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サヨナラだけが人生ならば

寺山修司はそれに続けてこう綴る。

「またくる春はなんだろう」

『幸福が遠すぎたら』寺山修司

サヨナラが永遠の離別のことであるのなら再び巡りくるこの出会いは、人は、季節は、一体なんなのですか。

それを言いたくなる気持ちは私もとてもよく分かるのです。不惑を過ぎてからここまで、私の周囲にはもう二度と会うことのできない人が突然増えました。そうしてそういう人々というのは「まだいいよ、ちょっと早いよ、もう少しここでゆっくりしていったら」と言いたくなる人ばかりです。

まだ年端もゆかない子どものある人、その年端もゆかない子ども本人、子どもでも若くもないけれど彼岸に渡るには少々早すぎと思う人、その共通点は優しい人。

優しい人から先に逝く世の理というのは私にとって少し、いやかなり許容しがたいこと。

なにしろ昨日、母の姉である人の野辺送りがありましたもので。

北陸の、四方に水田の広がる小さな町で静かに執り行われた通夜葬儀に、このご時勢、持病のある娘、関西と北陸の間にある距離、3つの理由から私は出席することができませんでした。

私の実家の本当に近く、同じ町内に暮らしていた母の姉、ですから私の伯母の享年は74歳、伯母の3人の娘達は皆私と同じ小・中・を出て全員が今伯母の手元かごく近くに暮していて、孫は5人。平均寿命というものに照らし合わせるとあとほんの少し、あともう少し長生きしてほしかった人だったけれど、それは看取りの場を自宅にしたとても穏やかな最期だったよとその日の朝、実家で暮らしている私の姉から連絡がありました。

『おばさん、先ほど亡くなられました、もう少ししたらお顔を見に行きます、また連絡します』

伯母はもう15年ほど前に癌が見つかって、その時はわるい腫瘍を外科手術で切除してそれから少し歩みが不自由にはなったものの一般に「5年何ごとも無ければ」と言われている5年を過ぎて数年は大過なく過ごしていました。

その筈がここ数年、今度は体のあちこちに転移「らしきもの」が認められて、そのらしきものは一体どこにあるのかないのか幽霊のように姿を捉えられず、それ故に外科治療とか、そういう根本的な治療に踏み込めないまま伯母は定期的に入院してお薬の治療を受けていました。しかし今回いよいよわかりやすく大きな転移を特定し、それが今更どうにもできない性質のものだとわかって結局

『このご時勢に面会に制限のある病院で最期まで粘るよりは、家族の待つ自宅に帰りたい』

という結論を出したのだそう。伯母は、根気強く病気と付き合い続けて古希を越え、この先は都会の大きな病院で難しい治療を試すより、居住地域で出来ることをしてもらってあとは家族の暮す自宅で静かに最期を迎えることを選んだのだそう。

それは寂しくはあるけれど、同居している娘と、数年前に都会から戻って来た娘、隣町に暮す娘、3人とも私のイトコにあたる人だけれど、その3人の娘と孫と夫に看取られた穏やかな最期だったと姉からも母からも聞きました。母は、年子の姉妹として高度経済成長期の東京で育ち、親戚の縁で嫁いだ先がたまたま北陸の田舎町の同じ町で、そんな双子のような間柄だった姉を亡くしたことを

「まあ、仕方ないのよ、ちょっと早いなあって思うけど、お姉さんは頑張ったと思う」

と言って一生懸命に納得しようとしていました。母はこの秋に73歳になります。古希をすぎて、もう人生に終わりというものを見据えなくてはいけないなんてぼんやりと思い始めているところに突然「死」にはっきりと焦点を合わせることになったこの出来事を、この母は一体ほんとうはどう思っているのかなと、酷く落ち込んだりはしないだろうかと思って心配な私は今、せっせと母の好きな焼き菓子とコーヒーなんかを小包にして実家に送る準備をしたりしています。

そしてこの伯母の死というものは私にとって『子どもの頃可愛がってもらった、今は遠くに暮している伯母の死』であると同時に『同志の死』であって、それが今私にはひときわ哀しいのでした。

というのはこの伯母という人は、自身の3人の娘の子育ての終わった後、諸事情があって娘の子、即ち孫を手元で育てていた人なのです。

その孫というのは21トリソミー、ダウン症の子です。それは人間の23ある染色体のうち21番目がどういう手違いなのか1つ多いことで発生する染色体異常症のこと。その子のことは仮にSちゃんとしますが、Sちゃんはその21トリソミーの特徴である運動機能の発達や精神発達がゆっくりであること加えて、ダウン症の子が併発することの多い先天性の心疾患を持っていて、これもダウン症の子に多いリンパ性白血病を出生の数年後に発症、そして先天性の難聴も持っている、人生は即ち戦いであるという風情の子です。本人は天真爛漫で走り出したら止まらない、大変に元気でおおらかな子ではあるのですが。

その色々と盛りだくさんの困難を背負って生まれて来た孫を、そのまま全ておんぶしてほとんどを育てたのが伯母その人でした。

じゃあそのSちゃんの母親である伯母の娘、私のイトコはどうしていたのかと言うと、イトコはずっとバリバリ働いておりました。Sちゃんの父親である人はSちゃんがまだ小さな頃にいなくなり、イトコはSちゃんの将来のためにもとにかく必死に働かなくてはいけなかったもので。

