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1年生に、なれるかな(7)

9月上旬にあった娘の、ウッチャンの就学相談で

「ご希望であるお住まいの地域の学区に、ご希望の病弱児・身体虚弱児学級が設置可能か否かは府の予算がどのように分配されるか、それにかかってはいるのですけれど、それはそれとして、就学を希望されている小学校の支援級にどうぞ見学に行ってくださいね!」

と爽やかに朗らかに告げられた時にまずこの私の思ったこと言えば

「え、なんでやねん」

ということであって、大体、就学を希望している『病弱児・身体虚弱児学級』を我が子のために設置して頂けるかどうかがもひとつわからへんのに自ら小学校にアポイントを取って「見学とか、いいですか?」とかいうのはいささかハードルが高くはないですかと思ったのだった。第一この件で窓口になっている教頭先生は鬼のように忙しい人と聞くし、人員配置と予算の都合上、別の学区に既に設置されている病弱児・身体虚弱児学級に行ってくださいよということだって往々にしてあるらしいというのに。

とは言え、今回その『病弱児・身体虚弱児学級』に就学を希望している娘・ウッチャンには9歳上の兄と6歳上の姉がいて、ひとりはその小学校の卒業生、もうひとりは現在絶賛在学中であるもので、小学校に電話をする時は

「いつもお世話になっております、6年の…の母でございますけれど」

という「在学生の保護者でございます」という文言が使えるのでその点は大変に話が早いのだけれど、これがもし第一子で、小学校に親として関わることが初めてですという場合には、全く初めましての小学校に突然連絡をして、その後単身乗り込むということになる訳なので、私なら確実に緊張により脳みそがバグを起こして

「来年就学を希望しているものの母でござるのであるが」

錆びた太刀ひとつで敵陣に切り込む野武士のような心持ちと言葉尻になるというか、まともに話せる気がしない。第一もう既に2人の我が子を小学校に送り込んでいてすら、両掌にじっとり汗をかいて、電話口では駆け足の早口になる位には緊張してしまうというのに。障害児の就学への道というものは、誰がどこを通るにしてもひとつも舗装のされていない、足場の悪いけものみちであることよ。

そして実際に「見学に行く」と言ったところで、ついこの前の9月の教育相談で設置の程をひとつよろしくお願いしますと願い出た『病弱児・身体虚弱児学級』は、文部科学省の資料によれば現在全国の公立・国立・私立小学校に設置されている特別支援学級の総数26,297学級のうち716学級、3%以下という少なさで、ウッチャンが就学を希望している小学校にもかつて一度も設置されたことはないらしい。そのため私は学校見学当日にはウッチャンとはまた別の支援が必要になる子ども達の教室を見学させてもらうことになった。

築40年超であるらしい地域の小学校の1階、低学年の教室の中の空き教室のひとつに設えられたなかよし学級(仮称)には、視覚支援用の巨大モニターだとか、その日の予定を書きだした大きなホワイトボードだとか、運動用のマットとか鉄棒とか、そういうものがずらりと設えられていて、そこにいた子ども達は低学年のみ3人ほど。その子達が突然闖入してきたおばちゃんである私はをちらちらと横目で気にしながら、大体5分毎にインターバルを取りつつ賑やかにあれは算数かな、それのお勉強をしていた。先生は3人の子ども達に対して2名、多分ひとりが学級担任でもうひとりは補助教員。

「…全学年の子どもまとめて『特別支援学級』ってわけではないのですねえ」

教室を後にしてからこの件の案内役である教頭先生にもの知らずな私が聞いたところによれば、特別支援学級の教室はこの学校においては低学年、中学年、高学年の3つの学年区分で分けられているとのことで、更には

「学年ごとで分けていますし、特別支援学級というのは現在7区分程あるんですけれど、その区分によっても教室を分けています」

など仰るもので、驚いた。そんなんしてくれるんですか。

それだから例えば、学校内に聴力に障害のある子の特別支援学級があって、更にそれと同学年であっても肢体不自由の子があればその子のための特別支援学級はまた別にあるということで、教室も別々になりますとのこと。

「するともしかして、うちの娘が1年生になった時に、今設置をお願いしている『病弱児・身体虚弱児学級』が実現するとして、それの低学年クラスはうちの娘がひとりだけということになるのでしょうかね」

「そのあたりの詳細はまだ決まっていませんけれど、そういうことになるかもしれませんねえ」

ということなのだそうで、ウッチャンの学習環境は、多分ではあるけれど、桜芽吹く春頃よく夕方の地域ニュースに流れてくる『~県の山間部では昨日、10年ぶりの入学式が行われ、村をあげてたった一人の新入生をお祝しています』のような設定になるのらしい。これまでずっと、庭先に熊と鹿の出る自然豊かな実家と比べると遥かに都会で子育てをしているのだよなあ私はなど思っていたけれど、これではまるで熊と鹿が同時出没する実家どころではない、秘境の里の学習環境ではないの。

