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小説:永劫回帰する夏 後編

後編です。読んでいただけたら嬉しいです。

☞5

まだお盆休みには少し早い、空席の目立つ新幹線の中で、自由席の3列シートに並んで座った小学5年生達は嬉しそうに、窓の外の夏の水田を眺めていた。

「これはN700Aです、『エアロ・ダブルウィング形状』を採用する事で300km/hを実現しています。曲線区間で車体を1度傾けて高速安定走行を実現する車体傾斜装置を搭載していて、ですから大変揺れの少ない安定走行なんです。実際に僕は今あまり揺れを感じていません、凄い、本当に凄い」

電車の中でも特に新幹線が好きすぎて、大阪に住んでいた頃は、休みの日は、何なら休みの日じゃなくても父とよく新大阪駅に出かけて、父と1日中ホームに滑り込んで来る新幹線を飽きずに眺め続けていた於菟は、類君に今乗っている新幹線車両の性能と構造について細かく解説し、その相手をしている類君は

「なんかようわからんけど凄いんやろ、分かった分かった。於菟、じゃがりこ食う?」

そう言って、興奮すると言葉に抑揚がどんどん無くなり、機械が話しているみたいになる於菟との会話の最中、持参したスナック菓子を勧めたりして適当に流していた。この2人は普段から全然話がかみ合っていないのにとても仲が良い。不思議だ。まあ2人もゲームが好きで、桃鉄でひたすら日本全国を回ると言う共通の趣味はあるみたいだけど。

丈おじさんの甥の於菟、そしてこれから私達が探しに行く夏目利一君の血の繋がらない甥の類君、2人は30年前の丈おじさんと利一君と同じように小学4年生の時に出会い、そして今、互いを大切に想い合う親友だ。そう思うとなんだか不思議な感じがする。過去が複写されて私の目の前で再現されているみたいな感じ。

時空を越えて同じことが連続して起きているような、歴史ってこういう風に永遠の循環運動を繰り返すものなんだって、そういう事を言っていたのは、確か死んだお父さんだった気がする。

「だから人間は、今目の前に起きている出来事を見て、聞いて、全身で感じて、一瞬一瞬を大切に生きなあかんのやで」

そう言って、だから自分はアートの世界で生きているのだと、スーツを着てネクタイを締めて満員電車に詰め込まれるような人生を生きるのはちょっと違うんやと言っていた父は、その言葉通り定職につかず、人生を好き放題に生きて45歳で死んだ。ある意味では有言実行だ。それが父の子である私と於菟の手本になっていたかどうかは別にして。でも最高に楽しそうな人生ではあった。

「あ、茉莉ちゃん、これ、利一おじちゃんの写真。お母さんのアルバムから勝手に剥がして来た、いるかなと思って」

「え、ホントに?ありがとう、いるいる、ていうか見せて」

車窓を眺めながら於菟とじゃがりこを半分こして食べていた類君が、思いついたようにそう言って、手についたお菓子の油をTシャツの端でぬぐってから、膝に乗せていたリュックから取り出した封筒の中から少し色の褪せた写真を出して私に見せてくれた。その写真の中には、泥で汚れた野球のユニフォーム姿を着た坊主頭の日焼けした笑顔の男の子と、東高の夏の制服を着た眼鏡で無表情の男の子が今日みたいな夏空を背景して立っていた。

「これが利一君?で、この隣ってまさか丈おじさん?ウッソ全然変わってない、当時から眼鏡だし、猫背だし、カメラの前で無表情になっちゃうとこも全部同じ。丈おじさんて年取るのやめてんのかな、ねえ於菟見てごらん、おじさん、えーとこれ98.07.21って日付だから、23年前の丈おじさんだよ、全然変わってないよ」

私は、新幹線の車窓を真剣に見つめている於菟に、23年前、17歳だった2人の写真を見せた。ホラこっちが類君の叔父さんの利一君、その隣が丈おじさん。この写真のおじさんの変わらなさ、異常だよねと言って。

「丈おじさんは、多分ずっと変わりません、病気で死んだりもしません、僕にちゃんとそう言いました。この隣の人は類君のおじさんですか、類君に全然似ていませんね」

「だから、類君と利一君は血の繋がりが無いんだって、さっきも車の中で丈おじさんが言ってたでしょ。類君のおじいちゃんの最初の奥さんが類君のお母さんのお母さんで、その人を病気で亡くして、その後に結婚した今のおばあちゃんが利一君のお母さんで、だから類君と利一君は甥と叔父だけど、血縁関係はないの」

「それは、生物学上の関係が無いということですね」

「於菟ってホントにそういう、なんて言うの、風情?情緒?そういうのが一切無い物の言い方するよね。でも利一君て普通にかっこいいね、これ、絶対女の子に人気あった筈だよ。なんかね、ウチのお母さんが利一君は高校2年生にしてもう大リーグの強打者みたいな体格だったって言うから、私、利一君てクマみたいないかつい系の大男なのかと思ってたけどそんな事全然ないね、確かに丈おじさんよりだいぶ背が高いけど…これ、利一君て身長何cmくらいあるのかな」

私は、新幹線に夢中の於菟は置いておいて、5歳年上の私といつも友達のように会話してくれる類君に聞いた。類君はこの叔父である利一君について、何かお母さんから聞いた事あるの?

