人はきょとんとした顔をしていた。中にはもう五年程使っているはずなのにひとつも手垢のついていないまっさらな聖書を捲り出す奴もいたが、大体は当てずっぽうに「二十四歳くらいちゃう?」「いやもうちょい若い?」「まあ…二十代のどっか?」などと答える声が教室のあちこちから上がった。

「まあそうですねえ、今の日本でしたら女性が結婚して、最初の赤ちゃんを産むのは平均三十歳前後くらいですよねえ、今誰かが言った二十四歳でもチョットお若いママさんですねーなんて、言われますねえ。でもこの時のイスラエルで、女の子が結婚する年齢というのは大体十四歳から十六歳くらいで、今の君たちよりチョット年下の、中学生の女の子位の年齢だったんです。ですからマリア様もきっとそのくらいの年頃であったんでしょうねェ」

アントニオ先生の言葉に教室の中はややざわついた。クリスマスページェントを冬の学園祭のようなものだと思っていた俺も他のやつらも、マリアという名前の十四歳だか十六歳だかの女の子の身の上を考えたことは、これまで一度もなかった。皆それをやや脚色された史実であるというよりは、完全なフィクションだとさえ思っていた。

「てことはヨセフは女子中学生に手を…」
「それあかんやつや、オイ、真、それはハンザイやぞ」
「なんで俺に言うねん」
「アウトかセーフかはヨセフの年齢によるんちゃうか」
「いやヨセフは俺が見たとこオッサンや、髭が生えとった」
「オマエ、ヨセフ本人を見たことあるんか、二千年前の人やぞ」

いくつもの意見というよりかは雑談に近い言葉が飛び交い、ついでに降誕劇ではヨセフ役である真が妙な貰い事故をした。その様子をアントニオ先生はにこにこと眺めながら頷き「そうですね、現代に即した場合、マリア様は非常に若い年齢で出産したことなりますねェ」と言った。

「と言っても、このころマリア様とヨセフ様というのは婚約中で、まだ正式な夫婦ではないのです。そして当時のイスラエルでは例え婚約していようと婚前の男女が性的に交わるなんてことはあってはならないことでした、それなのにマリア様は妊娠してしまった、聖書にはそれは精霊によってなったと書いてありますけれど、まあそんなことはね、僕が言うのもナンですがそうあることではありませんから、マリア様はもしかするとヨセフ様の他に想っていた人があったのかもしれませんし、もっとこう…暴力的な方法で妊娠してしまったのかもしれません、とにかくマリア様は望まない妊娠をして、それを婚約者であるヨセフ様に黙っていられなくて打ち明けた。ヨセフ様も最初は悩みましたね、だって当時姦淫は罪です、バレてしまえば石打ちです、それでヨセフ様は一度、マリア様のことを責めずに、そっと婚約関係を解消しようとしました。ホントウならもっと怒っていいんですよ、これは裏切りです。でもそうしなかった、さて、それはどうしてでしょう」

どうしてと聞かれても、十二歳で男子ばかりの学校に入学してそのまま十七歳まで過ごし、思春期と呼ばれる時代に女子との学校生活をひとつも経験してきていない俺達は首を捻るばかりだった。婚約どころか日々半径五メートル圏内に女子がひとりも居ないような環境で、ヨセフが婚約者の裏切りをどうして許したのかなんてことは俺達には想像もつかない。

「それはね、彼がとても誠実な人だったからです、良い人なのですよ、ヨセフ様という人は。律法に対して正しく、人に対して誠実なのです、誠実な人は何より自分を信頼しています、そして自分を信頼している人は他者に対して寛容です。ではあなた方がもしヨセフ様なら、どうしますか、エート…このクラスの男の子達には、いまお付き合いしているすてきなパートナーがいる人、いますね、ホンのすこし、チョーットくらいなら」

アントニオ先生の言葉に教室にはさざ波のような笑い声が起きた、いや失笑か。俺が知る限りこいつらは俺も含めて面白いくらいモテないのだ、そういうのは同じ市内のサッカー強豪校の連中に根こそぎ持っていかれている、それを歯噛みしながら皆いつも「いいねん俺らは大学行ったらモテるねんから」と言い続けている。そして俺は多分それはないやろと思っている。

「今、すてきなパートナーがいる人も、そうでない人も考えてみてください。あなたのパートナーがどうやらあなたの子ではない赤ちゃんを妊娠した、でもそれは暴力的な方法によって起きたことだった。もしくはあなたの子どもを妊娠したのだけど、あなたもパートナーもパパとママになるにはチョット若すぎた、それから…そうですね、障害を持って生まれることが分かった。それはアナタが背負いきれるものではないかもしれないですよね、むずかしいですよね、苦しいですよね、どうしますか」
「いや…アントニオ先生、今日重いって、そんなんはあと十年くらいしたら考えるわ」
「イイエ、大切なことですよ、あなた方はその気になればパパになることができる年齢になっているのですから、さあイマ、考えましょう」
「先生、でもその…俺らの架空の彼女?が、自分とは別の男の子を妊娠した話と、自分の子なんやけど、その…若すぎるとか障害があるとかそういうのはテーマとしては別々すぎや、命題が多すぎるって言うか」
「そうでしょうか、あなたの愛する人がその人にとって重すぎる荷を負った時、その人のパートナーであるあなたは一体それを共に負うことができるかと、そういうお話なんですよ?苦しみを共に背負う、それを目指すことがパートナーシップ、結婚ということですから。偉そうぶって、相手の女性に全部君に任すよと言うだけではいけませんし、俺は知らないよなんて言ってプイと逃げてもいけません。しかし実際には逃げてしまう人、とても多いですね、いけませんね、悲しいことです。でもヨセフ様はそれをなさらなかった、真実を知らない人々に正式な婚儀を待たず婚約者を妊娠させた男と思われることで、酷いことを言われたり、責められたりしたこともあったでしょう、しかしヨセフ様はマリア様を妻として受け入れました。さて、今十六歳か十七歳の君たちは、一体どうするでしょう」
「俺の子じゃないなら別にって感じちゃうか」
「避妊をせえ避妊を」
「障害児は厳しいな、俺にはちょっと無理」
「薄情モンか!」