勿論、遠足や運動会、それから校外学習などでは、普通級の子ども達の中に混ざって一緒に活動するし、教科によっては普通級に出張してそこでお友達と一緒に授業を受けるのだけれど、現在特別支援学級に在籍する子どもは1日に2時間だか3時間は固定で在籍する特別支援学級で授業を受けることが決まりなのだそうで、そもそもウッチャンの場合は、ちょっと調子に乗って普通級の子達と2、3時間など連続で授業を受けて更に、休み時間に皆でドッヂボールなどして過ごすなんてことをしたら息切れの後に顔が白蝋のような白さになって活気が消失、最終的には私にお迎え要請があること必須であるので、それはそれでいいのだけれど、先生と生徒1対1で授業を受けることがデフォルトであるというのは

「と、友達という概念はどこにいくのけ」

という疑問というか懸念が発生してしまう。大学病院の小児病棟に設置されている院内学級だって、病室への出張授業でもないかぎり生徒ひとりに先生ひとり、というのはまずなかった。友達、おまえ一体どこに行ってしまったんだよ。

 

というよりか、いま現在もウッチャンには親しいお友達というものがいない。

小さな子はよく同じ年頃の他者のことを「お友達」と呼ぶし、私もSNS界隈で知り合ったウッチャンと同じような疾患をお持ちのお子さんのことは総じて「お友達」と呼ぶのだけれど、その子達と実際にお会いする事は本当に稀なことだし、それだからここで定義する「お友達」というものは、例えば幼稚園でいつも一緒にいるとか、保育時間の終わった後、もしくはお休みの日にお約束をして一緒に遊んだりするような『お友達』のこと。

そもそも3歳半になるくらいまでウッチャンは、「これ…どんだけ入院せんならんのよ」などと川面に沈む夕日に向って頭垂れるほど入退院をくり返していた。そして手術をして「これで大人になるくらいまでは心臓とか肺の、循環というものが保たれるでしょうよ」という状態を作り上げていたもので、お友達を作るどころかお外に遊びに出ることもあまりできていなかった。日常的に同年代の子ども達と一緒に過ごすようになったのは本当にここ最近の、幼稚園の年長さんになってからのことだ。

年長さんともなると、同じ年長クラスの子ども達はお友達との関わりが上手にできるようになってきていて、それまで年中、年少の頃は医療用酸素を付けていて欠席ばかりの少し特殊な『お友達』という雰囲気を纏って、何となくクラスのゲスト扱いだったウッチャンも「おれたちのクラスの仲間」という感じになり、年長クラスの皆はとても仲良くしてくれるのだけれど、ウッチャンはどうしても肺循環の不備で常態的にチアノーゼで体力が普通の子の半分以下、同じ年の子ども達と同じ保育時間で同じ保育内容をこなす事なんかはまずできない。クラスの子ども達がお外で駆け回っている自由遊びの時間は大体お部屋の中だ。

そして年長児になってからのウッチャンは、幼稚園の保育室の中で常時携帯している医療用酸素を専用のカートに乗せてゴロゴロと自力で運んでいるのだけれど、そうすると移動中は常に片手が空いていない状態になる、それで幼稚園ではよく先生から、子ども用の小さな椅子を「自分で運んでお片付けしましょう」とか「自分でお席に持って来ましょう」という指示があることが多いのだけれど、そのような時には

「お友達に酸素のカートを持ってもらうようにお願いしてね」

ということになったらしい。

かつて「幼稚園なんか死んでも行けへん」という姿勢を3年間貫いた頑固なこの子の兄も大変にお世話になったウッチャンの担任の先生はこのことを「来年の小学校入学以降は自分から人に何かをたのんだり、たよったりできるように」とその狙いについて話してくださったし、気の良いクラスの子ども達は頼まれれば誰もイヤだなんて絶対に言わない、というより争って世話を焼いてくれる。

確かにウッチャンは家では私、幼稚園では加配の先生という大人の支援者ありきで生活をしているので、自立心と依頼心を天秤にかけた時には後者に秤がぐんと傾いてしまいがちで、その上このウッチャンは家に年の離れた兄と姉がいてとにかく黙っていても色んなことをやってもらえるという、生まれながらの女王(暴君とも)気質、それをできるだけ今から訓練をして、自分の前にある問題は自分で解決できるようになった方が良い、それはよく分かる。

実際、ウッチャンは誰かに「これこれしてくださいな、手伝ってくださいな」と言えるようにならなければ親の手を離れて外の世界で暮らしていくのが難しいというのは事実なのだ、もうすぐ電動車椅子だって使うようになる、公共の交通機関に乗る事もいまよりもうちょっと大変になるのだろうなあ。