「身長が188㎝あったって言ってた。超でかかったって。それでウチの店の入り口にいつも頭ぶつけるから、おじいちゃんが店が壊れるとあかんし利一の脳みそも心配やし、その内お店の建て替えをしてやろうって言ってたって。頭に血が登りやすい子やったけど、でも何の理由もないのに大声出したり、暴れたりするような子じゃなかったっておばあちゃんもおじいちゃんもお母さんもみんな言ってる。どこかで元気にしててほしいし、いつか帰ってきてほしいって」

「あの、それは理由があれば暴れる、ということですか」

於菟が私と類君の会話に口を挟んだ。於菟は多分、利一君が失踪する原因になった野球部の事件の事を聞いているんだろうとは思うけど、於菟、アンタ本当にさ、言い方。

「於菟はまたそうやって、身も蓋もない聞き方するけど、正義感の強い人だったって丈おじさんが言ってたし、ちゃんと事情とか理由があったんだよ。だって利一君の家族の類君のお母さん達は利一君の事をちっとも悪いなんて思わないで、23年経った今でもずっと利一君が家に帰って来るのをずっと待ってるんでしょ」

「ウン、だから俺も今日一緒に来たいって言ったんや。俺が生まれた時にはもう利一おじちゃんは行方不明になってから、ホンマのおじちゃんに会った事は無いんやけど。あ、大丈夫やで、於菟から利一おじちゃんを探しに行くって事は絶対に秘密やって言われたから今日俺が大阪に行く事は誰にも言ってない。ホントは今日な、あの…なんやったっけ?面会交流?お父さんに会う日やったんやけど、俺お父さんなんか嫌いやし、だからアイツが来ても会うつもりなんか無いって、それだけ言って家から逃げて来たんや」

類君はにこにこしながら、なんだか物凄く不穏な事を私に言った。

「えっ、ちょっと待って、今日類君が私達と京橋に行くって事、お母さんに言ってないの?私、類君のお母さんが知ってるんだと思ってウチのお母さんに何も言って来てないよ。利一君の事も言うとややこしいからと思って黙って来てるのに、ここに更にそういう秘密が加わるとややこしいのが累乗になるって言うか…だって類君、面会交流ってアレでしょ、今は別々に暮らしてるお父さんと定期的に会うってやつでしょ、それってサボって良いモンなの」

「別にええんちゃう。だって俺が行かんし会わんて言うてるのに何で面会とか交流とかせなあかんの?交流って言ってもホンマにちょっとの間なんやで、しかもわざわざ大阪と滋賀の中間地点で俺の事引き渡すって、モノちゃうねんから。それに向こうにはもう別に子どもがおって、ホンマは俺なんかもうどうでもいいねん、ただの見栄?というか義務?ほら何やったっけ於菟、こういう…そんなん全然思ってないのに見栄はってるヤツって」

「体面だと思います」

「そう、ソレ。そのために会うって言ってるだけなんや。たまにしか会わんでええなら可愛い、一緒に暮らしてた時は何もしてくれへんどころか碌に家に帰っても来いへんかった。そんなヤツ今更いらんで俺。めんどくさいねん。だからアイツが俺に会いたいとか二度と言わへんように、今日、アイツの店に卵投げつけたろうって思って」

コレ、持って来てるんやと言って、卵の6個パックを忍ばせた類君の青いコールマンのリュックサックの中身を見せられた時、私は軽く眩暈がした。既に生まれて1歳半になっている異母妹とその母親を取り、類君と類君の母親の香織さんを捨てる形で新しい家庭を築いて、今、何ごともなかったように香織さんがその評判と味を作って来た店を続けている実の父親を、類君は深海の如く深く静かに、そして強く恨んでいた。

「せやから利一おじちゃんを迎えに行ったら、みんな、俺と一緒に谷町六丁目にあるアイツの店に付き合って欲しいねん、俺がアイツの店にこの卵全部ぶつけたる、あのクソが」

類君の言う、京橋から谷町六丁目は地下鉄1本で行くことができる。京橋から長堀鶴見緑地線で5つ目の駅。類君は、友達とその姉と一緒にちょっとした夏の冒険に来ているようなフリをして、実はそういう物騒なテロ計画を胸に秘めて私達とこの新幹線に乗っていたらしい。それって、類君は11歳だから最悪補導とか指導で済むけど、その気はなくても共犯になるかもしれない私は16歳だし軽く捕まるんですけど。私はただ、癌になってそれで大変な手術に臨むことになった丈おじさんのその手術の前に、ずっと会えないままだった大切なおじさんの友達に会わせてあげたい、その大切な友達の利一君も、きっともう誰かに手を引かれて家に帰りたいって思いる筈だからって、そう思って迷子の利一君を探しに来ただけなのに、なんだか意図せずとんでもないのを連れて来てしまっていた。

「類君さあ、とりあえずその類君のお父さんへの恨み?それには私も完全に同意するんだけど、でもお母さんが絶対心配してるはずだから、今私と於菟と一緒に大阪に向かってる事だけは類君のお母さんに連絡して?類君てキッズスマホ持ってるよね?そうじゃないと私、意図せず類君を誘拐した人みたいなことになるし、そういうの困るから、ね?」

『意思堅強』

その言葉がとても良く似合う、少し釣り目の大きな瞳で坊主頭の類君は、私の『お母さんに連絡して』という至極真っ当な要求に対して、頑なに首を縦に振らず、その頑固者を説得している間に新幹線は新大阪駅に滑り込み、仕方なくその話はそのままに私達は新大阪駅で降車する事になった。それで私は在来線に乗り換えた後、一駅で到着した大阪駅で2人を待たせて入った女子トイレの中で母に

『類君が香織さんに黙って私達に付いてきちゃったんですけど』

そんなごく短い文章をLINEで送信して、一応、類君の事を通報した。でも母は今仕事中だからこの通知に気づくのは昼の休憩の時だ、ああでも病棟で入院やお産が立て込むとそれどころじゃなくなる母は、下手をすると夕方までスマホを触れないかもしれない。と言う事は私はこの計画を完遂するまでは私があの子を見ておかなくてはいけないという事になる。3人の中では私が一番お姉さんだから、こんな時もお姉ちゃんか、ホントお姉ちゃんて面倒だなあ、私がそう思った時

「そうだ、利一君は、類君の叔父なんだ、とりあえず今、保護者代理をしている私よりずっとちゃんとした類君の保護者だ」

利一君に会えたら類君の実父への報復行動を止めるよう説得してもらおう。そんな考えが私の頭の中に天啓のように舞い降りた。それでそのまま、トイレの外に待たせていた2人を連れ、雨が降った翌日の山の渓流のように大勢の人間が足早に流れて行く梅田の駅の人込みを、周囲と歩幅を合わせた早足で歩いて渡り、今日、午前中の早いうちに新幹線に乗った米原駅とは比較にならない程沢山の人間が整然と乗車口に並ぶ環状線のホームの上、そこに滑り込んだオレンジ色の電車に乗り込んでから、私は類君と於菟、2人に向って