教室のあらゆる方向から、ぼそぼそと小声の意見なのか独り言なのかわからない、いくつもの声が聞こえた。俺は顔だけは正面の教卓の方に向けて、目だけで何となく窓の外にあるヒマラヤスギを眺めていた。マリアの妊娠とヨセフの誠実が自分にとってはあまりにも現実味がない事柄であるというか、月よりも遠く、無関係な話だったからだ。

すると、俺のすぐ前で、俺の視界を遮っている巨大な背中が突然叫んだ

「俺は好きな女のことは全部受け入れる、俺はなァ、マリアの全部を背負ってこの世界を歩いたるぞ!」

真というやつは昔からそうなのだけれど、教卓の前の教師やクラス長が皆の意見を求めている時に、誰も口火を切ること無く、その場がしんとした静寂に包まれたり、逆にざわざわとするばかりで建設的な答えがひとつも出てこない雰囲気に耐えられないというか、そういう場の空気が妙に苦手でよくこういうことをする、分かりもしないのに適当な回答を叫んだり、少しふざけたことを言ったりするのだ。それでクラスの連中は笑い、肝心の議題や問題から脱線してしまう。案の定、この時も意見なのか決意表明なのか少しも分からない言葉を発した真にクラスの連中はワッと盛り上がった。

「流石はヨセフや」
「俺達とはハートが違うわ」
「男前か!」

またオマエかと言いながら笑うクラスの連中からは「ヨ・セ・フ!」というコールと拍手までが沸き起こった。ウチのクラスの連中はというか、俺と同じ年頃の男が集まると大体こういう意味のない大騒ぎや悪ふざけが始まる、特にコイツらは本当にこういう意味のないバカ騒ぎを好むのだ。それで俺は真がまたふざけているのだと思い、そっと真を背後からつついて小声で注意した。

(オイ真、相手は寛容が生業の聖職者とは言え人間であり校長や、授業であんまりふざけたこと言うてたら仮にスポ推であろうと来年推薦もらえへんなるぞ)

しかしアントニオ先生は真の言葉を聞き、心から愉快だという顔で笑い、両手をぱんと合わせてこう言ったのだった。

「そうですね、誰かの重荷をその人ごと背負って歩く、ヨセフ様がマリア様に対して実践した誠実とはそういうことなのです。そしてそれは神様の仰る愛のことなのですよ。張本君は素晴らしいですね、今言ったことをいつかあなたの愛する人の前できっと誓ってあげてください、そしてそれを、必ず実践できるあなたであってくださいね」

すると、教室からはすかさず真に向けてヤジが飛んだ。

「その彼女がこれまで一度もおらんのやもんな真!」
「うるせえな!」

真のひとことに皆また笑ったし、教卓の前のアントニオ先生も笑っていた、俺も遠慮なく笑った。

俺は真のこういう所が実のところとても好きだ。でもそれが一体どういう分類でどういう種類でどんな成分でどんな欲を伴った好きなのかということだけは一生、真には言いたくない。

そういう『好き』だ。

十二月の丁度真ん中の日、無事に開催の日を迎えたクリスマスページェントはまず開演前のバザーと出店、そして揃いの白いケープを羽織った幼稚園児たちのハンドベルの小さな演奏会で始まり、開場の十時から既に大変な盛況だった。

校舎の前庭に植えられたヒマラヤスギに色とりどりの灯りがともり、父母会主催のバザーと出店の会場になっている中庭を臨む一階の教室には、学校に関わりのある修道会のクリスマスカードや小さな陶器の聖母子像、フィリピンのスラムに暮らす子ども達の作ったフエルトのクリスマスツリー用オーナメント、学校の近くの作業所の人達の焼いたパンや焼き菓子、それからあの時「ばりくそウマいから食うてみてくれ」と真が実行員会に推した特別支援学校謹製のクッキーが整然と並んだ。


あの時、真が売りたいと言い出して、それで光にあらためて試食品を貰い、クリスマスページェント実行委員全員が試食した素朴なクッキーは、その場の全員をウマいなあと言って唸らせた。

「なんやこれウマ!」
「ママのクッキーやんけ…」
「やばいな、値段がこれ…一袋100円てオマエ」
「これ俺らと同じ高校生が作ってんの?安ない?地下に閉じ込められてクッキー作らされてるんちゃうか、ありえんやろこの味でこの価格」

結果、実行委員全員が満場一致でこれをバザーで販売しようということになり、まずはこのクリスマスページェントの最高責任者である校長に話を通し、その上で父母会に交渉をするという運びになった。父母会と交渉をすると言っても父母会の現会長は真の父ちゃんなのでそこは楽勝だ、俺達は校長さえ落とせばいい、それにあの寛容が服を着ているような人格者であるアントニオ先生に話を通すのは簡単なことだと俺はそう思っていた。実際アントニオ先生は俺達の提案を聞き、その場で即快諾してくれた訳だし。

「それは、とても良いことですね、君たちと同じ高校生が授業で一生懸命作ったものを君たちのイベントで販売する、素敵なことです、それならもうひとつ、あちらの学校の友人達にプレゼントを差し上げては」

アントニオ先生はそれは素晴らしいとグローブのような掌で俺と真の肩をばしばし叩き、それならば特別支援学校の友人達もクリスマスページェントに招待してはどうかと言ったのだった。

「彼らは近い将来の就業のために、色々な、木のオモチャだとか、焼き物だとか、お菓子なんか作る授業を受けているのですよね、それらの販売や接客もあちこちのイベントで実習もしていると聞いています、ならばうちの学校にも是非実習に来ていただきましょう、そうして君たちの舞台も見ていってもらえるといいなあと、僕は思うのですが」

アントニオ先生はその場で、光の通う特別支援学校に連絡を入れた。そしてそこからたった半日で光の特別支援学校へのクッキーの仕入れ数と、販売実習に参加する生徒、付き添いの教員、舞台を観覧する生徒教員の数が決まり、そのついでに

「当日、来ていただく皆さんのアテンドは実行委員会のみんなでしてくださいね、わが校の生徒として、行いの正しい紳士として、決してあちら様に失礼があってはいけませんよ」

などという校長命令を受け、真はまたひとつ実行委員の仕事を増やすことになってしまった。俺と真が他の実行委員の連中からつるし上げを喰ったのは言うまでもないことで結局、当日特別支援学校の販売担当の生徒ならびに教員への挨拶と案内は「真が言い出したんやから真がやるんがスジ」と言われた真と「真の保護者は海星なんやから、海星オマエも連帯責任や」という謎の理屈で俺と真が担当することになった。