伯母がSちゃんのことを一手に引き受けるようになったのは今から15年ほど前のこと、その当時まだ結婚もしていなくて子どももいなかった私は、イトコ達の身の上に起きた色々のことをただぼんやりと「たいへんだなあ」と思っていました。でも伯母の家は伯母の夫である伯父はちょっとした会社をやっていたし、近くには私の実家もあり、イトコの姉も隣町に暮らしていて、血族の相互扶助にはとにかく底力を見せる田舎のこと、Sちゃんもイトコもそうやって家族や親戚に支えられながら暮らしていくのだろうなと思っていたのでした。

伯母はSちゃんをどこに行くのにも連れて歩いていました。実家に私が帰省している夏にも冬にもSちゃんは伯母さんと野菜や到来物のお裾分けを持ってよく我が家を訪ねて来たものでした。私はSちゃんの使う言葉が、手話がわからないのですが、Sちゃんは表情の豊かな子なもので何となく「一緒に犬を見ようぜ」とか「ゲームしようぜ」とか彼の要求していることは何となく分かりましたし、それとSちゃんは大変に小さな子が好きで、私が1人目の子を妊娠している時にお腹の大きいのを見て目を丸くして喜び、手話で

「早く、早く産んでくれ」

と言い、それもまた私には手話の示す細かいことはわからなくても大体のことはわかったものでした。とにかく私達親戚はSちゃんを特に奇異な存在だとも、かわいそうな子だとも思わずただ「そういうものだ、可愛い子だ」と思って20年近くSちゃんの身内として暮らしてきたのです。

それが、伯母のとんでもない努力と、力業のなせる偉業であると気づいたのは、私が現在4歳の末の娘を産んでからのことだったのだから気付くのが遅いというか、何というか。

そうやって北陸の実家と関西の自宅を春夏冬と気軽に行き来していた時期から数年後、2017年に生まれた私の末娘は、Sちゃんとはまた別の心臓疾患を抱えて生まれてきました。私はそういう子を手元で育てるという山の険しさを厳しさを、伯母やイトコの姿を見ていた癖に、己がその場所に立たされるその時までひとつも考えた事がありませんでした。

生まれてすぐはとにかく明日の命を守ること、「明日が危ないかもしれません」と言われた子を次の手術まで守り、さあいざ手術を終えて自宅に連れて帰ったら朝から晩まで服薬だ栄養注入だ、具合がちょっとでも悪くなると救急外来に走らないといけないし、メンテナンス的な入院は年に何度も発生するし、それには終わりというものがないのです。

少し育てば幼稚園か保育園か、保育施設に受け入れ先を見つけることの難しさや、次の就学先は地域の小学校かバス通学の必要な遠くの支援学校にするのかそれの選択や、それが終れば中学は、高校は、その後はどうするのか。賽の河原で石積みをしているのような大変さがこのての子の子育てには付きまとうモノですが、伯母はそれを娘であるイトコと二人三脚で成人までやり遂げて、Sちゃんは今、毎日張り切ってバスで作業所に通っています。

Sちゃんは心臓の疾患に加えて白血病の治療もあったしそれはご丁寧に再発までしてくれてその全ての入院には伯母が付き添っているのです、途中から癌を身体に抱えながら。

山の険しさとしては伯母の登ったそれの方がずっと高く厳しいもので、だから私はこの数年はずっと娘の不安定な状態とご時勢のことがあって一度も北陸の実家に帰省できていないのだけれど、故郷の土を踏むことができた日にはまず実家に荷物を置いて、長く顔を合わせていない実家の柴犬ををもふもふしてから直ちに伯母の家に行き、伯母にお土産を渡して嘆息と共にこう言わなくてはと思っていたのです

「わたし、伯母さんてほんとうにすごいと思う」

そう言って、自分もとりあえず娘の治療を、富士山でいうと5合目くらいまでは頑張っているよと、そういう話をしたいと思っていたし、この伯母が最初に悪い腫瘍を見つけた時、それは外に出すと制御の効かない孫をおんぶしていて転んで、それの怪我のために整形外科に行ってそこで見つかったという経緯から

「Sちゃんがいてくれたから癌がみつかった、Sちゃんがいてくれて本当に良かった」

おんぶしていなければどこの田んぼにハマるかわからない孫をいつもほめたたえていた伯母が、どうしてそんな明鏡止水の優しい気持ちでSちゃんに向かい合えたのか、それは愛か諦観かそれとも全く別のなにかなのか、それを聞いてみたいと思っていたのです。

でも伯母は、夏の終わりに細い雲が風の流れに消えてしまうようにして、退院してからたった1ヶ月で彼岸に渡ってしまいました。此岸の私はその伯母への賞賛の言葉を中空に浮かせたまま、伯母さんがSちゃんを無事に成人させたように私も娘を成人させることができるかしらんという質問も保留のまま、伯母は昨日、ひとかけらの白い骨になりました。

今、私の記憶に残る伯母の姿は、伯母の還暦前くらいの頃のものです。

伯母は、私の一族では突然変異的に美しい人でした。多分晩年は病気で年よりずっと若く見えていたその容貌に衰えはあっただろうけれど、心はきっと最後までとても美しい人だったと思うのです。

ちょっと私には真似できないくらいに。

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