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夢をみること

子どもを産んでから今日まで、授乳やらオムツやらのお世話のある子が乳児の時期を過ぎても例えば冬、寝相のとにかく悪い娘ふたりがお布団を蹴とばしておへそ丸出しになってへんかとか、もしくは夏、クーラーのタイマーが切れた明け方に玉の汗を額にかいて唸っている子がいてないかだとか、そのような諸々が気になって夜中に何度も起き出してしまうもので、結果私はあまり夢というものを見ないのだけれど、つい最近、触れればちゃんと手触りさえありそうな、なんだか大変に明確で明白な夢を見た。

その夢の中にいたのは私と、一番末の娘と、それから小児心臓外科のセンセイで、場所はこの子のかかりつけの大学病院のICU。

それは今から二年程前、娘の受けた心臓の手術の後に実際に現実に起きたことで、生まれつき生きることに向いていない作りをしている娘の心臓を何とかしよう、しなければならんねやと出生から三年の月日をかけて準備を重ねて来た三度目の手術の後、人工的に作り上げた肺循環がなんでか上手く立ち上がってくれず、今でこそ私の背後で歌い踊ってうるさいくらいにお元気な娘は本気で死にかけていた。

その時の娘と言えば、かのウイルスが猛威を振るっていた時分に世間でずいぶんと有名になったECMO(補助循環装置)、あの心臓と肺の循環を補助してくれる医療機器に繋がれて機械の力で血液を体内にぐるぐる循環させ細々生存を保っているなどいう状況で、そんでも明日か明後日あたりにはこの機械から離脱できなければいろいろと、まじでやばいのですけれど今はなんともできませんのでとにかく待ちましょうと、そう言われていた。

その頃の夢を見たのだった。

実際には娘はあの時、疾患のある心臓と肺以外の、腎臓肝臓各主要臓器が相当に強靭だったお陰様で、主治医と執刀医が舌を巻くほどの粘りでもって土俵際でひたすらふんばり最後は送り倒し、もうあと数センチの所にあった(らしい)彼岸に渡ることなく此岸に、それやからこの世に舞い戻ってきたのだけれど、この時の夢の中で娘は、その頃まだ大学病院の術場とICUを根城にしていた小児心臓外科医のセンセイから

「…とても残念ですが」

誠に遺憾でございますがあなたの娘さんはもう天国に参りますよという旨の宣告というか通知を受けて、その場にいた私はすぐに泣き崩れるのかなと思っていたらそうでもなく、こういう場合まずは一体誰に連絡をするべきなかと妙に冷静な頭で

「と、とりあえず訪問看護さんに今週キャンセルですて、お電話しとかんと」

など考えてから即、いやそもそも入院中は訪問看護さんは家に来ていないやないのとセルフ突っ込みを入れるなどして、そういう己がとても不思議だった。この子の父である夫とかこの子の兄とか姉とか両親とか、他に連絡しないといけない人も沢山あるだろうに、私はなんでか娘の生活と日常に関わる家族以外のみなさん、主に医療職の皆さんに連絡をしないとあかんやろとスマホを取り出して焦っていた。きっと娘をうちの家族と共に育ててくれているのは訪問看護師さんであって訪問PT(理学療法士)さんであって主治医であると、そういう強い認識があるゆえのことだとは思う。そしてそれから

「…お葬式てどうやってするん?」

と、今度は葬儀埋葬等、現実的な手続関係のことに思いを馳せ、それで夢の中でほうぼうに連絡をとってからようやっと、この子はこのまま、明日の朝もその次の朝も、もう未来永劫目を覚ますことがないのだという事実に思い至り、夢の中の私はわあわあ泣いた。

この子が産まれてこの方、あんなになにもかもを「あかん」「でけん」「無理やで」と我慢させて痛いことも怖いことも嫌なことも「もうすこし色々がよくなったら、楽しいことをたくさんしようね」なんて娘の鼻先にありもしない絵空事的ニンジンを吊るして(なんでうちばっかり、どっこもいけへんねん)などいうこの子の胸中にぼんやりと存在しているのだろう不条理と理不尽をすべて黙殺しながら、現代医療という名の馬場で尻を叩きひたすらこの小さいひとを走らせてきたというのに、結局私はいっこも良いことも楽しいこともこの子に与えてやれなかったのと違うのか、そうして私は今日からこの子のいない世界を生きるのか。

夢ならばどれほどよかったでしょう。

夢の中に突然米津玄師が歌いだした時、いつも私と同じお布団で眠っている娘の強めの蹴りによって私はハタと目を覚まし、そして親を蹴り起こした酒まんじゅう、もとい娘がすうすうと寝息をてていることを確認してから、ここ数年で一番の安堵のため息をついた。生きてるね、そして母の尻を蹴らんでもらえるかね。