とはいえ、初見の場所を全く得意としていない光が販売実習のメンバーとして当日参加することが決まって即、真里亜からも「あんたら、光のこと頼んだで」という厳命を受けていた俺と真は、クリスマスページェントの当日、特別支援学校から来校した生徒と教員、十人程を会場とバックヤードになる教室や控室、それからトイレの場所なんかを案内した後も、舞台の準備に取り掛かるギリギリまで、白い布を掛けて小さなサンタやトナカイの陶器の人形を飾った机の上に、丁寧にそして整然とクッキーを並べて販売する光達を近くで眺めていた。

「なんか…光って、真ほどではないけどデカいな、真里亜も真里亜の母ちゃんもあんなちっこいのにな、あとあんまこの喧騒に動じてないねんよな、光って昔はこういうとこめっさ苦手やったのに」
「真里亜が、光はもう昔の光やないのやでとか言ってたのって、見た目の話だけやないのやな、人間はちょっとずつでも変わるもんや、メタモルフォーゼやな」
「なにかしこぶってんねや真」
「かしこぶってへんわ、でも見てみ、俺らと一緒に教会の長椅子に座ってた頃の光なら、あんなとこ立たされたら今頃、谷町線か琵琶湖線や」
「せやな、山科、大津、膳所、石山、瀬田って早口で言い出してたか、そこの椅子か机に嚙みつくかしてたよな」
「あーせやせや、光って緊張して頭がワーッてなると色んなモン噛んでたな、俺もいっぺん噛まれたわ、ホラ教会のバザーの時やったかな、小一の。教会の前庭にジャズバンドが来たやんか、あん時、光がトランペットのでっかい音にびびってしもて、そんで俺の左腕のここんとこをガブーって」

自分の左腕をとんとんと指さしながら真は笑った。俺もよく覚えている、でもそれは笑いごとでは済まされない結構大変な事件だったはずだ。あの時の曲目は『in the mood』で、それのトランペットの大きな音に驚いて混乱した光が真の腕に噛みついてできた咬傷は、薄くすべすべとした子どもの皮膚を突き破って出血し、真はすぐさま近くの病院に担ぎ込まれた。それで暫く真の母ちゃんと真里亜の母ちゃんはぎくしゃくしていたはずだし、今も真の腕にはその時の傷が薄く残っている。確かあの時、最初光は大きな音に驚いて真里亜の首にむしゃぶりついたんだ。真はその光を真里亜から引きはがそうとして、噛まれた。

「変化のない人間なんか、いてないんやなァ」

なんだか妙にマトモなことを言う真は、俺達にちらりと視線を送った光に嬉しそうに手を振り、俺も一緒になって光に向かって小さく右手をひらひらとさせてみた。でも光は別に俺達に笑顔で手を振り返したりすることはない、代わりにごく決まりが悪そうな顔で俯き、両手をこすり合わせて拝むような仕草をする。あれは光が恥ずかしいとか照れくさいとか感じた時によくやる癖だ、前に真里亜がそう言っていた。

「光なァ、卒業したらああいうクッキーとかケーキとかを作る作業所てとこに就職して、いずれは光とおんなじような仲間の暮らしてる施設に入って、ひとり暮らしをする訳とはちゃうけど、そういう形の自立を目指すんやって」
「何やそれ、光がそんなことおまえに言うたんか」
「いや流石に光はそういう細かいことまで俺らに伝えてくれへんやろ、真里亜や。その作業所ってどんだけ働いても小遣い程度しか給料は貰えへんらしいねんけど、その稼ぎと、あとは障害年金?とかいうのんを申請して、家族から自立して、そうしたら真里亜の母ちゃんは今よりずっと楽になるし、真里亜が将来光のことを見ることになっても、ひとりで丸抱えせんでええから安心やからって、真里亜はそうしたいって」
「そんなん…フツーは親が考えることやろ、おかしないか?それホンマに真里亜が言うたんか、あいつがそんなことまで考えなあかんの?」
「真里亜の母ちゃんもそれはちゃんと考えてるやろけど、真里亜の家には親父がおらへんし、せやから真里亜も一緒に考えてるんと違うか。とにかく理想としてはそれが一番ええて思てるって真里亜は言うてた、でもそうそうウマいこといかんモンらしい、そういう施設には数に限りがあるし、光かてどこでもええてワケではないやろしって。お、ぼちぼち時間や、行こか、海星」
「あ、おう。行こか」

スマホで時間を確認した真が、降誕劇の開演準備の時間が迫っていることを俺に告げて、俺達はバザー会場から足早に離れた。真の背中を追いかけて講堂への渡り廊下を駆けながら、俺はさっきの光の将来の話を思い返していた。いくら真がずけずけと遠慮なく人にモノを聞くやつだとは言え、そういうもう少し先の未来の、真里亜にとっては不確かなだけに不安な色々を真里亜に聞いて、そしてそれを聞かれた真里亜は真に隠すことなくさっき真が話したようなことを伝えているのかと思うと、俺は心臓の辺に小さな羽虫がいくつもいるような感じに胸のあたりざわざわとして、別に寒くもないのに何故だか肌が粟立った。


今年、とうとう実行委員の誰かから「降誕劇のマリアに化粧させよう」という余計な提案があり、そして非常に運の悪いことに実行委員の会計である塩田が「去年、海星の演じたマリアを見た俺の姉ちゃんがお前に化粧をしたいと言うているのやが」という俺としてはかなり余計な協力者を連れてきて、俺はなすすべなく保護者パスで入校した塩田の姉という人に結構しっかりとした化粧をされることになった。

キャストの楽屋になっている高校部二年生の教室に巨大なメイクボックスを提げてやって来た塩田の姉はマゼンダピンクの髪色にじゃらりとしたピアスを耳にいくつも付けた美容専門学校一年生で、去年までは俺達の学校のすぐ近所にある私立女子校に通っていたらしい、とにかくよくしゃべる面白い人だった。