ではあるのだけれど、それだとウッチャンが常に子ども達の中で

「うちらが助けて、守ってあげないといけない子」

という立ち位置に固定されてしまうのではないかなと、多分過保護な親であるのだろう私はそれを今から心配しているのだった。

たぶんこのまま、終生治ることない心臓を抱えて医療機器を携帯して、結果所謂マイノリティ側に立つ人間であり続けるウッチャンの、その自尊心を削らずに、集団の中でマスコット的な、インクルーシブの実践教材的扱いにならずに、世界と仲良くしてゆくにはどうするのがいいのか、何が最適解なのか、いやそもそもあるがままのウッチャンが世界の多数派の、マジョリティのインフラの中でいちいち「オネガイシマース」と声を上げていかないと暮らし辛いってこと自体が間違っているのじゃないか、それじゃあウッチャンと同じような身体条件と境遇で学生生活を送った諸先輩方はそれをどう思っていたのか、そういうことを知りたいなあとは思うけれど、意外に近くにそういう人っていないのですよね。

それはウッチャンもまた、自分と同じような医療機器を身体にくっつけて暮らしているお友達がいたらいいなあということを漠然と思い始めているようで、すこしまえ幼稚園で開催された近隣の保育園の子ども達との交流会でも、そんな『たましいの双子』のようなお友達との邂逅をとても期待していたのだけれど、どうやらそういう子はいなかったそうだ。

身体条件の全く違う、障害のある子とそうでない子の間に友情っていうものは『お世話する側とされる側』『保護する側とされる側』という関係性をそこに構築することなく成立するのだろうか、ウッチャンはこの先、もう少し自分の胸の内にある感情をきちんと整理して言葉にできるようになってきたら、ひとから憐憫を示されることをきっと嫌うようになるだろうし。今もう既にウッチャンのことをよく知らない同じ年頃の子ども達から「なんでそんなん(医療用酸素)つけてんの?」と聞かれると委縮するようになった。

自分が他の子と違うのはもう十分わかっているのだけれど、それを「どうして?」などと聞かれても、もともと自分はこうなのだから理由なんて分からないし知らない。でもそれを誰かに説明できるようになるのもまた、ウッチャンの今後の課題だったりする(やることがめっさ多い)。

その解決策で一番手っ取り早いのは、このウッチャンを外見上の「普通」から隔てている医療用酸素を外すことなのだけれど、それが直近で可能なことなのかと言えば

「それは、数値の安定だけが人生ではないのでね、人生の質を取ることにして酸素を外すと言う考え方もありますよ、一度外してみて、トライアンドエラーをくり返して試すというのも、お母さんがどうしてもこの子の酸素を外したいというのならやってみたらどうですか」

とのこと。この回答をくれたのはウッチャンが3ヶ月に1度くらいの割合で通う専門病院のドクターであって、これは言い換えると

「そりゃあこの子は低酸素状態で生きることに体が慣れているので、外したところで即呼吸不全なんてことにはならんやろうが、確実に数値も体調も安定しなくなるし寿命にすら関わることなのやから酸素は黙ってつけといて」

ということで、起死回生の策としていずれ予定される再手術も「実際はそれをやったらより悪くなることもあるんでね」とのことだった。

これは多分私が相当しつこく「これ外れへんのんですかねえ、この先どないなるのですかねえ、というかどないかならんですかねえ」と診察室で聞きすぎたせいなのだけれど、こちらとしてはその『エラー』を恐れてせっせと重い酸素を担いで暮らして、家からちょっと遠い病院にだって幼稚園をお休みして娘と来ているのであって、なんちゅうかその、言い方よ。

ということで医療側(というかドクター側)からは、今やれることはあんまない、酸素も服薬もこれまで通りやと引導を渡されて、それでこれからどうやって就学を乗り越えて、かつ安定的な通学に漕ぎつけたらいいものか、毎日の送り迎えはまだまだ必須だろうなどと模索しているのが現在の私であって、小学校の方には、見学の日にウッチャンの事を色々と聞き取りをしてもらい、多分その辺の2歳児よりも体幹がよわよわで体力のない(この前外を歩いていて、近所の2歳位の子にフツーに追い抜かれていた)ウッチャンのために座位補助クッションをカタログ持参でプレゼンして学校から教育委員会に予算の申請をしていただいてというのが、10月に私がやったこと。

そしてこの5年、ともかく必死に「これ、どないかならんのですか」と頑張って来たウッチャンの心臓とそれの循環そのものが「人生の質を取るか、数値の安定を取るか」とかそういう話にすらなってきたことに

「あんな言い方することある?ウッチャンはまだ5歳なのやで」

病院からの帰路、病院と駅を繋ぐ長い渡り廊下で半べそかいていた私を慰めてくれたのは、「しんどくてもう歩けへん…」など言って19キロの体を親の私に抱っこさせていたウッチャン本人で

「あたし、酸素あっていいで、自分でカートで運ぶやん、なんで落ち込んでんのん?」

と笑われてしまった。いやもう、ジャンボリーミッキーを踊るねんと言ってほんの1分間飛び跳ねただけで酷い息切れを起こす身体脆弱なウッチャンは精神的には相当に頑健であるね、お母さんももうすこし頑張るわ。

 

 

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