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1年生に、なれるかな(9)

3月を舐めていた。

今年の3月という季節が巡って来るまでわたしは

「世界で一番なことは子の手術入院」

と思っていたし、実際にあの長い病棟での攻防は、手術を受ける本人も、それに付き添う親も、家でただ待つことになるきょうだいも、そしてその子達のために実家から呼び出される老親も、皆不便があり苦労があり、あれこそが精神的にも体力的にも金銭的にも、とにかく全方向すべてを削り取られる人生で一番辛い行事であるよと思っていた。
 
だから「中学卒業と小学校卒業と幼稚園卒園、間に高校受験を挟んで、高校入学と中学入学と小学校入学があっても、まあなんとかなるだろう」と思っていたのだけれど、いつものこと大変に浅はかだった。
 
きょうだいの一番上、15歳の公立高校の受験日から結果が出るまでの数日間は、親のわたしが驚く程の健闘を見せた15歳のなんとなしに不安そうな背中を横目に「もしもダメだったらその時は一体何と声をかけたら…」ということをずっと考えていた、それはふんわりとガスみたいな不安が常時体にまとわりついて精神的にひとつも落ち着かない日々。無事に合格したらしたでその日のうちに、教科書購入をして制服注文をしてさらに合格者説明会へ出席し、その後は諸々の手続きがあって今度は体の方が落ち着かない日々がやって来た。
 
真ん中の12歳の子は、地域の公立中学校に進学するので入学試験こそないけれど、ランドセルにさよならをして大きな通学用のリュックを買い、制服も揃えなくてはいけないし、3月から新中学1年生として学習塾にも通い始めた。家族分の予定の書き込めるカレンダーの『12歳』欄はこれまで「ピアノ」や「そろばん」という小学生らしいのどかな習い事の予定がぽつりぽつりと書かれていただけだったのに、春からは突然の「英・国」「数・理」「復習テスト」。
 
その春の嵐の中でふと「そう言えば、ウッチャンの入学の最終打合せはどうなっているんだ」と思い出したのは3月18日、真ん中の12歳の卒業式が無事に終り、着物屋さんからお借りしていた袴一式を風呂敷に包んで返しに行く途中のことだった。忘れていたわけじゃないのだけれど、もうそれどころじゃなかった。わたしは人生で初めて「プラナリアになりたい」と思った、自分が3人欲しかった。
 
 
 
看護師の小学校常駐の予定はない、酸素の管理等は基本保護者の手で。
 
それが決まったのは2月の中旬のこと。教育委員会担当者との2回目の打合せの席で、ウッチャンの使っている酸素濃縮器や酸素ボンベの扱いが「運用資格の必要な医療行為か否か」という明確な線引きがないまま
 
「朝、娘さんが酸素ボンベを使って登校して、その後、支援教室内に設置されている酸素濃縮器に機械を交換、普通級で授業を受ける時には再度酸素ボンベに再度切り変えるということですが、付け替えは教員が実施することができません、看護師の常駐もちょっと、現状難しいと言うか」
 
24時間の在宅酸素療法のみが現在の医療的ケア内容であるウッチャンは、体調不良時の緊急対応以外は、酸素濃縮器と酸素ボンベの付け替え対応と、移動用の酸素ボンベが空になった際のレギュレーターの付け替え、その2点が医療者対応になる。
 
医療的ケアと言っても酸素の付け替えやその管理は、痰の吸引や、胃ろうへの注入、インスリンの管理、排泄のケアなどに比べると比較的簡単だし、素人の私も教えられてすぐに出来るようになった。でもそうかと言って
 
「これねー、すごく簡単なんで、看護師さんの代わりに先生がやってくれないですかね?」
 
という訳にもいかない。養護教諭も看護師免許を有しているケース以外は、医療行為を行うことはちょっとできない相談らしい。
 
ウッチャンの小学校生活は、私が暫くの間ウッチャンに付き添って登校し、体調観察、酸素の付け替え等を担当し、いずれ本人が自立してセルフケアを確立することを目指すことになった。自身の人生について回るケアを、今できないから周囲が補填することは勿論必要だけれど、いずれそれが自分でできるように促していくことも大切だ、ウッチャンは飛んだり跳ねたり駆けたり泳いだりすること以外は、大体なんでもできる子なのだから。
 