「ななな、海星君知ってた?この学校のクリスマスページェントの家族招待券てあるやんか、アレって、超プラチナチケットなんやで」
「えっ…家族招待券て、フツーに俺らの家族だけが使うんモンちゃうんですか」
「違うねんなァこれが、あの招待券て申請制でひと家族最大五枚とかやん、せやからそれをここの生徒とかその子の兄弟に譲ってもらって、身内ですって顔で入場しとる子なんかウチの女子校にはなんぼでもおったんよ、だって降誕劇のマリア役はで高校部の小柄で可愛い男の子で、ヨセフ役は一番背の高い男前なワケやんか」
「それは、俺は可愛いかは知らんのですけど確かにまあまあちっこいし、真は男前かどうかは別にして無駄にでかいですけど、中途半端に女装した男子高校生と、その…ゴリラみたいにデカい男子高校生を、塩田さんの母校の女の子らはそんなに見たいんです…かね?」
「見たいねん」

鏡ごしに真顔で頷く塩田の姉は、その年のマリア役の男子が当たりかそうでないかヨセフ役の男子の身長が推定何㎝か、母校である女子校ではそれが校内で一番ホットな話題としてこの季節に飛び交うのだと、ブラシで俺の顔にキラキラと虹色に光る粉をはたきながら教えてくれた。それは特に聞きたくなかった事実ではあったものの、それを踏まえて去年舞台の上から眺めた客席の風景を記憶の中から掘り起こしてみると、確かに俺と同じ歳くらいの女子が妙に沢山座っていた気がした。

そうやって塩田の姉の手によりされるがまま化粧をされた俺が青いヴェールで頭を覆うと、恐ろしいことに鏡の中の自分がまるで本物の女の子のように見えて、俺は慄いた。

「オイ、おまえら化粧って怖いぞ!俺らは多分いろいろ騙されてる、気ィつけろ!あと、瞼が重い!」

つけ睫毛の意外な重たさに目を瞬かせながら俺がそう言い、くるりと舞台袖にいるスタッフとキャストの方を振り返ると、そこにいた全員からは「おお…」とか「ええ…」だのいう、嘆息というかどよめきが起き、真なんかヨゼフの麻袋みたいな衣装の腰ひもをはらりと落として口をアホみたいにぽかんとあけていた、どうやら皆、俺の顔面を見て酷く驚いているようだった。

「海星、めっさ可愛いぞ、来年もマリア役続投決定や…」
「アホ、その頃の俺なんか共通テストの直前や、ケツに火がついてクリスマスどころやあるか」
「またまたァ、海星やったら寝てても阪大くらい軽いやろ」
「それってどこの阪大や、大阪体育大学か、そこかて別に寝てて受かるワケあれへんねんぞ」

俺は真を小突いた。

「二年連続、オマエらの言いなりに生贄のごとくマリアに扮してやったんや、俺はもう生涯女装はええねん」

そうは言ったものの、二年連続のマリア役の俺には去年と全く同じ内容の脚本の台詞が全て頭に入っていたし、立ち位置も書き割りの配置もほぼ同じで、その結果去年より随分と心の余裕があった。

舞台の序章、講堂の舞台の上に吊るされた金色のフリンジに飾られた臙脂色の幕を背にしてスポットライトを浴びた数人の村人役の生徒が救い主を待望する言葉をひとりずつ叫んでから幕が上がり、舞台の中央でマリアである俺が跪く中、白い羽を背中にしょって現れる果てしなくむさくるしい天使どもに囲まれる。そしてその天使の中で、ひときわ衣装がきらびやかでありそれのせいでちょっとドラァグクイーンのようにも見えてしまう大天使ミカエルに

「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」

そう告げられてからの俺の舞台上第一声の時も、俺は全く緊張していなかった。

「どうして、そのようなことがありえましょうか」

見た目はほぼ完璧に女の子である舞台上のマリアが完全に声変りした男の声でこう言うので、会場からは軽いどよめきと失笑が起きる、そういう降誕劇なのだ、これが伝統でかつ名物というか。

俺の第一声の後に舞台は静かに暗転し、婚約者のマリアに突然妊娠を告げられて苦悩するヨセフに場面は引き継がれる。舞台中央を明るく照らす白いライトの中、ヨゼフはマリアの妊娠が事実であるのなら、自分はマリアを断罪することなく、波風を立てずにそっと婚約を解消すべきではないかと懊悩するが、そこにもまたゴツイ天使どもがのしのしと舞台上にやってきてこう言うのだ。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」

この台詞の後、ヨセフである真は舞台の中央に立ち、本来の台本通りであれば

「わかりました、おっしゃる通りにいたします」

この台詞をひとことだけ言って天使に頭を垂れ、この時既にマリアの胎内に宿っているという救い主の父となることを厳かに受け入れる。そういう場面の筈だったのが、この時の真は一体何を思ったのか、しばらく呆けたように押し黙り、その時間は数十秒と皆が心配になる程長く、会場も少しざわついていた「え、なに」「どうしたんあの子」。

「なぁ、あいつ台詞忘れたんちゃうか」

舞台袖のスタッフ、キャストには一瞬緊張が走った「うわ、あいつやりよった」と。でもその憂患のすぐ後、舞台の中央の眩いばかりの光の中心で、真は拳を頭上に付き上げてこう言ったのだった。

「おっしゃわかった、もうなんも心配すんなマリア、俺が全部背負うたる!」

突然のヨセフの、というか真の大声に、一瞬シンとした場内はその直前の沈黙をすべてかき消す大ウケで、降誕劇はまだ一幕目だというのに講堂内は笑い声と拍手に包まれてしまった。

「なあ見てた?俺、めっちゃ受けてたやん?」

得々とした表情で舞台袖にはけてきた真は、その場にいた裏方スタッフ、キャスト、音響、照明、とにかく手の空いていたヤツら全員に尻を蹴られて頭を小突かれた。

「勝手にお笑いにすんなや、吉本新喜劇ちゃうねんぞ」
「ウケたらええってこととちゃうねんぞ、この罰当たりが」
「オマエ、アドリブとか言うてるけど、絶対台詞が飛んだだけやろが」

舞台裏は喧々囂々けんけんごうごう、割とひどい騒ぎではあったけれど、その後、ヨゼフこと真は舞台に出るたびに拍手で観客に迎えられ、ベツレヘムに向う道中、救い主を孕みすっかり腹の膨らんだマリアを伴ってその日の宿を探して歩く場面では「ガンバレよ!」なんて掛け声まで飛ぶし、最終幕、無事に産まれて飼い葉おけに寝かされたイエス・キリストの誕生を祝うために、暗い馬小屋を訪れた東方の三賢人、宿の人達、羊飼い、天使、星、そこにあるすべて人々が集いキリストに祝福の祈りを捧げて、そのまま静かに幕が下りた後も、客席からの拍手は鳴りやむことがなかった。それで舞台の脇にいたスタッフ誰かが

