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みんな、いっしょ。

今からさかのぼること約五年前、私は行き詰っていた。

それは、当時まだ一歳にならない末の娘の世話が大変すぎたためで、一歳にならない赤んぼのお世話なんてものは誰がやっても大変だろうと言われればそれはそうなのだけれど、この末の娘というのが、経口でミルクなどの栄養をとることができなくて鼻から細い管を通して三時間毎にミルクの注入が必要ですとか、平素の酸素飽和度が75%くらいですとか、うっかり風邪なんかひかせたら最悪救急搬送ですよなどいう「育児はそりゃあタイヘンですよ」という一般論的概念をほんのり超えた感のある重めの心臓疾患児であったからで、特にその

三時間毎のミルクの注入

というものが、機材の準備、イリゲーターという点滴の袋的に高所にぶら下げる医療機器での注入、それの後始末に毎回一時間半とかそれくらいの時間を要するもので、そこからまた次の注入の時間が2時間も無いやんけという有様、その上鼻から食道を通過してそのまま胃まで通した管の先っぽを鼻にテープでぺたりと止めているという状態であるために、一歳近い月齢になってもちょっとの刺激ですぐ吐いて、そして顔に張り付いてる管とテープは

(これなあ、かゆいねんけど、めっちゃいや)

とでもいいたげな不満顔で隙あらばばりばりと掻きむしり、結果それがぺらりと剝がれてしょっちゅう管がするりと抜けるという(そしてそれは親が自力でもう一度入れるという)、片時も目の離すことのできない赤ちゃんであって、出生後、四ヶ月間入院していた病院を退院して半年もたたないうちに私の心はぽっきり折れて、ぽっきりと折れたまま育児をしていた、頼る先がなかったものだから。

当時、労働というものしていなかった私は、保育園のカードを切ることのできない人だった。ついでに言えばあの頃はまだ、保育園入園点数をほんのりいただけるという障害者手帳も娘は取得をしていなかったし、実家などの血族マンパワーを召喚するには実家がちょっと遠すぎた。

それだから、この真夜中の注入後しょっちゅう吐き戻しては顔を真っ青にしている子の世話をして後片付けをして夜も明けやらぬ頃にまた再び注入をして、そうして朝陽が昇ればこの末っ子の他にあとふたり、当時小学生だった娘と息子の世話をして、家事をして、その間に挟まってくる通院とリハビリ。夫もいたけれど基本毎日仕事に行くので親の手は日中一人分、それだととにかく手が回らないし眠れないし、食べることもトイレに行くのもままならないと、それは大抵の疾患児や障害児の親御さんが皆経験する過酷なチュートリアルステージではあるのだけれど、そんな生活を送っていた。

あの当時、自分が日々一体何をしていたのかどうやって日常のあれをやり過ごしていたものか、あまり記憶がない。

諸々の条件が合致すれば「レスパイト」という、お泊りの預かりがあるというのはその頃、うちの娘とは別の疾患のある子のママから聞いたことだけれど娘の場合

「娘ちゃんはそれに該当する子ではないので…」

と病院の医療ソーシャルワーカーさんにすげなく言われ、とにかく自分が一人で丸抱え、独走せんならんのよという状態、それでそのころ週一で一時間だけ我が家に来てくれていた訪問看護師さんが私のほぼ地縛霊(死にそうじゃなくてもう死にました)のような顔を見て

「…娘ちゃんも、うちのデイとかに来られたらええのにねえ」

など言うのでそれは一体なんですか、デイ?デイサービス?それっておじいちゃんとかおばあちゃんが、ミニバンに乗り合わせて病院のような施設に出かけて、そこで昭和のヒット歌謡曲を歌ったりあとは書道とか折り紙などをしたりして半日ほどを過ごされているあれですかと聞いたら

「いやそれ違うで」

とのこと。それはお年寄りの方むけのデイサービスであって、うちらの訪問看護ステーションの付属施設であるところのデイていうのは障害のある子のためのデイのことやで、お母さん知らんのと、そう言われたのでした。

いや、知らんよ?