「源ちゃんのお店に着いたら、お母さんから預かって来たお土産、コレ渡してから、源ちゃんに類君が持って来た昔の利一君の写真見せて『こういう人、知らない?』って聞いてみようと思うから、類君、さっきの写真借りて良い?」

そう言った。於菟は私の話になんかひとつも耳を貸さず、久しぶりの環状線の窓の外をしきりに眺めていて、その隣の類君は私の話をちゃんと聞き、さっきの写真の入った封筒を私に手渡しながら私にひとつ質問をしてきた。

「なあ茉莉ちゃん、その源ちゃんて人って何なん?人探しとかする人なん?ケイサツ?それか探偵とか?」

「ウーン…そう言うんじゃなくて、源ちゃんって言うのはウチの死んだお父さんの友達でね。今は焼き鳥屋さんで、昔はあの辺一体を、見張り番って言うか揉め事の仲裁役って言うか、なんかそんな感じの事したり、お金貸して返してくれない人に返してって言いに行くとか、そういう仕事をしてた人でね、超優しい人なんだけど、見た目はちょっと怖いって言うか、あの…大体イメージつく?」

「全然わからん、何なんその職業」

「やくざです」

「於菟!」

於菟の中に婉曲表現というものは一切、存在しない。

「へぇ!俺そういう人見た事無い、そのやくざの人って、夜でもサングラスとかかけてる?何じゃワレとか言う?」

「『元』ね、元。あと何じゃワレとか言わないし、サングラスは夏の昼間しかしてないし、基本的にすごく優しい人だから」

於菟の余計な発言のせいで、類君は確実にわくわくしている。なんか困る。

源ちゃんは確かに昔、ちょっとだけそういう職業だった人で、でも今は焼き鳥を焼いている気のいいおじさんだ。気のいいおじさんだけど昔取った杵柄で見た目が凄く怖い。でもその過去のおかげで、お店で酔っ払いが暴れても源ちゃんが厨房からちょっと顔を出せば3秒で解決するし、地域一帯の事にも物凄く詳しい。だからもし利一君が13年前の手紙の住所の場所に今でも住んでいるとしたら、私がグーグルアースで調べた利一君の住所は源ちゃんの店のすぐ近くの、店舗用の小さなビルの2階だったし、源ちゃんは多分利一君を事を少し位は知っているはずだ。それで今現在の利一君は、突然丈おじさんの姪である私が訊ねて行って大丈夫そうな感じの人なのか、もしもうそこにはいないのならその行先を知っているのか、まずは源ちゃんに聞いてから行動するのが得策だと私は思っていた。

「もうすぐ京橋です」

大阪駅から3駅、本当に直ぐの目的地が見えて来た事を於菟が私達に告げ、電車が滑り込んだ京橋駅のホームから降車客の隙間を縫うようにして降りた1年ぶりのその駅の外は、都会の夏らしい酷く蒸し暑い空気が淀んで停滞していた。

JR京橋駅とその向かい、京阪京橋の駅が向かい合っている間のモザイクタイルの敷かれた広い空間には、献血を呼びかける赤十字の人とか、誰かと誰かの待ち合わせとか、部活の遠征で移動中の中学生の集団とか、新しく出来たマンションのチラシの入ったティッシュ配りの人とか、所在なくウロウロしている謎のおじいさんとか、それから人間のおこぼれを狙う狡猾そうな鳩に、暑くて植え込みの中で伸びている野性味の無い野良猫。そんな多種多様な人間と生き物がそこに集まって、まるで細密画のようになっていた。そこには細かに配置された人間が秩序のない氾濫した川のように流れている。

その川の中央で、源ちゃんとコウちゃんは私達を待っていてくれた。そして私と於菟と類君をみつけると。源ちゃんは大股で、コウちゃんは内股気味に、私と於菟の名前を呼びながら嬉しそうに駆け寄って来て

「茉莉、髪伸びたな、1年会ってないだけやのに何や急に大人になったみたいに見えるわ。於菟は背が伸びたな、そんで相変わらず反応が薄いな、でも源ちゃんにはちゃんと分かってんぞ、オマエが喜んでんのは。元気やったか?そんでこの子は於菟の友達か?オマエとうとう友達ができたんか、そうか、学校から裸足で逃走しとった於菟にもとうとう友達が、そんなん林太郎が生きてたら絶対泣くな」

源ちゃんはそこまで一息でしゃべってから頭に巻いていた手ぬぐいをはずして顔をごしごし拭いた、多分ちょっと泣いていたんだと思う、感激屋だから。だってコウちゃんなんか最初から何も言わず私と於菟を抱きしめて泣いていたし。

2人とも、1年近く会えなかった私と於菟が元気で嬉しい、それに於菟に初めてできた友達の類君に会えて嬉しいと言い、源ちゃんとコウちゃん、焼き鳥屋の2人は、京橋の駅と駅の真ん中の広場でまるで演出過多の感動巨編映画のワンシーンのように泣いて、コウちゃんの腕に抱きしめられた私も一生懸命涙を堪えたけど、母の予言通りやっぱりちょっとだけ泣いた。

亡くなった父の思い出の大切なピースの1つみたいな優しい2人。


☞6

源ちゃんとコウちゃんと1年ぶりの再会を果たした1時間後、私と於菟と類君と源ちゃんは、源ちゃんのお店のすぐ近くの1階部分に夜お酒を出す、バーとかスナックとか、そういう類のお店が3軒並び、2階と3階は住居という造りの店舗付き長屋みたいな横長のビルの前にいた。

「ここ?」

「ウン、まあな、多分今の時間なら店の方にいると思うけどな。アイツ、全然電話に出えへんヤツなんよな、店の中で寝てる事も多いしな。まあええわ、俺電話してから一応あいつの自宅の2階の部屋も見て来るから、それでそこにいてなさそうやったら、茉莉、オマエ、店のドア叩いてみてくれ」