「これもうアンコールやろ、もっかい幕、上げようや!」

そう言って、一度閉じられたはずの臙脂色の幕はもう一度するすると上がり、キャスト全員がまた舞台に立つことになってしまった。

「降誕劇でアンコールとか普通あるか?一応宗教的な行事やろこれ」
「ええやんか。記念、記念」
「なんの記念やねんな」
「俺と海星の青春のメモリーや」
「だから俺は、そういうのはもういらんねんて、ストレージが一杯やねんから」

拍手と笑い声に包まれる会場の中、俺は真に腕を引っ張られてもう一度舞台の中央に立ち、俺と真の他、村人と天使とローマの兵隊と東方の三賢人それから羊飼いに星にロバに羊、とにかく演者である全員が一列になって客席に頭を下げた。

舞台の上にはライトの白い光が氾濫していて、そこから暗い客席を見渡して特定の個人の顔を判別するのはかなりの難題だったが、俺は一礼して即、ぎゅっと目を眇めて招待席にいるはずの光を探した。俺は光が思いがけず随分と騒がしくなってしまったこの講堂で、混乱せずに叫ばずに、座席に座っていられているのかどうかが心配だった。

すると丁度光達の座席のあたりに、光達の学校の制服の中に光とは別の、俺にとって見覚えのある顔がひとり混ざっていた。それで俺は客席に向かって嬉しそうに愛想を振りまく真をつついて聞いた

「なあ、真里亜ってオマエが呼んだん?」
「おう、光に真里亜の分の招待券渡しておいたんや、真里亜に俺が来てくれて言うてるって伝えといてくれって」
「またえらいイチかバチかの伝言したもんやな、光は気が乗らんかったらひとつも喋らん日もあるやろが」
「まあ…でも、ほら、来てるやんか」

俺がそっと真里亜のいる方向を指差すと、客席の暗闇の中にいる真里亜も俺達の視線に気が付いたらしい、俺と真の顔を見て微かに笑い、そして俺か真、どちらかに向って何かを言った。でも拍手と歓声の中、真里亜のその声は、真の耳には届いていないようだった。 

そのまま、音もなく幕は下りた。

真が真里亜を自宅近くにある小さな公園に呼び出して

「俺、真里亜のこと好きなんやけど、ずっと前から、多分」

なんて今時小学生でも使わないような言いまわして、何年もずっと抱え続けてきたらしい真里亜への気持ちを直球すぎる程の直球で伝えたのは十二月の最初の日曜日のことで、そしてその事実を俺に相談というテイでつるりと白状したのは翌日の月曜日の放課後、降誕劇の練習の後のことだった。真はそういうヤツなのだ、こらえ性がないというか、杞憂や暗澹や懐疑、そういう複雑な感情をひとりで二十四時間以上、抱えていられない。言い換えると気が小さい。

「多分やねんけど、俺真里亜に丁重にお断りされたような気がするねんなァ…」
「気がするて何やねん、モノゴトは白か黒かはっきりさせへんかったら、蕁麻疹が出るんやて性格なのが真里亜やろ、おまえみたいな鼻タレと付き合ってられるかて、きっぱり言われたんと違うんか」
「鼻は、垂らしてへん」
「アホ、ものの例えや」

真が真里亜に友情とはまた違う、特別な感情を持っていることを、俺はかなり前から知っていた。

でも、その特別な感情というものを真自身が真里亜を姉のように慕っている、即ち身内への情のような感情であると完全に錯覚していて、その特別な感情の本性をまだ理解していないのだろうと俺は思っていた。だから真が既にその感情の本当の名前に辿り着いていたという事実と、それを直球すぎる程の直球で真里亜に伝えてしまったのだという現実を知ったこの時の俺は、きっとかなり動揺していた。

お陰で俺は購買の自動販売機で微糖のホットコーヒを買うはずが、何故か普段なら絶対に飲まないお汁粉のボタンを間違って押してしまって、仕方なくそれを真に差し出した。

「これ間違えた、やる」
「うん、ありがと…」

真も真で酷く困惑しているというか、落ち込んでいるらしく、俺から素直にそれを受け取った。そしてそれを水を飲むようにぐっと口に含んで、うまく飲み下せずに即むせた。

「なんやコレ甘!そんで熱!何すんねん海星」
「いや、オマエがフツーにありがとうって受け取って、オマエが自分から飲んだんやろが。なあ真、その…お断りされた気がするてなんなんや、真里亜なら断る時は、それこそ容赦なくはっきりきっぱり、アンタなんかいらんねんて言うやろ」
「いやその…なんか、真里亜はな、自分は色々抱えてるもんが重いから、俺みたいな…なんて言うたかなァ、天真爛漫?天衣無縫?の人間とはよう付き合えんと思うて言うたんや、合わへんのやて、俺とは立ってる場所が違うのやって。なぁ海星、テンイムホーてどういう意味や、アホってこと?立ってる場所が違うて何よ、この間の俺の駿台模試が激ヤバやったってこと真里亜は、おまえから聞いて知ってるてことか?真里亜て成績ええもんなァ」

もう一度硬貨を自販機に投入し、微糖のコーヒーを買い直してから俺はまじまじと真の顔を見た、何もかも心底わからんと言う顔をしている、無垢ということもここまでくるともう害悪かもしれない。

「なあ真、仮に真と真里亜が付き合うことになってそれが続いたとしてやで、ほしたら真里亜がいずれ真に劣等感というか、色々と引け目を感じることになるやろなって、そういうのんを真は考えたことはないんか」
「なんで真里亜が俺に引け目なんか感じなあかんねん、真里亜なんか頭はええし、顔もええし、足も速いし、弟にも優しい。俺が真里亜を越えてるとこなんか身長と体重と体力だけやぞ、俺は…俺は昔からあいつの全部を尊敬しとる、相手への尊敬こそが愛情の根幹なのやって猪木も前に言うてたやんか、とにかく俺はあいつの全部が好きなんや」