人が子を持ってそののち勝手に、自動インストールで親機能を搭載できないように、障害児の親もその子を産んだからといって福祉医療保育その他もろもろの、多岐かつ包括的な知識を自動で有して障害児の親になるのではなくて、むしろなんも知らんまま外の世界にぽいとたったひとりで放りだされる、それが定石というもので、私は当時、障害だとか疾患だとかあとは医療的ケアとかそういう、所謂スペシャルニーズというのかな、それを持っているがために一般の保育施設を利用することの難しい子ども達のためにある『児童発達支援センター・児童発達支援事業所』という、その界隈の人々が児発とかデイなどと呼ぶものがこの世に存在していることを全く知らなかった。

今は少しまた風向きが違うのかもしれないけれど、娘が生まれてそのまま入院をして手術をして退院したあの当時、退院の数日前に退院カンファレンス(患児に関わる医療者が全員あつまる申し送りのようなもの)があって、とりあえずお子さんは疾患児であって医療的ケア児でもあるので訪問看護師を週一で手配しました、そして月に一度通院してください、あとの日常のケアとか服薬とか、ああその鼻から出ている管の交換もお母さんがしてくださいねなど、ともかくすべては親の愛というより力業、それでもってその不安定な命をあなたが生かすのですよと、そういう感じだった。病院では医療に関係する情報はいくらか貰えたけれど、デイとか保育とかそういうものの情報は全て自分で取りに、いや狩りにゆくものだった。

ただそれを個人ですべてというのは全く不可能なミッションインポッシブルであって、こちらはお医者さんでも看護師さんでもソーシャルワーカーさんでもないのだし、いや仮にそうであったとしても患者が二十四時間一秒の隙無く自宅にあって交代要員一切ナシなどいう状況になったとしたらどんなタフな勤務医でも病棟看護師四半世紀などの猛者でもちょっとは泣くやろと、そういうものだった。

それだから当時の私は、とにかく少しの間でいいので誰かに娘を預かってはもらえまいかと切実に願っていた、そしてちょっとでいいのでひと息つきたかった、というか寝たい。そして預かり先はできたら医療者や疾患児についての専門知識のある人のいる場所がいい、しかしそんなものはこの世にないのだ、それは砂漠の蜃気楼というやつだ、そのように思っていたのにそれが

「え、お母さん児発とか知らんの」

とは一体なにごとですかと、私は早速看護師さんに『児童発達支援センター・児童発達支援事業所』なるものの詳細を聞いて、その訪問看護ステーションの付属施設であるデイサービスは今のところ一杯で使えないのだけれど、ここと、そこと、あとここにも連絡してみてええとこやからと、地域の児童発達支援にかかわる諸情報を貰ってすぐさま連絡をした。あの、心臓疾患児で経管栄養をしている赤ちゃんを週に一日か二日、少しの間でいいので預かってくださいませんかと、そうすると

「ええと、じゃあねお母さん、お手帳や通所者受給者証はお持ちですか」

と電話の向こうの人がたおやかに優しい声でお聞きになったもので、お母さんである私はとても元気にこう、答えた

「無いです!」

お手帳というのは障害者手帳のことであって、その当時私はその存在自体は知っていたけれどまだ娘の手帳を申請していなかった。娘のような子に関してはもう少し障害というか疾患の状態が定まってから申請をした方が良いと主治医に言われていたからだ。

そしてもうひとつの通所者受給者証というものについては、一体何のことか皆目わからなかった。どうやらうちの子が児発というところに通うにはそれが必要であるらしい。

私は生来、まったく門外漢の、無知である事柄はとりあえず誰かに聞いてみたらええやんかという雑な感覚でえいやとそこにある穴に飛び込んでみるという癖のようなものがあって、結構それで痛い目をみるのだけれど、この時はこれが大変いい方向に働いたのだった。

