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1年生日記(5日目)

4月12日

5日間、1年生の教室に張り付いた、自分の子どものためだ。

医療的ケア児で、24時間の在宅酸素療法が必要なのだけれど、知的、情緒的、運動機能的な側面はぜんぶ普通の子のキワのキワにぶら下がっているウッチャンに『丁度いい学校』というものはいま現在地域に存在しない。

いや、もしかしたら、どこにもないのかもしれない。

少女漫画の古典にして金字塔、大島弓子先生の短編『毎日が夏休み』に、御近所の奥様方が「まあ立派なとこにお勤めなんですのねえ」と嘆息を漏らすような有名企業を突然退職した主人公の継父に「合わないってなに?あなたのためにぴったり誂えられた会社なんかあるわけないでしょうッ!」と言ってブチ切れる主人公の母(主人公は学校を辞めて便利屋になるのよな)の話があったけれど、同じようにこの世界には『うちの子にぴったりの学校』というものは存在しないのかもしれない。

そもそもわたしが知る限りこの世の公の施設学校その他設備はだいたい平均、もしくは中央値に合わせて作られている。

どうにも使いづらいそれらを無理に使おうとなるとまず、補正をしないといけない、サイズの合わない洋服を着る時のように、丈を詰めて、裾を伸ばして、袖をつまむ。

それがここ5日間、わたしが小学校の廊下に張り付いていた理由だ。

入学前に「いないと困る」と言い続けた看護師は結局来なかった、酸素の付け替えやボンベの入れ替えは親のわたしの仕事。ウッチャンの微妙な体調の変化に気が付けるのは看護師不在の今、ウッチャンに慣れているわたしだけ。そんな「付き添い親」は今、小学校の中で見たところわたしだけ。

「なんでやねん」

と思わなくはない、文句は探せばいくらも出てくる。でも支援学校にお子さんを進学させることにしたお友達も小学校チュートリアルステージの今はお子さんと一緒に登校してお子さんに付き添っているのだとか。支援学校も普通校同様、現場の人手不足が近年ますます深刻で、界隈のお友達には支援学校の高校部に通うお嬢さんの付き添いをしている人もある、細く長く粛々と続いてゆく付き添い親の世界。

産まれてすぐに「付き添い入院」その後に来る「付き添い登園」、そうして次は「付き添い登校」。

(結局いっこも楽になってへん)

そう思って魂の抜けるごとくため息が漏れた登校初日から5日目。意外だったのはウッチャンが授業にちゃんと順応していることだった。前を向いて真剣に先生の言うことを聞き、鉛筆を握り、運筆の課題が出来たら挙手して先生から花丸を貰う。

(できるんだ)

幼稚園でのお遊戯やお散歩や体操なんかの、身体を動かす保育内容では明らかに周囲に対して遅れている印象だったウッチャンは、机に座ってのお勉強、所謂座学であれば周囲に然程遅れをとらない、普通にできている。

それを知ってからわたしはちょっと気持ちが楽になって、それまではひたすらウッチャンをフォーカスしていた教室の中を少しだけ「引き」で眺められるようになった、そこで改めて思ったのは「先生、大変」ということ。

「せんせえーおれの帽子がないー」
「せんせえーもうかえりたいぃー」
「せんせえーねんどの袋があかへんー」

誇張なしで「せんせえー」の声が3分に1回あがる。

筆箱を机の中から出しましょうという指示で最低でも2人はそれを床にがしゃんと取り落とし、わたしが廊下側から目視で確認したうち2人が筆箱で秘密基地を作り、3人が鉛筆を鼻に突っ込んでいた。

新学期初日は緊張で、然程もめることなく過ごしていた子ども達も、数日が経過すると互いの存在になんとはなしに慣れてきて、一緒に遊び始めて時折揉め事も起きる。例えば休み時間の昇降口で上靴が当たった、おれはなんもしてへん、いや謝れや、なんてことで喧嘩を始めたり。

「俺がなんもしてへんのに、アイツが叩いた」
「オマエが俺に上靴当てるからや」
「だーかーら、そんなん知らんて」
「なに?なんで揉めてるん、靴が当たったん?」
「わざとじゃない」
「わざとじゃないって言うってことは、当たったのは気づいてたんやんな?」
「せやけど先に叩いたのはアイツやで先生」
「そうやね、叩くのはアカンことやね」

子ども同士の喧嘩が起きれば、そこに駆けつけて出来るだけ丁寧に事実を確認して、一方だけを責めたりすることのないよう間に入って話し合う先生。

こうやって事実を確認し、どちらがどうしたらよかったのかを丁寧に話すことで、それがいずれ大きな揉め事に発展してしまうことを未然に防いでいるのだろうけれど、この解決方法には時間がかかる。そうしているうちに先生の背後でまた何かが起きる。先生ひとりに対して子ども達は35人。