小さな子どものように素直に、そしてひとつも隠すことなく真里亜への気持ちを吐き出す真を前に、俺はため息がでた。真は本当にいいやつだ『良心』と『無垢』と『無辜』、この成分だけで人間を作ったらこういう風になるのかもしれない、でもそれは同時に酷く残酷なことだ、真里亜にとっても、真の目の前にいる俺にとっても。

「あんなァ、真里亜には光がおるやろ、そのことを真里亜は言うてるのや」
「そら弟やからおるわな、光がおったらなにがあかんねん」
「あんなあ…だから、ちょっと前にな、ほれ九月にあった祭りで光のことチラ見して『キモ』って言うた男にブチ切れてそいつのこと即日振ったことあったやろが」
「あったなァ、アレ、俺ほんま腹立ったわ」
「それから、真里亜はこの先、光が成人した後も光のことをずっと背負っていくつもりでおるのやろ、そういうことを前におまえは俺に言うてたやないか」
「別に、弟の将来を心配するくらいのこと、フツーにするやろ、真里亜は光の姉ちゃんなんやから」
「フツーって…フツーの姉はあそこまでせえへんねん、あれは光が…オマエってホンマ…そしたらな、もうひとつ、真里亜ん家は六年前に親父が失踪して、そん時に押し付けられた借金がまだ残ってるのやろ、真里亜の母ちゃんはそのせいで仕事をふたつ掛け持ちしとる、それで真里亜は大学の進学を諦めたんや。かたやおまえん家はふた親揃ってて、おまえの父ちゃんは地元で店を三つやって繁盛させて結果割と金持ちや、大学かてスポ推で関学か同志社の推薦を貰う気でおるやろ、真里亜とオマエではいま生きてる環境が全然違うんや、そこで真里亜が引け目みたいなモンを感じるんちゃうかなとか、真は思えへんのかって俺は言うてるねん」
「それは…あんま考えたことなかった…」
「ほんなら今から考えろ、俺はお前のそういう無邪気ていうか、悪気のひとつもない、良心成分100%みたいなとこめっさ好きやで、好きやねんけど、世の中にはそういうのに傷ついてしまう人間もおるねん、みんながみんな、金のこととか家族のことに恵まれて真みたいにすくすく真っ直ぐ育って生きてる訳とは違うねんから」
「そうなんか…?海星、おまえもなんか色々あんのんか?」
「そら俺かて色々あるわ。いやいま俺のことはええねんて、とにかくな、まずは真里亜の気持ちをよう考えろ」
「…わかった、考えるわ、ありがとう、海星」

真は小さな子どものように肩を落としてぺこんと俺に頭を下げた。真の中では、小学生の頃にずっと俺と真と真里亜と光、四人まとめて遊んでいた頃と今がそのまま繋がっていて、そこに大きな変化は何一つないということになっているのだろう。

でもそうじゃないんや、時間は川の流れのようなもので、あるものは分岐して小さく細い流れになり、あるものは大きな流れのまま海に辿り着き、あるものはどこかで静かに消える、そう言う風にできてるねん、そういうのをよう考えろ、そんなことを言う俺は、自分の目の淵ぎりぎりに押し寄せて来た涙が頬を伝って流れてこないようせき止めることに真剣だった。

というより本心では、泣きたかった。拷問やろ、こんなん。

 

「なあ、俺んちで肉食うて帰らへん?そうしようや、な」

大盛況のうちに終わった舞台の後、会場や舞台をあらかた片付けた後、真は俺と、外で待っていてくれた真里亜にそう言った。光は日が暮れてから屋外にいることを嫌うもので、この日は夜のバイトのシフトを入れていないらしい真里亜の母ちゃんが、学校まで光を迎えにきて光を連れて先に帰ることになっていた。

「海星君も真君も大きくなったねえ、おばちゃんびっくりしたわ。真里亜、今日はもうママが家におるから、海星君と真君とゴハン食べてきなさいよ」

久しぶりに会った真里亜の母ちゃんはそう言って、真里亜の背中をそっと俺達の方に押し出してくれた。多分真里亜の母ちゃんが夜に掛け持ちのバイトに出ている間は、真里亜が光の世話をしているのだろう。降誕劇の音と光と人の喧騒のせいで不機嫌になってしまったかもしれないと思っていた光は意外に上機嫌で、千里中央から中百舌鳥まで二十三個の駅名を滑らかにとうとうと唱えると最後に「六時です、さようなら!」と言って「またなー!」と叫ぶ真を一切振り返ることなく、駆け足に近い早足で母親と一緒に帰っていった。

「でも、あんたら実行委員で打ち上げとかは?やらへんの」
「それはなァ、むかーしクリスマスページェントの打ち上げで飲酒がバレたアホな先輩らがおって、飲食店での大々的な打ち上げは固く禁じられたんや、バレたら停学処分やで、飲酒は退学や。せやから代わりに週明けの放課後、実行委員のみんなでお菓子パーティーをする」
「なんそれ、小学生か」
「でも真里亜と海星と俺やったら、ただの友達の集まりやろ、打ち上げにはならへん、しかも会場は俺の家や、合法、無罪や」

そう言うと真は、店の冷蔵庫から肉を確保して部屋の準備もしてくるから、海星は真里亜とゆっくり歩いて来いと言い残し、自宅である焼き肉屋の本店の方に猛スピードで駆けて行った。

しんとした冬の薄暗闇の中、俺と真里亜だけがそこに残された。

そしたらぼちぼち歩いて真の家に向おうか、俺がそう言って歩き出すと、真里亜はそこから少し歩いてから、この前の日曜日、自分と真の間に起きた事件というか出来事を海星は知っているのかと、俺に聞いてきた。

「海星、真からなんか聞いてる?」
「なんかてなに?真が小学生みたいな文言で真里亜に好きやとか言うた話?それか真里亜がそんな真を傷つけんように最大限の婉曲表現を用いてお断りしたのに真がもうひとつそれを理解せんかったって話?もしくはそれが気まずくて今日のクリスマスページェントの招待券を直接真里亜に渡せへんかった真が、招待券と伝言を光に託すて微妙な賭けに出たって話?」
「なんや全部知ってんのか、ていうかまるごと筒抜けやんか、恥ずかし」
「最後の招待券のことは俺の推測やで。真はヘタレやしな、真里亜に半分振られたみたいな宙ぶらりん状態になってしもて、自分から直接真里亜に招待券いるか?なんて連絡でけんくなって、そんで光に伝言したんやろ。光も大変やな、モテる姉の弟も楽やないわ」