「ええと、うちの施設は今定員いっぱいでお子さんをお預かりすることはできないのですけれどね、通所者受給者証の取得であるとか、施設探しとか、あとはそことのご契約ですね、そういうものをコーディネーターとしてお手伝いはできますよ」

「え、ならそうします」

ということで、児童発達支援コーディネーターが仲間に加わった。

娘は、通所者受給者証こそ取得していなかったものの(というか親がそれを知らんかった)指定難病児として生後四ヶ月で小児慢性特定疾病医療受給者証を取得していた。それがあったのでハナシが大変に早く、市役所で必要書類を貰い、必要事項を記入し、ケアプランを立て、市役所福祉課での個別面談を経て通所者受給者証を取得し、それと同時進行で施設を探しましょうとなったのだった、この偶然はとても幸運なことだったと思う。

そしてこれがまた棚からぼたもち的、天の配剤的ラッキーだったから怖いとも思う。

もしあの時、偶然、訪問看護師さんとの世間話から『児童発達支援センター・児童発達支援事業所』というものの存在を知って、勧められるままそれをやっている施設に電話をして、そうしてコーディネーターさんに辿り着かなかったら、また長い長い回り道をしてその間に心身ともにくたびれ果ててそれこそ娘をどこかに、通っている大学病院の子ども病棟の前に捨ててしまっていたかもしれないのだから(しかしそれだとすぐに足がつく)。

コーディネーターさんはふんわりとした柔らかい印象の元・保健師さんで「俺が死ぬかおまえ(娘)が死ぬか」という風情で娘を抱いてよろよろと面談にやってきた私を見て「とにかく急いで預け先を探します」と大変な速度でもって諸々の手続きをこなしてくれたのだけれど、娘がまだ状態の安定しない心臓疾患児であることに加えてやはり医療的ケア児であることがネックになって、受け入れ施設はなかなか見つからなかった。

「娘ちゃんは、医療的ケア児ではあるけれど、大幅な発達の遅れはなくて、普通に動けるんですよね、でも酸素飽和度の低下などの体調の変化はとにかく目を光らせておかないといけない、そういう子にちょうどいい児発っていうのが市内ではなかなか…」

娘の預け先は、娘がまだ状態の安定しない疾患児でかつ医療的ケアがあるため看護師さんの常駐している施設でなければならなかったのだけれど、それだと通所できる範囲にあって空きのありそうなのはひとつだけ、それはどちらかというと心身に重い障害のある子のための施設で(施設内での介助つき入浴が可能ですよと、そういう感じ)、本来であれば娘向きではなかったというか、その頃はちょこまかとお尻で這いずり回ることができていて、それでかなり室内を縦横無尽に、自由に動き回るようになっていた娘は、絨毯敷きの床にころりと仰臥して過ごす子の多いその施設では他のお友達の邪魔になるし、ひいては事故のもとになってしまう、だからまあ今回は見学だけくらいの気持ちで、と言われながら、コーディネーターさんと見学に行った日

「赤ちゃんがきた!」

その施設の、普段子ども達の過ごしているお部屋に入るなり、建物の上階にある付属の訪問看護ステーションから看護師さんが数名わーっと降りてきて娘をくるくるとかわるがわる抱きあげて、最後には野球部保護者会・会長という風情のとても元気な施設長さんの腕にするりとおさまり、その人が暫く娘をあやして後「ウン、大丈夫そう、うちで預かりますよー」と言って貰ったもので、私はその時施設長さんを伏し拝もうかと思った。

児童発達支援事業所が、仲間に加わった。

娘はそれから週に一回か二回、毎回三時間程度だけれどそこに通うようになり、それは生後七か月頃から、間に入院やら手術やら、あとはあのいやな感染症の大流行なんかもあってとても断続的ではあったのだけれど四歳直前の冬まで続いた。

