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たのしいをパッチワークにする

さて、今日みたいな空気のとうめいに澄んだ秋の日、3歳を幼稚園に送り届けてそのままとって返して自宅に戻り、そのたかだか3時間が今のわたしには本当に貴重で希少なもので、静かであると言うのは、「ねえおかあさん!」のひとことで仕事とか家事とかそういうものの集中が途切れないということは、なんとありがたいことかと思うのです。

しかしですよ、折角その3時間を家事とか子ども以外の事で埋めようとしてもまず気になるのは結局夕飯のこまごまとしたお菜のこととかベランダの洗濯物とか真ん中の娘がなぜだかやたらと可愛がっているサボテンのこととか、そうやお兄ちゃんの制服のズボンの裾がおそろしく短くなっていたのをアレは一体どうしたらええんや、あの子はなんであんなに食べへんのに背丈ばっかり伸びるのやろとそういうことばかりなのです。そんなことをしていると私のさして多くはない脳の容量はすぐに飽和するというのにこの上更に気になるのは、今日、羽根が生えたのかのごとき足どりでうきうきと人生初の遠足に出かけた3歳のことと、この子とおんなじ病名をもって今日はICUにいるお友達のことなど。

その3歳とは「アンタのどこが指定難病なんや」と突っ込み必須の頑健な心臓疾患児で、その上この病態の子にしてはめずらしく体の中に欠けなくもしくは多すぎることなく存在する心臓以外の各種臓器が、主治医がそのいろいろの数値を見てあきれるほどの正常数値。とにかく私の世界に概念として存在していた『先天性疾患の子ども』を一変させた子であるので、今年の2月の末にあった結構大がかりな心臓の手術も、それは人に聞けば聞くほど驚きの大手術ではあるのだけれど、そして心配は心配やけれども、この子に関してはサクッと10時間ほどで終わってそのあとは数日でシレっとICUから病棟にお戻りなんちゃうかなあと思っていたらそんなことは一切なく、この世の瀬戸際にある人体を機械がなんとかもたせます的医療機器の3強(かどうかは知らんけど)

ECMO(補助循環装置のひとつ)
人工呼吸器
人工透析器

これらをフル稼働させて何なら透析器の回路を1日で3個つぶして、当然ペースメーカーも強心剤もじゃんじゃん使い、生存のための本気のドーピングをかまして、いよいよ危ない命をなんとか此岸に引き戻し、さあ麻酔も鎮静も量を減らしていざ覚醒となったとき、何故なのか目線はつねに虚空を泳いで口元はぱかんと開いて表情はぼんやりと何もしゃべらへんし、好きな絵本を読んでも一切反応せえへんし、とうぜんのように何も食べへんしという謎のぼんやり期がやって来て、これはまさかもしや脳に何かあったかもしらんという診断が飛び出したのでした。

実際、心臓の手術では人工心肺を使って心臓を一旦止めてしまうという人体にとってはこの上ない無茶振りをするわけで、その状態で心臓とその周辺を切ったり縫ったりするということが負担となってエライ不整脈を起こしたりすることもあるわけで、そうなると体の隅々に酸素やらをお送りする動きが相当にぶってしまうわけで、結果人体の司令塔である脳にたいへんな問題を生じることがあるらしい。あの時は気の毒にも主治医である若い小児循環器医のドクターが、そもそもが循環器の専門医であるにもかかわらず脳のあらゆるデータを取りまくってこのぼんやりの原因を究明することになったのだった。わたしはこの時先生が

「ほんならおかあさん、CTとって、MRIとって、そんで脳シンチを明日。そんな感じで検査するから」

と言ったのを、承知しました分かりました脳シンチですねと相当に生真面目な顔で聞いていたけれど、実際わたしは脳シンチが何なのか全然皆目わからんかったのです。そして直後にこそこそとスマホで調べたら脳シンチというのは脳シンチグラフィー検査、核医学検査のひとつだったということで、核?核ってあのプルトニウムとかそういうやつ?というくらい知識のなかったわたしにはそこで使用するラジオアイソトープやらいう放射性医薬品(と言うのがこの世に存在しているのもとうぜん知らなかった)のこともよくわからず、とにかく先生がやりますといわはるし、この状態がこの先ずっと続くものではない一時的なものであるという確証が欲しかったし、どんなに自宅ではわたしがこの子のいのちを守り育てているんやでと思っていても病院では医師免許その他医療関係のお免状を持たない素人のわたしは役立たずのでくの坊であり、でっかい柵つきのベッドごとごろんごろんと1階の核医学検査室に運ばれていく3歳を見送るしかなかったのだった。