せやなァと言って真里亜は笑った。高一の春、五年ぶりの再会の時、俺の目には真里亜の姿が随分と大人びて映った。けれどこうして笑うと細く猫のようになる目の形だとか、頬にできるえくぼだとかはひとつも変わっていない、仮に真里亜を取り巻くすべてがあの時のままだったら、俺と真里亜と真と光、俺達を取り巻く世界はもう少し単純で美しくて幸福だったのだろうなと俺はこのところよく考えるようになった。

でも、そうはならなかったんだ、メタモルフォーゼだ、万物は流転する。

「なあ、真里亜、真はええやつやで」
「何よ急に、そんなんよう知ってるし」
「あいつはアホやけど、嘘はつかんし、人に分け隔てってもんがないし、何ていうんかな…暴力的なレベルに無垢で無辜や、その辺はそれではあかんのとちゃうかって、この間俺はあいつに言うたけど、でもあれは…あいつの一種の才能やと思うねん、せやから光とも一生大事な友達やって、本心からそう思って付き合い続けると思うけどな」
「まあ…そうやろな、わかってる、真はいくつになっても、何があってもあのままで、ひとつも変わらん気がするわ」
「なら、何があかんねんな、もし真里亜にとって真なんか男どころかミミズにしか見えへん、範疇外の外やて言うのなら、あいつにはっきりそう言うやろ、おまえみたいな鼻タレとなんか付き合ってられるかって、俺が知ってる真里亜ならな」
「なんやの鼻タレて」
「ものの例えや、別に鼻は垂らしてへん」

真里亜は俺の言葉を聞き、少し考えるような顔をしてから俺の半歩前を歩いた、十七歳を過ぎてとうとう一七〇㎝を越えられなかった俺よりも更に十五㎝程小さい真里亜のつむじが、歩くたびに上下に揺れていた。

「なあ、前にさあ、うちが付き合うてた男を振ったことあったやろ、今年の九月に、覚えてる?」
「よう覚えてるで、ごめんやけどあん時、俺と真で真里亜の付き合うてる男のこと散々こき下ろしたったわ、ロクなヤツやないとか、どうせ関関同立の推薦ねらいのヘタレやとか」
「知ってる、二人ともなんか面白んないなァって顔してたもんな。そん時うち、そいつが河川公園でやってたお祭りで光をたまたま見かけて、それで光のこと『キモ、おれああいうのまじで無理』って言うたのやって言うたやん、それが耐えられへんかったって、そんで真がえらい怒ったやん?」
「アレやろ『光のことひとつも知らん癖に突然そんなこと言うオマエの方が確実にキモいやろ』ってやつ、怒ってるていうより、アレはマジでそいつが何言うてるかわからんて顔やったけどな」
「あの時な、うちほんまに嬉しかったんやで、光のことそんな風に思てくれてんのやなァって。それがものすご嬉しかったんやけど、ほんでもああ真とは一生平行線なのかもしらんなァとも思ったんよ」
「…え、なんでや」
「だってほんまのとこ、うちもアイツと同じで光のこと、気持ち悪いな、嫌やなってずうっと思ってたんやもん、この子さえいてなかったらうちは今よりずっと楽やのにな、人からじろじろ見られんで済むのにな、もしかしたら今とは全然違う人生やったのかもしれんて。そう思てるクセにずーっと良い子のお姉ちゃんのフリをしてきたんよ。光ってな、光と同じような障害のある子の中では相当楽な方っていうか、良い子なのやで、大人しいし、読み書きもできるし、簡単な計算かてできるし、突然人前でパンツ脱いだりもせえへん、ある程度の会話かて成立する、せやけどな…うちはずっとしんどいねん、うちは真みたいには、光のことを到底思ってあげられへんのよ」

俺の半歩前を歩く真里亜の頭がだんだんと俯いて沈み、全く表情の解らない真里亜のつむじだけが、静かに微かに揺れていた。

「…そんなん当たり前やないか、真は光の友達で、その…立ち位置てモンがぜんぜん違うし、光のほんまにしんどいとこなんか実際ひとつも知らんやろ、せやからなんぼでもええように言えるねん。でも真里亜は姉ちゃんや、光のことで俺らがひとつも知らんめんどい事もしんどい事もこれまで死にたくなる程あったんやろ、それを嫌やめんどいもうやめてくれて思って、それのどこがおかしいねんな、そもそも真里亜は姉ちゃんやろ、親やないのやで、ええ子のフリなんかもうやめとけ、それこそ来年真に関学も同志社も受けんのやめさして、どっか…せやな東京とか名古屋とか…適当なとこに進学させてやな、真里亜もそこに一緒について行ったらええねん、あいつん家は金持ちやねんから、広いマンションとか借りさせてそこで一緒に暮らせ」
「そんなんしたら、海星はどうなるんよ、あんた淋しいやろ」
「俺はここに残って光と仲良くしとく、俺はただの無関係で無責任で偽善的な第三者や、光とたまに会って、一緒にメシ食うて、桃鉄やって、あとは御堂筋線の話しでもしとくわ、光は真と違って静かやしええわ」
「せやけど…あんたは光のこと、どうも思てへんの?小さい頃はよう一緒に遊んでくれたけど、ヘンなやつやなとか、嫌やとか思えへんかったん」
「それは、昔から俺とは違うのやろなとは思ってたし、今は障害があるのやてはっきり認識してるで。でもどちらかと言えば、俺かて一般的に言えば少数派でキモい方の人間や、それで言うたら同類や」

俺はキモい方の人間や。

そう言った俺を真里亜は驚いた様子で振り返り、まじまじと俺の顔を見つめた。あんた、何言うてるんよ、学年トップなのやろ、生徒会の書記もしてるのやろ、一体何がキモいねんと。とても驚いた表情だった、それを見て俺は静かにそしてうんと深く、深呼吸をした。