とは思うものの本心は「無念」の一言だった。ウッチャンは確かに持っている疾患名の重さにしてはカラダも大きいし感染症にも意外に強い(なんか知らんけど、罹患しないのだ)、でも心臓手術後の肺循環確立にやや失敗した感のある心肺機能で、酸素飽和度は酸素1ℓを常時入れていても90%になるかならないか、ちょっと張り切って歩き回ると疲労で歩けなくなるし、はしゃいで踊ったりすると蒼白になる、普通の子に比べて心肺機能が各段に脆弱にできているのだから、看護師さんがウッチャンの傍らに控えていてくれたらわたしも安心だったのに。
 
このままだと幼稚園の頃となんら変わりないどころか、更に繁忙を極めた生活がわたしを待っていることにならないだろうか。

毎日の送り迎え、授業中の付き添い、遠足では黒子として現場に張り付いて博物館とか水族館などに赴き、ペンギンじゃなくて自分の娘を見て歩く。
 
そんな落胆と焦りを背負ったわたしのココロと、多分小学校の支援担当のココロが同期したのか、前述の3月18日、夫の運転する車での移動中に小学校から電話がかかってきた。
 
「入学式の打合せをしたいのですけれど…4月2日とか3日とか…」
 
いや待って、まだそんなあなたと、支援級担当者と打ち合わせをしていないのですが?
 
「いえ!入学式の導線の確認とかの前にですね、娘にどういうケアがあるとか、持ち込む物品がどんなものかとか、あと酸素の機械設置とか…もっと先に話しておかないといけないことが山盛りあるんですけど、それはどうするんですか」
 
「抗弁!」くらいの威勢の良さで、その前にやることがあるでしょうと元気に突っ込んでしまった私は、その場で先方に3日後の3月21日に打合せをねじ込んだ。

ウッチャンの学校生活の色々を「4月の新学期がはじまってから様子を見ておいおい決めていきましょう」では新高1、新中1、新小1を3人抱えているわたしには時間がなさすぎるし、後手にも程がある。
 
3月21日、15歳の高校の入学金5650円をびっくりするくらい行列していた銀行窓口で支払い、その足でその日の朝作ったできたての『ウッチャンのサポートブック』を抱え乗り込んだ小学校で、わたしは朗々とウッチャンの、持参薬、緊急時の対応、連絡先、そしてウッチャンが小学校に持ち込む酸素の機械とボンベと周辺機器一式についての説明をした、それから今後の予定、4月8日から始まる学校生活は
 
「まだ、どの学科の何を普通級で受けさせて、何を支援級の対応にするかは様子を見てから決めていくしかないので…」
 
いったい何をどうしたらいいのか現場で判断するしかないということなので、登校から下校までわたしがしばらくの間付き添いをすることになり、次いで
 
「そう言えば、春の遠足はどうなりますか、場所は?時間は?そしてその時養護教諭は引率するのでしょうか」
 
1学期での一大行事である初めての遠足のことを聞くと、それはバスで1時間程の場所の文化施設に、養護教諭の引率なしで行くという。それも行って帰って6時間超の予定であるらしく、それだと酸素ボンベの入れ替えをしなくてはいけないので
 
「それは…わたし、先に現地入りしてこの子を待って、それから遠足の間は物陰からこの子を観察して遠足が終ったら、そのまま学校に電車で向かいますので、替えのボンベもわたしが持参しますね…」
「助かります…」
 
ということまでは決めてきた。看護師が来ない以上、このムラでウッチャンの病態とケアと緊急事態への対応、行事の際のあれこれに一番詳しいのはウッチャンの親であるわたしになる、みんな、ついてきてくれこの俺に。
 
思えばわたしは、ウッチャンを産んで育てて、随分と物怖じしなくなった。ウッチャンの人生に起こる色々を何とかするのに、いちいち躊躇してはにかんでいては、ウッチャンが死んでしまう場合がある。
 