そんな猫の手も借りたい教室の廊下に立って5日間、ずっと教室を覗き込んでいる「なぞのおばさん」であるわたしに子ども達も慣れてきて、中のひとりがわたしに「なぁ、せんせえー」と話しかけてきた。おばちゃんは先生ではないのだけれど、でも聞かれたから「どうしたん」と返事をした。

「あんな、男子トイレにおばけがおるねん」

学校の怪談というのは昭和のむかしと変わらず令和の今も子どもらに口頭で伝わってゆくのだねえと、わたしは感心し「お、おばけがおったん?」と聞き直した、するとその子は至極真面目な顔で

「あんな、手ェ洗うところあるやんか、そこの水が勝手に流れるねん、こわ!」

ということで多分それは(ここが古い学校だから蛇口の閉まりが悪いのやろ)ということだと思うのだけれど、その子は大真面目だし、笑っちゃ悪いかなとわたしも大真面目な顔で答えた。

「そうかぁ、怖いなぁ」
「なー!」

この時は授業中だったので(1年生は授業中でもフランクな態度で挙手してトイレに行く)、その子を教室にそっと送っていくわたし。この後、帽子のアジャスターが外れてしまったと訴える子のお帽子を修理もした。

子ども達は学校に少しだけ慣れ、わたしという謎のおばさんが教室を覗き込んでいることにも慣れ、ウッチャンも疲れたら支援クラスに行って休むという自分だけのルールと導線に慣れ、今日は支援クラスで横になりながら国語の教科書を一緒に読んだ。

「臥位でも、教科書を読んだりすることはしよう」

というのがこの5日間、小学校を浴びて決めたわたしとウッチャンのきまりごと。

最初は寝ててもなんかせえと言うわたしに「ええー」と不満そうだったウッチャンも、わたしが「大学病院に入院してる時、隣のベッドのお友達は病室で授業を受けていたでしょう」と言ったら納得してくれた。

ハンデがあってもそこに負けてはいかんということはこの先の君の人生にはきっといくらでもある、座位姿勢での学習に対応できなくても、臥位でできることをしよう。


午後、月曜日から金曜日の「はじめてのしょうがっこう」を終えて帰宅した後、お昼を食べてからもう一度小学校に戻り、この1週間をやってみての振り返りをして、来週の課題を話し合った。同席したのは支援学級担当の先生と、クラス担任の先生、それから支援員さん。

やっと金曜日までを走り抜けた保護者と教師と支援員は少しほっとして「いやー大変でしたねえ」と笑い合った。

ウッチャンの上にふたり、兄と姉がこの小学校を卒業しているというのに1年生がこんな大変なものだとは思わなかった。皆なんとなく1年生をこなしているものだと思っていた。でもほんとうはどの子も皆、初めての1年生を頑張っていたのだ。そして何より先生、本当に大変だと思う。35人をひとりの担任が全部見るなんて普通に考えてちょっと無茶。

そういうことをわたしが言うと、クラス担任の先生は(すごくお若い)ずっと硬い表情をされていたのを少し柔らかくしてその後、微笑んだ。

「もうクラスがわちゃわちゃで、ウッチャンのことは、お母さんにお任せする形になってしまっているし、お母さんが不安になってないか、わたし心配で」

そう仰ったので、ああ先生もこの1週間すごく緊張していたんだなとわたしは気が付いた。わたしも初めての医療的ケア児の付き添い登校にすごく緊張していたし、そもそも学校の創立史上初の医療的ケア児のウッチャンに現場を担当する誰もがみんな身構えていたのだ。

(新学期の第1週目を無事に始めて、無事終えられるだろうか)

実のところわたしたちの気持ちはひとつだったということだ。ともかく初めての小学校生活1週間は無事終った。課題はまだまだいくらもある、来週からはさらに給食が始まる。

結局、来週もわたしはウッチャンが学校にいる間、ほんの少し抜ける時間を作りながらもほとんど、付き添うことにした。

正直言えばもうするりと手を離したい。けれど保護者と、支援級担当の先生と、クラス担当の先生と、支援員さん、みんなが安心できる環境が整わないまま無理に誰かがその手を離せばどこかが歪んで崩れてしまう、そうしてそこで躓くのがウッチャンや、クラスの他のお友達だったりすると、わたしも困る。

1年生は一日にして成らず。

初めての1年生の1週間、ウッチャンも、クラスのお友達も、先生方も、本当にお疲れ様でした。わたしも疲労困憊で、頑健がウリのわたしにしてはとても珍しく帰宅してから少し寝込んだ。



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