「俺はなあ真里亜、真のことがずっと好きやってん、多分この先もずっとや」
「…だって、そらそうやろ。あんたと真は産まれた時からの付き合いの親友やんか、いっつも喧嘩みたいな掛け合いして、普段はアホとか死ねとか言い合っても、それはお互い大好きやからやろ、昔からそうやんか、そういうことやろ?」
「違うねん、俺はなァ真里亜、毎日理性と本能の間で戦ってるんや。真のことなんかこれまで頭ん中で何回犯したかわからへんで、光も俺と同じ年やから、そういうの色々あるのやろうけど俺は多分もっとひどいぞ、真のこと考えると毎日勃つねん、それをいつも自分で何とかしとる、それやのに毎日毎日俺は真と一緒におるねんで、真のやつ毎朝、おはよーって言うて俺の背中に抱き着いてくるねん。晩になんぼ抜いても朝から半勃ちや、いたたまれんてこのことやろ。せやからな、真里亜がもし真のことを嫌いやないなら、ちょっとでもええかなて思えるなら、頼むから早いとこ俺の前からあいつをどっかに持ってってくれ」

自分が真里亜に向かって何を言っているのか冷静に理解している自分と、終生誰にも言わずに墓まで持って行くつもりだった秘密を包み隠さずしかも女の子である真里亜にあからさますぎるほどあからさまに吐露していることに狼狽している自分がいて、俺は酷く混乱していた。

だからもしこの時、真里亜が「あんたおかしいで」とか「気持ちわる」なんてことを一言でもその美しい唇の端から零したとしたら、俺は多分、全速力で学校に引き返し、屋上に駆け上がってそこから飛び降りていたかもしれない。でも俺はそれをしなかった、真里亜が俺に飛びついてきたからだ。

「ごめんな」

そう言って俺の首に両腕を回し、ぶら下がるようにして俺を抱きしめた真里亜の体は、普段俺にまとわりついてくる真の骨太でそれが固い筋肉で覆われている体とは全く違って、脆いくらいに華奢で細く、俺の鳩尾のあたりにあたるふたつの隆起が妙に柔らかで、とにかく何もかもが小さくできていて俺は驚いた、でも驚いただけで、興奮することも反応することもない自分の体に俺は微かなため息がでた。この美しい幼馴染の体に触れてもひとつも何も起こらない、俺はやっぱり男の、真じゃないとあかん人間なんや。

「何がごめんやねんな」
「だって、なんか、ごめんて思たんやもん」
「それやったら真をとっとと真里亜の人生に回収してくれ、俺はホンマにこのままやと身がもたんねん」
「それはなァ…まあ気が向いたらそのうち何とかするわ。でもな、そうなったとしてもうちと海星は友達やんな、このままずっと、うちがおばちゃんになった後もずっと」
「真のアホと真里亜が付き合ったからて別になんも変らへんよ、それとな、さっき俺が真里亜に言うてしもたことは、できたら忘れてくれへんかな」
「どうやろ、流石にアレは、海星の口から出てくるには衝撃的すぎる言葉ばっかりで、ちょっとうちは忘れられへんかもしらん」

真里亜は着ていた白いボアフリースジャケットのポケットからタオルハンカチを取り出すと、俺の顔をそっとぬぐってくれた、自分でも気が付かない間に、俺は少し泣いていたらしい。

「あんた昔から泣き虫やったな、ちょっと転んだだけでウワーンて」
「それ、いつの話やねんな」
「ウーン…三歳…とか?」
「そんなん、三歳児なんかちょっとこけたら泣くモンやろ」

俺達はさっきまで己の人生というか、それぞれの内面の、それこそ自分自身の魂の尊厳に関わるような秘密を吐露しあっていたというのに、なんだかすっきりとして、そして晴れ晴れとした気持ちで並んで夜道を歩いた。互いに抱えている問題は何ひとつ解決していない、だけど。

「うちってな、真里亜って名前やんか、これ、聖母マリアの真里亜やねん」
「知ってる、真里亜のとこのおばちゃん、クリスチャンやもんな」
「でもな、あんたかてマリアって名前なのやで海星、知ってた?」
「俺が?俺の名前って海星やで、海の星。真なんかこの前俺のこと『井上海月』って書きよった、それはクラゲや」
「海星てな、ラテン語やとStella Marisて言うねん、海の星、聖母マリアのことを言うらしいわ、それをうち中学生の頃に通ってた教会の神父様から聞いて知って、うちと海星はお揃いなんやって思ってなんか嬉しかったんよ、それやからかなァうちは自分が真里亜やのうて、海星やったらええなってずっと思ててん」
「なんでやねんな」
「あんたのとこ、おじちゃんは優しいし、おばちゃんは大学の先生で、あんたは私立中を受けてなんなと受かって、この先は阪大か京大かとにかくどっかは大学を受けるやろ、賢いもんな、その上あんたは一人っ子や、ほんまに羨ましかったわ」
「そんなもん、そんなもん…俺かて真里亜が羨ましかったわ、今も超絶に羨ましいわ」
「なんでよ」
「真里亜が綺麗な女の子やからや、真に好かれるやろ」

ままならへんもんやな。

俺達はそう言い合って、多分俺達が思いのほか遅いので店の前に立って俺と真里亜を待っているのであろう真の元に急いだ、真里亜は来年、看護専門学校に進学するのだと俺に言った。早く社会に出れば、その分自由になる日が早い、光をどうしたらいいのか、ほんまのところはよく分からない、この先ママに何かあれば光にとっては自分が唯一の身内になるので光を手離すというのは全く現実的なことではないのやけれど、それでももう少し色々なことを考えてみる、真里亜がそう言うので、その色々には真も入れといてくれと、俺は言った。

東の空に金星が高く明るく光っていた。

俺の予想通り、真が焼肉屋の看板の下で俺達を待っていて、俺達の姿を見つけると「どこをどう歩いててんや、遅いで!」と嬉しそうに叫んで手を振っていた。俺は真里亜の背中に手を添えると、ぐっと真の前に押し出してやった。

「俺、ちょっと便所行ってくる、二人でちょっと話しといて」

そう言って俺は先に店の奥に入った。真里亜が真に自分の本当の気持ちを伝えるのかどうかはわからない、今日伝えるのかもしれないし、それはもっとずっと後の未来のことになるかもしれない、もしかしたら一生、何も言わないかもしれない。


真里亜があの時、降誕劇の幕の下りる直前に、真に向って

「ありがとう」

そう言ったことを俺はしばらく、真に黙っていようと思う。真里亜があの時、真が舞台の上から真里亜に向けて放ったヨセフの誠実を、間違いなく受け取っていたという事実については。

 

 

 

 

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