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全速力で

8月12日は『茜雲忌』。

 夏の夕暮れに茜色に染め上げられた白雲を指すような優しくうつくしい響きのこの言葉は、国内最大の飛行機事故である『日本航空123便墜落事故』を示すものだそう。夏のすこし寂しい夕暮れを写し取ったような響きの中に520名のひとびとへ鎮魂の祈りがあるのだと8月12日に縁ある私は知っていて、この日の朝にはまず御巣鷹山に眠る魂の安らかであることを祈ります。

さて私は11年前のこの日、私は真ん中の娘を産みました、

 娘が生まれたのは早朝のことで、場所は里帰りをしていた北陸の実家。未明にじわじわと始まった陣痛に2度目のお産であるということもあっていくらか冷静だった私はこの子の兄、当時は2歳5ヶ月だった息子を出勤前の姉に預けて母の運転で病院にむかいました。8月の北陸の朝の空気は夏の水田の緑のとても鮮やかな、そして清涼なものですが、その日も日中には35度を超えるかもしれないという予報を感じさせない涼しい朝で、病院の駐車場でもう5分間隔になっていた陣痛に襲われながら、既に女の子であるということの分かっているみどり児の生まれるその日が静かな夏の朝であることを

「やばいいてえまじでいたいー!」

そんな田舎の不良少年の如き文言を吐きながら、しかしとても嬉しく思ったのをよく覚えています。

その日、まだ眠っていた息子を頼んだ姉が出勤日であったこともあって、病院の受付をすませてから母には急いで家に戻ってもらい、私はひとり、陣痛に耐えてお産に臨んだわけですが、これが長丁場だと背中をさすってくれる人もいないし、持参した飲み物の尽きた時きついなあと思っていたらこの娘はその辺を知っていたのか病院到着から2時間きっかりでこの世界にやって来てくれて、大変に親孝行というか、分娩2期なんか秒ですという勢い、とにかく何もかもが早すぎて娘を取り上げてくださった助産師さんも

「3人目のお産の時にはもっと早く病院にいらしてくださいね!」

などと分娩台の上で注意を受けてしまったほどで、あまりに迅速に済んだそのお産は結構な出血を伴って、私と娘は暫く分娩室に留め置かれました。しかし産んだ私は頑健な経産婦、生まれた娘は健常な新生児、それにのんびりとした田舎の病院の産婦人科病棟のこと

「おかーさん、ちょっとここでしばらく待っててねえ!」

と生まれてさっき会ったばかりの娘と2人、分娩室の分娩台にそのまま寝といてと言われ夏の朝の白い光の差し込む分娩室で、水蜜桃のような産毛のある生まれたばかりのみどり児に私は

「どうですか?こっちの世界は」

なんて聞いたりしていました。娘は生まれた時から頑固そうな、一筋縄ではいかない面立ちをしていた息子とはまた違う、穏やかな下がり眉でやさしい瞳の、見るからにおっとりとした表情をしていて、ついさっき這い出て来たばかりの世界に混乱することも怯えることもなく、ふにゃりとした新生児の生理的微笑というのを見せてくれまして、これはきっと穏やかな気性の優しい子だろうと私は安心したものでした。

というのもこの子の兄というのが、3秒目を離せば煙のごとく消えて見つけた時には雨上がりの水たまりで泳いでるというまったく次の行動の予測と予想の不可能なタイプの子どもだったもので。それを思うとこの子はそれよりかは穏やかな日々を私に運んできてくれるのだろうと思ったのです。実際この娘が6歳になるまでは私達には家族旅行に行き、外で沢山遊び、普通に幼稚園に通い、ピアノを習って発表会に出て桃色のドレスを着て、そういう穏やかな生活があったのですけれど、あの分娩台で娘を取り上げてくれた助産師さんに

「3人目を生む時にはもっと早く病院に」

そう言われた時にはあまり考えていなかった3人目を産んでから、娘の生活というのか運命というものは大きく変わりました。

 娘が年長児になった春に妊娠が分かり、夏を越えて秋を迎え予定日の冬、待望の妹であるその子の心臓に重い疾患が見つかり、それでもなんとか無事世界に生まれて次の冬でもう5年、入院と手術と検査の間を縫ってその隙間になんとか維持されている生活がある、それが日常になりました。

 例えば5年前の娘の卒園式は手術入院の付き添い中に病院から駆け付け、4年前の小学校の遠足の日には検査入院の付き添い中でお弁当を作るために朝イチで自宅に戻って娘の髪を結いお弁当を持たせて送り出し、妹が風邪をひけば嘔吐すれば、それだけでも命が危ないかもしれないからと

「キッズケータイすぐに出られるようにしておいてね!」

そう言い残して上の2人を家に残して救急外来に走る。私も夫も緊急時に実家であるとか、頼りにできる身内が全然近くにいないものですから、妹に何かあれば上の2人を置いてもしくは伴って病院に走ることになり、最悪の場合は2人を夕暮れの自宅に残してそのまま緊急入院、それはできない、したくないからとこの5年は本当に慎重な、上の子達からすれば『あまり面白くない』生活をしてきました。