「源ちゃん、警察みたいです」

「え?この人元やくざなんやろ?警察ちゃうんやろ」

「2人とも静かに」

私と、於菟と、類君、あとは道案内と状況の説明役に付いてきてくれた源ちゃんの4人で向かった利一君の自宅兼店舗の前で、私はかなり緊張していた。でも於菟はいつも通りで、類君なんか完全にこの状況を面白がっていた。そして私たちを引率して来てくれた、元、この町の顔の源ちゃんはなんだか複雑でとても微妙な顔をして頭を掻きながら建物の外階段を2階へ上って行った。



23年前、私達が今暮していた美しい城のある湖のほとりの小さな町から失踪し、13年前にこの賑やかな街から丈おじさんと家族へ2通の手紙を寄越してきた利一君の所在はこの1時間前、私達がまだ仕込み中で開店前の源ちゃんとコウちゃんのお店に

「まあいいから昼飯食うて行け」

そう言われて連れて行かれた時にあっさりと、本当にいとも簡単に判明した。

「まだ炭に火入れしていないし、仕込み中やから、焼きモンとかは無理やけど、それ以外なら何でも作ったるぞ、アイスとかデザートもホラ、食いたいだけ食え」

「じゃあお金払うよ」

「何言うてんねや、林太郎の娘と息子から金なんか取れるか、俺は絶対受け取らへんぞ、於菟の友達もなんでも食うて行ってくれ」

そう言った源ちゃんが嬉しそうに私達にお品書きを投げてよこしてから、ユニフォームにしている黒いTシャツの上にサロンエプロンをして厨房に立ち、普段からフロアを担当しているコウちゃんが於菟と類君、2人におしぼりを出したり飲み物は何がいいかと細やかに世話を焼いてくれて、結局、私達は掘りごたつになっている座敷席でタダのお昼ご飯を食べさせて貰う事になった。それで源ちゃんが私に「茉莉はこれが昔から好きやからと」まだ何も言わないのに鶏出汁の冷麺を運んできてくれた時、私達は実はこの人をここに探しに来たんだと、類君から借りた写真を2人にそっと差し出した。

「名前は夏目利一君、1981年生まれで、今40歳、身長188㎝、23年前に家出して行方不明になって、13年前ここのすぐ近くの住所から手紙を送って来たの、この都島区東野田町2丁目って所。私のおじさんの友達で、ここにいる類君の叔父さんにあたる人。ねえ源ちゃん、コウちゃん、この人知らない?この辺で見たことない?」

まるで聞き込みをする刑事みたいに簡潔に情報を並べて2人に利一君を知らないかと聞いた。そうしたら

「知ってる」

「アタシも知ってる」

「天王寺動物園にホッキョクグマがいるの知ってる?」「知ってる」「アタシも知ってる」そんな感じの気が抜けるにも程がある答えが即、返って来た。人探しって、特にこんな都会の街の中でずっと行方不明だった人間をひとり探すのって、砂浜に落とした金の指輪を探すレベルに難しい事だと思っていたのに、私達は場当たり捜査の初動の段階で目的の人物の居場所を特定してしまったらしい。

源ちゃんとコウちゃんは本当にあっさり利一君が今もこの街に暮らしていて何ならよく知っていると私達に言った。流石に於菟も驚いたような顔をして唐揚げを食べる手を止めていたし、類君は握っていた箸を取り落として掘りごたつの下にポロリと落っことしていた。

「えっ?ホントに?この人だよ?隣の無表情の眼鏡の方じゃないよ、この爽やかな高校球児の方だよ」

「せやから知ってるって。コレ…すぐそこの店のヤツや、ウン、流石に今は坊主頭やないけど、面影あるし、年齢も今年40の筈やし、高校生の頃に滋賀の田舎の方から家出したって。もう10年位前からかな、この近くで飲み屋やってるぞ、茉莉がさっき言うた住所のとこや、深夜から朝にかけてやってる店から俺もコウもこの店が終ってからよく行くんや。フーン、アイツほんまは利一って言うんや、知らんかったな」

「えっ、利一君て、今偽名使って仕事してんの?なんで?」

どうやら源ちゃんがよく行くお店のオーナーらしい利一君は、今、自分を夏目利一と名乗っていないらしい。私は急に不安になった、そう言えば体ひとつで家出した当時17歳の少年は、今日までどうやって暮して来たのか、そういうことを私は全然考えていなかった。

仮に私が今、母と丈おじさん、2人の庇護の元を離れて1人で生きていく事になったら、その先にあまりいい人生が待っているとは確かにちょっと考えにくい。利一君の17歳から今日までの人生には、名前を変えて生きて行かないといけない、何かそういう特殊で辛い出来事や事件があったんだろうか。犯罪に巻き込まれたとか?もしくは手を染めたとか?

多分眉間に皺を寄せて不安そうな顔をしていたんだろう私のさっきの質問には、源ちゃんと一緒になって利一君の写真を眺めていたコウちゃんが答えてくれた。

コウちゃんは遠目には髪を短く刈り込んだ精悍な感じの細身の男の人なんだけれど、近くでよく見るといつも爪が綺麗に磨かれていて、両耳にはダイヤモンドの小さなピアス、髭とかそういう無駄な体毛を脱毛し、よく手入れされた肌理の細かい綺麗な肌をしている凄く可愛い人だ。何より言葉遣いが優しくたおやかで、イトコのお姉さんと言う感じの人。性格も言葉も、その存在の全部が隅々まで優しい。

「あのね茉莉ちゃん、ホラ、アタシもそうだったけどね、お酒とか出すお店って、本名じゃない名前を名乗る事の方が多いの。アタシも昔、夜やってた頃は全然違う名前だったし、今もコウちゃんてあだ名みたいな名前でみんな呼んでるでしょ?そういう感じなのよ。茉莉ちゃんまだ高校生だものね、そんなのわかんないよね」