ところで、命に係わる系の疾患を持つ子どもを産んで育てていると、病児業界に身をおくことになるというか、その子を産んでから数年で周りには色々な、うちの娘と同じような心臓の病気を持ったお子であるとか、脳疾患とか肺疾患とかもう色々の、難病と呼ばれる疾患のあるお子の親御さんと知り合いになり、仲良くしていただくなどして、それで私はそれまでの社会通念というのか、勝手にこれこそがコモンセンスやろと思っていたもののいくつかを見事にひっくり返された、それは例えばひとつに

「子どもはあんまり死なない」

というもので、これは統計的に考えたらまあ間違いないのかもしれないけれど(多分大人の、お年寄りが亡くなる方が圧倒的に多いのだろうし)、そんでも子どもだって命ある存在である以上不死の存在ではないのであって、子どもにも当然それは起こりうる。ただ私はそれまでの人生であんまり幼きお子が亡くなるという場面を見たことが無かったもので、その実感がなかったのだ。

でも先天的に色々の困難を抱えて生まれている子は、元々とても脆い体をしているだけに、本人がどう土俵際で踏ん張ろうと、ご両親がお医者さんがその子の手を握ってこの世界に引き留めることを試みようと、ある時するりと肉の体から自由になってしまうというか、魂だけの姿になって私らの目視できる世界から忽然といなくなることがある。

それはいつもかなり突然、唐突に起こってしまうもので、私はそういう知らせを人から聞くといつも驚愕して、しばらくぽかんとして、次にひどく悲しくなり、それから一体あの子のお母さんはどうしているのだろうかと、今あの人にどんな声でどんな言葉をかけたものかと、それが本当に分からなくて途方に暮れてしまう、牧師さんやとかお坊さんには絶対に向かない性格やなといつも思う。

のだけれども、どのお子のお母さんも、皆もともと怜悧な質であるためなのか、そういうお子を産んで育てている内に、色々の覚悟を己の中に構築して年齢以上の精神的成熟を成してゆくためなのか、勿論そこに起きてしまった事実事象を悲しむのだけど、それでもあまりに見事にお子の最期に付き添い、そうして野辺おくりをされるもので、私はいつもそちらの方に目を奪われてしまって、本当はそこに泰然とある彼女らの途方もない、それこそ怪物のような悲しみにひどく鈍重であったのじゃないかなと思うし、今もその全体像を推し量ることはきっと全然できてない。

でも、どういう訳か自分の子が彼岸に渡りましたという夢を、それは明晰夢とかその手の「あ、大丈夫、これは夢なんやで」と明確にそれを分かっていて自分を俯瞰していられる夢ではなくて、本当に現実的な病院の匂いと手触りのする夢を見て、その夢から覚めて我が子の無事を確認してから

「あ、夢でよかった」

と安堵したそのすぐあと、あのお子を現実にお空に見送ったあの人もあの人も皆、この「ああ夢でよかった」は、「あ、夢じゃないんだ」になるのだなあと、まだ夜も明けやらぬ午前四時の暗闇でなにやら泣きたいような気分になった、暗澹とした気持ちになったというのかな。これは苦しい、苦しくて苦しくて、そう簡単に抜け出せるような沼ではないんだと、そういう苦しみの欠片を知ったように思ったのだった。

自分の子を天国に送る悲しみというものは、はじめのうちそれはとても鋭利な痛みを伴うものなのだろうけれど、時間が経てば少しずつその人の中で少しずつ丸く柔く形を変えていくってこともあるのだろうし、お子を亡くした人にもその先に日々の生活は続いていくのであって、そこにはちゃんと楽しいこともあるし美味しいものも食べるし旅行にだって行く、当たり前のことだ。皆、生きている以上はしあわせにならなくては。

そして亡くなったお子だって、個人的に魂の永遠を信じる私からしたら、そのお子の高潔な魂は身体を失って後も永遠だ、とは思っているのだけれど、それでも「おいで」と呼んで、両腕に抱きしめた時の質量をそのお子が無くしてしまっているという事実が、前述のような悲しい夢を見て目が覚めた時に(あああの子はもういないんだ)と思わなくてはいけないという現実が、それが一体どういう性質の悲しみなのかということを、それの深淵のようなものをほんの少しだけ、のぞき見たような明け方のできごとだった。

それでまた、一体どうしてファンタジーを読むことはできても異世界を書くことについては全く不得手であって、多分想像力の一部を欠損、もしくはどこかに置き忘れてきているのだろう私がそんな夢を見て、自分の想像力を遠く越えたところにある感覚にそっと触れるような、そういう経験をしたのかしらんとここ数日ずっと不思議に思っていたのだけれど、思えばもう少しで、一昨年四歳で亡くなったお友達のお子の命日があるのですよね、そうか、そういうことなんや。

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