四歳直前で『この施設は利用は卒業しよう』と決めたのは、娘が時短ではあるけれどなんとか地域の幼稚園に通い始めて、運動とか情緒とかいろいろの発達がひとよりゆっくりではあるけれど進んで、結果常人よりもかなり低い血中酸素濃度と一歳半から装着している医療用酸素をものともせずあちこちをぱたぱたと走り回るようになったからで、ただ預かってもらうということであれば訪問看護ステーションの付属施設であるそこは本当に安心で、赤ちゃんの頃から一緒に過ごしてきたお友達もあるし、施設長さんもスタッフの皆さんも運転担当のおいちゃんも大好きだったのだけれど、やっぱり娘ちゃんにはもう合わなくなったのだよ、他のお友達が危ないからねということになったのだった。

ひとくちに「障害」といってもそれのグラデーションの濃淡というか種類と状態は本当に様々、障害や疾患のある子をただ児童発達支援事業所とかその手のところにえいやと入れておけばいいというものでもないのであって、その子その子の特性や身体条件によって合う、合わないがあるし、必要な設備や人員もその子により様々、うちの娘にぴったりの施設に空きがあってそこが通うことのできる距離にあるというのは、私のいま暮らしている地域にあってはほぼ僥倖と言っていいし、四歳直前のこの時まで、たとえば私が突然体調不良とか、上の子が緊急事態とか、とにかくどうしようもなく親がこの娘の安全を確保できないのだという時の、緊急預かり先が確保できていたというのは、奇跡に近いことだった。

というのは今、娘にはそういう場所がないもので。

娘はいま色々と配慮を貰って幼稚園には通えてはいるけれど、そこでの延長保育や長期休み中の預かり保育は人員の関係上ちょっと難しいということになっているし、四歳前にこの児発を卒業して、そのあと少しの期間契約して利用していた新しい施設も途中で看護師さんがいなくなったので利用できなくなってしまった。

そんな訳で私はいま、うっかり死ねないと、そういう状況にいる。

それはまあ、普段から死なないように気を付けるとして、このようにひとたび障害のある子、ないしは病気とか医療的ケアとか、そういうものを持つ子の親になると、その子を安全に預かってもらいそうしてその子のいろいろを伸ばしてやれて、楽しく時間を過ごせる、そういう保育施設を、特に乳児から幼児の間、確保するというのは、ちょっと並大抵のことではないのです。

そうして、保育園にも幼稚園にも「そういう子は前例がないので…」などと入園を断られて、もしくは諸条件を満たしていなさ過ぎるからと初めから諦めて、そこで初めて何かしらのルートで児童発達支援事業所、児童発達支援センターなるものがあると知って、その我が子を片手に役所で煩雑な手続きをして、次いで施設を探して見学をして、また山と書類を書いて、私の場合はコーディネーターさんに依頼ができたけれども人によっては親が自らケアプランを立てて、そうやって必死に、大げさでなくじりじりと地べたを這うような地道さで子どもに安全で安心な保育環境を確保してきたのに、今回そこに突然制度が変わって健常の、健康であるお子さんも児童発達支援事業所にお気軽にどうぞとなった時

「え、なんなんそれ…」

という気持ちが、障害のある子の親御さん側にいくらか発生してしまうのはきっともう致し方ないことであるし、その気持ちを抜きにしても、伸ばしてゆける能力、補わなければいけない力、配慮するべきところ、必要な医療的ケア、それが全く違う子どもらを、そのグラデーションの濃淡をないことにして、ただ単純に同じ施設の同じ空間に入れて、ということはやはりちょっと難しいことなのではないのですかね、それとは逆に障害のある子を普通の幼稚園に入れて過ごさせることは、本当に毎日が調整と修正の連続なのだけれど。

それをインクルーシブであるとか、ひいては共生というのは少し、違うのではないの、むしろそこには双方の分断という暗く深い溝が生まれてしまうのではないかなと、そのように思ったのでした、私は。





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