「コウはホンマは幸之助なんやぞ、門真生まれやからな。パナソニックのお膝元や」

「やめてよ源、その名前、お爺ちゃんみたいで嫌いなのよ」

「そうなの?」

「ヤダ、幸之助は忘れて茉莉ちゃん。でねそのリ…利一君はね、今はちょっと違う名前で、バーとかそういうのを2軒かな、この辺で経営してるの。源が居酒屋やってるのと一緒よ。でもね、あの…茉莉ちゃんはこの利一君をどうして探してるの」

大人は答えにくい事を聞かれると、質問を質問で返してくる、丈おじさんと同じだ。

「丈おじさんの友達だからです」

コウちゃんの質問返しに答えたのは、私じゃなくて於菟だった。於菟は類君と一緒になって、タンパク質関係では唯一好物の唐揚げを食べていた手を止めて、自分にとってとても大切な叔父が今良くない病気にかかってしまって、近々手術をしないといけない事、それで自分達はその叔父が手術を受ける前、今はもうこの世に1人しかいない叔父の友人である『夏目利一君』を探し出し、その人に叔父と会ってもらいたいと思っている事、そして

「丈おじさんは僕と同じで生きている友達が1人しかいません。僕には今ここにいる類君がいますが、丈おじさんの友達はずっと行方不明です。丈おじさんにはあと1人友達がいましたが1年前にその人は死にました。それが僕のお父さんです。丈おじさんはお父さんが死んだ時とても寂しそうでした。だから僕は今生きている方の友達に会って元気を出して欲しいと思っています。元気を出して手術を受けて、それでお父さんみたいに死なないで生き残って欲しいんです。お父さんが死んだ時、僕はすごく寂しかった、今度また丈おじさんが死んでしまったら僕はきっともっと寂しくなると思う」

いつもの抑揚のない口調で、於菟は自分達がどうしてここに来たのか、その理由を源ちゃんとコウちゃんに話してくれた。於菟がこんなに自分の中にある感情を言葉にして表現するのはとても珍しい事だ。新幹線のN700AとN700Sの車両のスペックとその違いについてなら3時間ぐらい雄弁に語るけれど、自分がこうしたいとかああしたいとか、そして自分や自分以外の誰かが寂しいとか、そういうことを話した事なんかこれまであっただろうか。私は正直於菟には、そういう感情が頭の中にほとんど無いんだと思っていた。

「於菟は、お父さんが死んでずっと寂しいと思ってたの?ただ単にお父さんが家から消えて混乱してたんじゃなくて?」

「お父さんが居なくなってから僕はずっと寂しいです。丈おじさんがもし死んでしまったら、僕は更に寂しくなります」

「茉莉ちゃん、於菟は寂しいとか、哀しいとか、俺の前ではたまにやけど言うことあるで、まあ、ちょっとわかりにくいけど、な?」

類君は於菟の寂しいとか哀しいを聞いた事があると言う。だったら於菟の姉である私は、於菟が宇宙人みたいに色々な感情とか感覚を、普通の人とは共有しにくい、あるいは上手く表現できない性質を持っているとあらかじめ知っていて、知っているだけにその事にすっかり慣れてしまっていて、於菟の本心から零れて来る言葉を拾えていなかっただけなのかもしれない。

「なんか、ごめんね於菟」

私は思わず、於菟に謝った。そうしたら於菟は

「茉莉ちゃん、なんで僕にあやまるんですか」

そう言って不思議そうにしていた。この辺はいつもの於菟だ。でも私と於菟と類君のやり取りを聞いていた源ちゃんとコウちゃんの目は少し赤くなっていた。2人とも似た者同士の感激屋だから。

「ウン、事情は大体わかった、それやったら今からこの夏目利一君のとこにお前ら全員連れて行ってやる」

「ホント?」

「ホンマや、でもな、茉莉、於菟、あと類。いいか、今からお前らの目の前で何が起きても驚くなよ。人生にはな、思いもかけない事が起きるモンやし、そもそも人間というのは複雑怪奇な生き物なんや」

そう言って源ちゃんは、コウちゃんに、ちょっと仕込みしといてくれと言って、サロンエプロンを取ると、私達を源ちゃんのお店のあるビルのすぐ近くの、夏目利一君の住む家に案内してくれた。



初めての場所に行く時はいつも少し緊張する、しかも『closed』の札のかかっている初めてのお店に入るのはもっと緊張する。私は源ちゃんが

「電話に出てくれへんし…2階の家の方には居てないから、やっぱり店かな」

店舗兼住宅長屋の2階の外階段からそう言ったので、意を決して1階のお店の何かの木の一枚板で出来ている重厚なドアを強めに叩いた。

「こんにちは、あの、ちょっといいですか」

そうしたら中から家具を木の床の上で少し動かすような音と、微かな衣擦れの音がしてから数秒の後、静かに扉が私の方に向って30㎝ほど開き、その隙間から背の高い人が外に向かって体を半分程出して来て

「ごめんなさいね、営業は夜からなの、お姉ちゃん達どうしたん?道に迷ったとか?」

低い男の人の声の、それなのに優しい口調の人が私に迷子かと聞いた。肩位まで伸ばしている柔らかなくせ毛っぽい髪を無造作におろしている薄化粧の、水色のジャージ生地のマキシ丈のワンピースを着た人だ。あれ、でもこの人って

「ねえ、男?女?」

私が数秒、その未知の人を前にして固まっていると、私の右隣に立っていた於菟がその人の顔を下から覗き込むようにして会話に口を挟んだ。それで於菟の声に反応したその人がその視線を私よりまだ頭一つ分小さい於菟に落とした時、彼というか彼女は

「えっ、嘘、丈?」

そう言って私と同じように固まってしまった。

於菟は丈おじさんによく似ている、特に丈おじさんの小学生の頃の写真を見ると今の於菟と本当に見分けが付かない位、似ている。それで目の前の華やかな、それでもなんだか立派な体格の人は、於菟を丈おじさんだと錯覚したらしい。小学生の丈おじさんを知っている人。ちょっと思っていたのとは違っていて今、私の脳は混乱しているけど、この人は夏目利一君だろうか。