 それをしても、妹である末の娘の入院回数は10回を超えた頃から数えるのを止めましたがとにかくそれくらい。検査や手術、あらかじめ予定されている入院の時にはその都度北陸の実家から母、娘には祖母である人に無理を言って自宅に来てもらっていたものの、娘の子ども時代というものはすこし、いやかなり普通とは違うものになってしまったように思います。

 娘のように、重い疾患や障害を持つきょうだいのある子のことを『きょうだい児』と呼ぶそうです。その言葉は末の娘を産んでしばらくしてから知りました。

 それを知る以前から、末の娘が誕生する前、胎児であったその子の長期生存を賭けた手術治療というものが私の想像を遥かに超えて長く、手のかかるものであると分かった時にまず考えたことは、胎児の無事ではなく既に生まれて手元で育っている2人の子どもの生活を、母親である自分がいままでどおりに維持できるのかということでした。

(難しい病気である子を育てながら、既に生まれている8歳と6歳の息子と娘に幸福な子ども時代を手渡してやることなんかできるのだろうか)

 その答えは今、上の息子が13歳そして娘が今日で11歳ですから未だ子どもである2人の間にはまだ出されてはいないとは思います。目の前には今4歳8ヶ月の妹と小さなぬいぐるみを取り合って喧嘩をしている本日の主役、娘がいるのでその子に

「ねえ、妹が重い病気で沢山入院しないといけない生活ってどう思う?」

大変に曖昧な質問をしましたら、お気に入りの紺色のふわふわとしたシフォンワンピースを着た娘は少し考えてからこう言いました。

「えー?ふつう」

妹は産まれた時からこうであるので、別に今更奇異であるとは思わない、とりたてて嫌だとも思わない、ただ

「妹が入院してる時は早く帰ってこないかなーって思う」

のだそう。それは6つも年が離れているのに時折本気でぬいぐるみを取り合って喧嘩をし、そうかと思えばお揃いの服を着て鏡の前で2人で微笑む。そんなことのできる世界にたったひとりの妹が家にいないのはとても寂しいからだそうで、付き添いのお母さんがいないのはどうなん、寂しいとか思わへんのと聞いたら

「あっ!さびしいさびしい」

ということでした。丁度思春期の入り口にある女の子のこと、段々と母親には厳しいと言うかやや辛辣と言うか、もうあんまり寂しくはないそうで、そんなんむしろお母さんが寂しいわ。

 しかしそんないよいよ思春期の入り口にある娘と私にもふたりだけの大切な思い出があるもので、それは前述のこの妹の最初の手術の前、生まれてからずっと入院していた妹に付き添っていた私が。その入院に被ってしまった娘の卒園式に病院から直接むかうことになって

「絶対に、絶対に行くからね」

そう約束をして、実際に病院から卒園式のための正装をして全速力で走って来た時のこと。それを

「あんなに早く走るお母さんを後にも先にも見たことがない」

そう言って娘は今もひひひと笑うし、私は、病院を出る時に妹である娘を看護師さんに預ける諸々に手間取ってすっかり遅くなり、予定よりずっと遅く園児の待機する園庭に駆け込んだのですけれど、卒園児が式典の会場に移動して殆どいなくなった園庭の真ん中に、お母さんが来るまで付き添いのおばあちゃまと会場である講堂に入っていたらどうかと先生が言うのをひとつも聞かずに

「ここでお母さんを待つの」

そう言って口を真一文字に結び制服のスカートをぎゅっと握りしめ、泣きそうな顔をしながら私を待ってくれていた娘が、坂道を駆けてきた私の姿を見てはにかみながら笑ったその時の、娘のつけていた白い髪飾りの形と三つ編みの長い髪、その全部を私もはっきりと覚えています。

思えばこの娘は、妹の最初の手術の終わった数日後「しゅじゅつをした先生にぜったい渡して」と言って私に手紙を託したのですけれど、それは

「いもうとをたすけてくれてありがとう」

という趣旨のものが、小学校入学直前の子のまだ拙い平仮名で、しかししっかりとした筆圧で書かれているもので、妹のことで不自由をかけられ、その妹本人はいつまでたっても自宅に戻ることなく、それだから姉とは名ばかり、お母さんも帰らないし一体妹とは何なのかと思う日は、多分あったのかもしれないけれど、それでも娘は小さな妹のある姉として執刀医に感謝の意を伝えようと手紙を書いてくれました。それが卒園式のすぐ後のこと、娘はその頃からずっと妹を妹として遇し、己を姉だと考えているようでした。

 あれからもう5年が経とうとしている今、その妹の治療は未だすべての工程を終えることなく、次の9月、妹とお母さんはまた入院で留守、下手をすると今度は小学校の卒業式ごろにも入院のある可能性が捨てきれず、そうした小さなことの積み重ねが娘の子ども時代の傷になって、いずれ娘が大人になったある日

「あの時どうして」

という声に言葉に哀しみになってゆく日があるかもしれないと思うこともあるのですけれど、私は、お母さんは例えば小学校の卒業式のその日がまた妹の入院の日であっても朝、病院から走って来るつもり。

大丈夫、その日も全速力で走るから。


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