わたしはこのひとをこのようにして世界に生み出した張本人だと言うのに、ぼんやりと空虚な表情で、術後のきっと絶対そこにあるはずの痛みに耐えている子の「つらい」「いたい」「かえりたい」をどれも聞き取る事もできなければ叶えることもできなくて、思えばわたしはこの時にようやく初めて、自分はこのひとが生きてこの先の将来を手に入れて、それでその時に隣にあるお友達と比べるとかなり扱いの難しい、文字通りたいへんに生きづらい己の体を呪うような日がやって来たら、親として床に頭をこすりつけて謝るべきなのではないかと、いやそこまで自罰的にならなくとも、この子は自分の生存それ自体を、少しモノがわかる年齢になれば一度は疑問視してしまうかもしれない、その可能性のうんと強い生存の中にある人間なのだということを、このひとの出生3年3ヶ月後、長期生存を賭けたさいごの手術に際して誰がどう否定しようとそれがある側面では純然たる事実なのであるとひそやかに悟ったのでした。

人間が産まれて生きてそれは果たして幸福なことであるのか否か、それがあまりにも神様の匙かげんひとつにかかっているという現実に、そういう事をいずれひとよりも深く多く考えることになるのだろう子がこの世界に生まれ出ることの仲介をしたのは自分であるという事実に、この頃、もともとかなり性格が悲観的である自分はよくため息をついていたものでした。が、同時に、がらごろと核医学検査室につれていかれた子が何とかして無事の回復を果たしてくれないものか、それを主治医かもしくは神様が叶えてくれるのなら、それで退院が叶った暁には、この子が楽しいなあ幸せだなあと思えることをたくさんたくさん用意してやらなければとも思っていたのでした。生きている意味とか出生それ自体の幸とか不幸とかそんなことを考えるヒマと隙のない程たくさん、おかあさんが探して見つけて来たるさかいなと思っていたのです。

そういうことを、今ICUで、循環機能自体は回復を見せているのに、何やらぼんやりとうつろで脳は大丈夫なのかなと心配しているあの子のおかあさんも考えるのかなと思うと、わたしには何も適当な言葉をみつけて贈る事はできないのだけれど、あの子も産まれてきて今まで、きっといろいろ大変なことがたくさんあっただろうし、何で心臓がこんなおもろい事になっとんねんとかそこもお互いに思うことは色々あるのだけれど、無事に病棟に帰ってきたら、そして退院する日が来たら、楽しい事をそれこそ思い出、ことがら、事象を全部紡いであの子の世界をすべて覆うほどの大きなパッチワークキルトにできるような、そういうものが世界中からその子のもとに沢山集まって来てほしいと願っているのです。

それで今日、あの当時はもう瀕死ですわという顔をして核医学検査室に運ばれていった3歳は生まれて初めて親ナシの状態で幼稚園の可愛らしいマイクロバスと言うのかな、小型のバスに乗って遠足に出かけてそれは楽しく半日を過ごしたらしい。今日の午後1時半頃に、なにせ他の子たちにくらべて格段に体力がないもので降園時間より少し早い時間に迎えに行くと、丁度バスから降りてそれぞれにこの日のために用意したリュックサックがとりどりに可愛らしく動き回る園庭の中から、ひとりの赤いリュックサックが飛び出して来て、きょうはたのしかったよと言いながらわたしに飛びついて

ばすにのったの
こうえんにいったのよ
おともだちとおにぎりたべて
どんぐりひろってな
ほんでおかしたべたの

というこの5つの文言を無限にループし、今げんざい夕方の17時の時点で、わたしは3歳のクラス全員の名前を名簿の端から端まで言わされているのですがこれは一体何なのでしょうか。どうにもこの3歳は、自分の人生史上もっとも輝かしいほどに楽しい日であったこの遠足を反芻して何度も楽しむのやと、母のわたしに同じクラスのメンバーをひたすら呼ばせているのでした。

もうおかあさん全員おぼえたわ。

それでわたしは、この子を退院してただの2ヶ月で普通の幼稚園に放り込んだものの、体力も全然ついていかない、酸素ボンベは外れる見通しが立たない状態で、はたしてこの入園は正解やったのかと実のところ夏から今までしずかに悩んでいたのだけれど、今日はその感情をかなり払拭するに至るのでした。だって流石に年少児ひとクラス20数名、全学年80名をかき集めて楽しく遠足にいきましょうというのは、保育園とか幼稚園にしかできない芸当だもの。これでよかったのだ、いまのところは。今日うんと楽しい思い出を沢山作ったこの3歳は「おかあさん、なんでウチのことをこんな風に産んだん」と思ったりは多分していない。できれば3歳はそういう感じじゃない、具体的に言うといちいち思考の悲観的な母のわたしとは正反対に育ってほしい。

とにかく今日がお天気で本当に良かった、楽しい事、うつくしいもの、心躍る思い出、そういうの、またたくさん集めよう。


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