「突然すみません、私、村瀬茉莉と言います、上林丈の姪です。あの…夏目利一さんですか?」

私がそう言うと、その人は私の顔3秒見つめて、それから私の頭からつま先までをゆっくり見下ろし、軽く深呼吸をしてから突然

「違います」

そう言って30㎝ほど開いていた扉を勢いよく閉めようとした。そうしたらいつの間にか私の背後に控えていた源ちゃんが勢いよく閉まろうとしていた扉を反射的に右手で掴んで止めて、更に扉が閉まらないように右足のつま先を開いている扉の隙間に突っ込んだ。私これ見たことある。借金取りが債務者から扉を閉められそうになった時に使う技だ。

「ちょっと、源ちゃん何すんのよ、借金取りじゃないんだから、ていうかアンタに借金なんかしてないんだからやめてよ、コウちゃんに言いつけるわよ!ちょっともう、本気でやめろよ源!」

「りり子、オマエ何度も連絡してんだから電話に出ろや。あのさ、状況だけ話すから取りあえず俺だけでも中に入れてくれ、それでお前がこの連中に会って話すかどうか決めてくれ、どうしてもアカンねやったら黙って帰るから、な?急に来て悪かったって」

源ちゃんはそう言うと、お前らちょっと外で待っとけ、そう言って私達の事を外で待たせ、それから3分位だろうか、源ちゃんは中の人と話をしていた。あれは利一君なんだろうか、それとも利一君の関係者の誰か別人なんだろうか。

「今の人が利一君ですか?」

「違いますって言うてたぞ」

「どうだろう…もしあの人が利一君で、でも事情があって私達には会いたくないって言うなら…無理は言えないんだけど」

やっぱり会いたくないのかな、私はそう思いながらドアにかけられた『closed』のプレートを見つめていると、その静かにドアが開いた。

「会うってよ」

源ちゃんがそう言って扉を開き、私達を店の中に手招きした。奥にはさっきの背の高い人が少し不安そうにこちらを見ている。私と於菟と類君は

「おじゃましまーす…」

そう言って源ちゃんが開けてくれている扉を潜って中に入れて貰った。類君が持って来てくれた写真の日焼けした17歳の高校球児は、あの夏から23年を経た今日、どういう紆余曲折があったのかは分からない、分からないけれど、どうもこの背の高い女の人に姿を変えているらしい。源ちゃんはここに来る直前私達に

『これから目の前で何が起きても驚くなよ』

そう言ったけど、源ちゃん、これはちょっと驚くよ。



「ねえ、私、今この5分位の間に与えられた情報量が物凄いんだけど、ちょっと、エート茉莉ちゃん?これ一体どういう事なのか説明してもらっていい?」

私達が招き入れられたそのお店の中は、外から見たひび割れた白っぽいコンクリートの壁の古いビルという外見からはちょっと思いもつかない、煉瓦の壁と古い皮のソファと藍色のクロス類と、丁寧に磨かれて飴色に光る床、丁度1年前に私がお父さんの遺品として私が引き継いだ外国の建築と風景の写真集なんかにありそうなシックな内装で、私は落ち着かないのも手伝ってくるくると首を回してあたりを見回していた。

こういうのって何て言うんだっけ、ああそうだ『ブルックリンスタイル』だ。お父さんもこういうのが凄く好きだった。普段はつなぎとか甚平とか雪駄とか変な恰好ばっかりしている癖に、室内装飾とかそういうのには凄く凝る人だったな。センスがいいし手先が器用だからって、たまに人に頼まれて本業でもなんでもないのに内装工事の仕事なんかもしていた。

色とりどりの外国のお酒の瓶が沢山煉瓦模様の壁に沿って並ぶお店の中、りり子さんの高い身長に合わせているのか、クラスの女子の中では3番目に大きい、身長170㎝の私が座ってもまだ足がプラプラできる、なんだか矢鱈と背の高い椅子に座った私達とカウンターを挟んで対峙したりり子さんは、世界中にある困惑を全部集めて煮詰めた、そんな顔をしてミネラルウオーターをペットボトルからひと口飲んだ。そしてりり子さんが小さく息を吐くのを見てから、私は改めてここに私達が来たいきさつを説明した。

「あの…本当に突然来てしまってすみません。叔父は、上林丈は、つい最近、会社の健康診断で肺に癌が見つかって、この秋に手術をするんです。それで」

「ねえ、それって死ぬヤツ?」

「ハイ?」

「丈、死んじゃうの?だから私を探しに来たの?そう言う事?」

りり子さんは心配そうに私の事を見つめた。ああ、この人は思考回路が私によく似てる。私は、見た目と性格がそっくりな於菟はともかく、どうして、丈おじさんとは外見も中身も何ひとつひとつも似ていない私が、丈おじさんとこれまでずっと、年の離れた兄と妹のように仲良くやって来たのか、その理由をほんの少し知ったような気がして、ちょっと笑ってしまった。

「あ、すみません、今の利一…りり子さんの反応が、私が丈おじさんの病気の事を聞いた時と同じだなって思って。そうですよね、癌なんて急に聞いたら誰でもそう思いますよね。丈おじさんもつい最近、急にそんな事を私と於菟に、あ、この子私の弟で於菟って言うんですけど、この子に言い出して、それで大騒ぎになったんです。於菟っていつもと違う事が起きるとすごい混乱してしまう子なんで。でも、丈おじさんはごく初期の癌で、手術もそこまで大がかりな物じゃないんだそうです。丈おじさんは今日も家で授業の準備をしてます。あ、おじさん塾の先生なんです、古典と漢文と現代文と、あと小論文かな、人手が足りないと英語も教えてます」