結局、ウッチャンの小学校の入学式の1日前に学校と業者の間にわたしが入って伝言ゲームみたいになりつつ酸素濃縮器が設置され、同日に実施された入学式の打合せでのウッチャンの式中の導線と対応は、このつい半月ほど前にあった幼稚園の卒園式の対応をそのまま踏襲したものをわたしの方から提案した。
 
「ええと、とにかくウッチャンは緊張と寒さですぐにへばる子なもので、式中は校長先生のお話しの後、教育委員会の方の長…イエありがたいお話から来賓紹介あたりまでは保健室で待機がいいのではないかと思います。式の途中でわたしがこの子を引き取ります。それから酸素ボンベが列の後ろの子の邪魔になるので、ウッチャンは列の一番最後を歩かせるのが適当です」
 
その日、初めて紹介されたウッチャンの支援級と、もうひとつの在籍級である1年のクラスの先生は、きっと「えらいものを引きうけることになってしまった」と思ってはいただろうけれど、一生懸命わたしの話を聞いてくれた。多分新卒1年目か2年目とかなのではないかと思しき可憐さの、わたしの娘でもおかしくないような先生、何卒ウッチャンをよろしくお願いします。
 
そうして入学式を迎えた4月4日、前日は酷い雨だったのでやや肌寒いものの、美しく晴れた4月の空の下にソメイヨシノがこの日を待っていたように満開となり、真新しいランドセルを背負う子ども達とそれに付き添う親御さんに混じって、電動車椅子に乗ったウッチャンも晴れて小学生になった。
 
看護師はこないし、入学式からしばらくは毎日付き添いだし、小学校への送り迎えはヘタをすると6年間続いてしまうかもしれない。
 
ウッチャンは小学生にはなれたものの、それは全然思ったようにはならなかった。

近さを重視して一番近くの公立小学校には入学できたけれど、そして病弱児・虚弱児学級は設置してもらえたけれど、教育委員会との折衝も、看護師の配置も、先生方との話し合いももうひとつ上手くはいかなかった、勝ち越しならず。
 
とは言え、ウッチャンのような子はとにかく数が少ないのだし、だれもがその対応に慣れていないのだから仕方ないと言えば仕方ない。
 
ただ物凄く頑張って難を行けば、せめてちゃんとしたコーディネーターのような人が主導して、いつごろ何をするべきか、話し合いの際にどういうものを用意することが適当か、サポートブック作成のためのひな型、およびサポートくらいは
 
「やってくれよ…」
 
とは思ったし、実際親の能力と気力と情報量次第で、その子の教育環境の質が変わってくるというのは流石に理不尽ではないかというのは、何か機会があったら声高に叫びたいところ。
 
ではあるのだけれど、小学校に入学してこれから6年、ウッチャンと文字通り二人三脚でやっていくにあたってわたしにはひとつ大きな目標のようなものがあって、それは3月の卒園式の数日後、幼稚園に預けていたウッチャンの医療ケア用品の回収に行き、あらためて担任の先生と、それからウッチャンの受け入れを快諾してくれた副園長先生に御礼をした時、それを伝えようとあらかじめ考えていたわけではないのに口から出てきた言葉
 
「うちの子を3人全員、この幼稚園に育てていただけて幸せでした」
 
それに似たことをできたら小学校でも言いたい、そう思っている。

初めから喧嘩腰では何ごともうまくいかないというのは、ウッチャンを産んで育てて7年目に突入したわたしの経験則による教訓だ。
 
医療的ケア児の小学校入学対応は、多分その場の全員が「そんなんしたことない」という、ほぼ未経験の手探りの事象なのだ。最初から全部は上手くいかない、千里の道も一歩からと言うし、ローマだって一日にしてなった訳じゃないのだから。
 
とにかく、1年生なんかなれない、就学猶予してもらおう、もう家庭学習して生きていくんでええわと何度も考えた日々を越えて、ウッチャンは本当に1年生になった。
 
くり返しになりますけれど、新しくウッチャンに関わる先生方、この子は土俵際の粘りに定評のある強い子で、死の谷だって何度も超えてきました、多少のことは大丈夫、わたしだって頑張ります、この子をどうか、何卒。
 

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