「そう…よかった。ああ良くはないか、癌だし。でも丈は重篤な状態で今にも死にそうって事じゃないのね。それで今も地元にいる。で、塾の先生?丈ってなんかそんな感じよね、凄い分かる。昔から頭良くて勉強が好きな人だったし、どうせ今でも人の話は全然聞いてくれないのに自分の興味のある事ばっかり淡々と話して、それに飽きたら本ばっかり読んでんでしょ。ああいうのって絶対一生変わらないのよね。あとその弟君?丈にそっくりでびっくりしたわ。丈に初めて会った小4の頃と全く同じ顔、息子って言っても誰も疑わないわよ」

そう言ってりり子さんは笑った。それで私は少し安心して、今日、私がここに来ることを決意するもうひとつの理由になったあの手紙を自分の濃紺のデイバッグから取り出してりり子さんに差し出した。13年前、夏目利一君が大切な友達の上林丈に送った手紙だ。

「これ、丈おじさんがずっと大切に保管していました。私、つい最近、曾祖母の昔話から夏目利一君という男の子が昔、丈おじさんの友達だったってことを聞いたんです。それまでは私、丈おじさんには友達が私の死んだ父しかいないものだと思ってて、その父が、ああ父は1年前に急に死んじゃったんです病気で。それでその父が死んでしまった今、おじさんにはもう友達がいないんだと思ってたんですけど、利一君…りり子さんの事を知って、手術の前に会ってもらえたらなって思ったんです。丈おじさんは平気そうな顔をしてるんですけど、手術ってきっとすごく大変な事だと思うし」

別に手術して死ぬって決まってる訳じゃないんですけどなんか、何となく。私はそう言ってりり子さんの顔を見た。りり子さんは13年前に自分が書いた手紙の文字を見つめながら

「この手紙、丈はちゃんと受け取って、それでずっと保管しててくれたんや。でもアイツ、返事もよこさなかったし、当然のように訪ねても来なかったし、私ちょっと寂しかったな。丈、この手紙の事なんか言ってた?」

そんなことを私に聞いた。ホラ、やっぱり利一君は丈おじさんの事を待っていたんだ。

「あの、りり子さんも知ってる通り、叔父はあの通りの人なので、りり子さんが書いたこの手紙の最後に『誰にも言わないで欲しいし、探さないでほしい』とありましたからって、りり子さんの住所の書かれた手紙の事を誰にも言わずに、会いに行ったりしないで遠くで利一君が幸せに暮らしている事を祈る事にしたんだって、そんな事を言ったので私、叔父を叱りました。なんでそう何でも言葉通りに捉えるのって、行間を読みなさいよって。だってこれ、利一君…りり子さんはもういい加減、実家に帰りたいなって、でも帰り辛いから友達の丈おじさんに迎えに来て欲しいなって、そう思って手紙に自分の住所を書いたんですよね、実家に書いた葉書には書かずに丈おじさんの手紙にだけ」

私がそう言うと、退屈そうにしてきた小学5年生2人に、オレンジジュースを出していたりり子さんは、フフフと笑った。

「そうそう、ソレ、丈には難しいこと書いちゃったなあって思ったのよ、投函した後。予想通りまんまと理解してもらえなくてそのまま音沙汰ナシ。でもまさかそれをその13年後?そんなに経ってから丈の姪にあたる女の子が理解してここに来てくれるとは思わへんかったけどね、人の気持ちが解る子なのね、丈の血縁だなんてちょっと信じられへん位。顔もあんまり似てないし、私、香織の友達だったから丈のお姉さんの帆奈ちゃんの事もよく覚えてるけど、その帆奈ちゃんにもあんまり似てない、お父さん似?」

「その子、あれや、林太郎の娘やぞ、似てるやろ、背も高いし」

りり子さんのお店のカウンターの奥の換気扇の下で遠慮がちにタバコを吸っていた源ちゃんが私たちの会話に突然口を挟んだ。そうしたらりり子さんは突然オレンジジュースのグラスをガチンと音をたててカウンターに置いて叫んだ。

「え?何、嘘。待って、あの林ちゃんの娘ってこの子?じゃあ林太郎が帆奈ちゃんの旦那さんてこと?」

「お父さんを知ってるんですか?」

「知ってるも何も、え、何?早く言いなさいよ源、そういう大事な事は」

そう言いながらりり子さんはフルスイングで座ってタバコを吸っている源ちゃんの頭を叩いた。

父はこの店の内装をした人間なのだそうだ。13年前、27歳だったりり子さんがこの場所でお店を始める算段が付いた時、お店にするこの店舗を何とか借りる事はできたけど、敷金や礼金を不動産屋に支払い、それから水回りや厨房の機材を入れたら、内装のデザインや壁紙や床材の張り替え、そういう表向きの細かい事をちゃんとした業者に外注する余裕が無くなってしまって、それを源ちゃんに相談したら、連れてこられたのが村瀬林太郎というなんだかわからない職業の男だったそうだ。父はまだ若い経営者のりり子さんの言い値でこの店の内装を整えたらしい。だからだ、この壁や床の感じ、私は父の遺品の写真集で見た事がある。

「暇だし、これは自分の作品だからって、毎日来てほぼ実費で内装を仕上げてくれたの。だから、林太郎は一生タダで飲み食いしていいってそういう風に言ってたんだけど、子どもがまだ小さいから夜遊びはしないんやって、開店後は全然来てくれなくて。娘が16歳位になったら1人で留守番させて来るわって言ってたのに死んでるし。あ…ごめんね。亡くなったのは聞いてたんだけど、私、お悔やみにも行けなくて。寂しいね、あんなにやさしいお父さんがいなくなると」

「りり子さん、私、今16歳なんです」


『時空を越えて同じことが連続して起きているような、歴史ってこういう風に永遠の循環運動を繰り返すものなんや』

私はここに来る途中、新幹線の中で思い出していた父の言葉をまた思い返していた。父の足跡を知らない内に辿っていた私。13年前、親友に出した手紙の行間の隙間に埋めた本心を読み取った私が、過去、この店の床材を張って、壁を丁寧に漆喰で塗っていた妙な男の娘だと今初めて知ったりり子さん。その男が預言した16歳の私。

全部が環のようにつながって連続している。

だったら、そんな風にもし歴史が連続して起きるのが世界の理なら、丈おじさんは大丈夫なんだろうか。

だって父はなんの予告もなく突然この世を去ってしまった。人は思いもかけない事で突然世界から消えてしまう事がある。そしてそれは突然過ぎて、いつも置いて行かれた者はその人に大切な事を言い忘れるし、大切なものを渡し忘れる。私なんか死んだ父に、これまでの感謝と、娘としての愛を伝えるどころか父の尻を結構な力で蹴った罪の娘だ。丈おじさんはこの場合自責の念は適応外だって言ったけど、人間の心はそんな保険規約みたいに簡単にはいかないと思うよ丈おじさん。

「あの、りり子さん、今日これから私達と一緒に来てもらえませんか、丈おじさんに会って欲しいんです。丈おじさんは、13年前にりり子さんが自分に送ってくれた手紙の真意をくみ取れなかったって、後悔してました。流石に利一君は僕をもう待っていないだろう、友達甲斐の無い奴だって怒ってるかもしれないって、でもそんなこと無いですよね」

「それは、勿論、私が丈を嫌うなんてある訳ないのよ、でも」

「でも?」

「茉莉ちゃん、アンタ今私のこの変わり様見て思わない?17歳の野球少年が、その…40歳のでかい男だか女だかわかんない生き物になってるのに、久しぶり!とか言って会いに来たなんて、驚くとかのレベルの話じゃないじゃない。茉莉ちゃんが普通に順応して私と喋ってるのが謎だもん、丈は絶対腰ぬかすわよ、何ならその場から逃げていくかもしれないじゃない」

「丈おじさんは、友達の性別が変わったこと位で、もしかしたら多少は驚くかもしれないけど嫌ったりしません」

「私が苦しいのよ、変わったねって驚かれる事すら嫌なの、丈の事大好きだったんだから」

「え、そうなの?」

「そうなの!でも丈は普通の男じゃない、だから、見た目が男だろうが、見た目を女に寄せようがどのみち私は生物学上男で、てことは私には丈を手にれる可能性なんか針の先ほどもない訳だし、それなら丈の中で私は17歳の夏目利一のままで更新されない存在である方が幸せだって思うじゃない、思うでしょ、ねえ」

「思いません。会わないまま、大好きな人に永遠に会えなくなる日がきたら、りり子さんは絶対後悔します」

だって13年前はもう利一君はりり子さんで、それでも丈おじさんに手紙を出したんですよね。自分はここにいるよって、迎えに来てって、住所まで書いて。私がそう言うと、換気扇の下で2本目のタバコを吸っていた源ちゃんは笑いながら

「りり子、茉莉の勝ちやって。会いに行った方がええぞ、別に初恋の続きを今更やりたいとかじゃないんやろ。大体40過ぎたらオマエもそっち方面はそう元気な訳やないやんけ。ただ単に若い頃の美しい思い出が砕けて散るのが嫌なんやろ。でもなあ、そんなこと言ってると人間てあっという間に老けるし、時間は即過ぎるし、いつか会おうと思ってるやつは死ぬし、碌な事無いぞ。茉莉はその事を言うてんのや。それにな、林太郎が突然誰も予測もつかへんような死に方して、この子は今それがものすごいトラウマなんや。そんで丈おじさんまで同じ事になったらどうしようって思ってる、そうやろ茉莉。お前が今、りり子の姿でその丈ってヤツに会いたくないなら、とりあえず利一に戻って行ったらええやんけ、その後の事はそれから考えろや」

なあ於菟もそう思うやろ。源ちゃんがそういうと、オレンジジュースを飲み終わって退屈し、お店の中のサッカーゲームで類君と遊んでいた於菟は

「ハイ、お父さんは、やりたいように生きろと言いました」

そう言った。それは、父が於菟にいつも言っていた事だ。

やりたいようにやれ、生きたいように生きろ。会いたいヤツには会いに行け。

それで私はもうひとつ、りり子さんに頼まないといけない事を話した。類君の事だ。

「あと、類君がその、お父さんの店を襲撃したいって言ってるのを止めて欲しいなって、それはりり子さんが類君の実の叔父なんで、是非お願いします」

「え、何それ」

「あの、類君のお母さんの香織さんて、1年前離婚してるんです、それでその時のいきさつが」

あの昼ドラみたいな話をここでしないといけないのか、よそのお家のことだしなあと思って少し私が言い淀むと、類君が明瞭な言葉で自分が何故『夏目』類なのか、そしてどうして父親の店を襲撃する気でいるのか、それを快活に説明してくれた

「あんな叔父さん、俺のお母さん、谷六でケーキ屋やっててんけど、お父さんがよその女の人と子ども作ったから、俺とお母さんに出て行けって言うてん、それが1年前で、今お母さんは滋賀の店でじいちゃんの店半分借りてケーキ屋やってる」

「ハァ?ちょっと待ちなさいよ、香織が夏目姓のままなのって婿養子取ったとかそういう事なんじゃないの?離婚?しかも相手の不貞で?」

「ウン、そんで俺、面会交流がイヤすぎて今日ここについて来てん。ついでにここから谷六近いからあいつ、俺のお父さんの店に行ってショーウィンドウのでかい1枚ガラスに生卵ぶつけたろって思ってる。せやし叔父さん、付き合って!甲子園に行き損ねた幻のピッチャーやったんやろ」

『行き損ねた』って、類君は類君で言葉に躊躇というモノが無い、りり子さんは類君の言葉を聞いてちょっと固まっていた。

「そういう事だから、りり子さんには類君にそういう報復行動みたいのはやめなさいって…」

「何やそれ、類、谷六て谷町六丁目の事か、どのへんや、空堀商店街のあの辺か。よし、車出したるから今から行くぞ、茉莉、於菟、その後に全員滋賀に送って行ったる。源ちゃん、今日この店アタシいないから、他の子に開けてもらうし、コウちゃんに途中様子見に来てって言っといて」

「おう、コウに店番させとくわ。まかしとけ。そしたらな茉莉、於菟、類、また源ちゃんのとこには、ゆっくり日を改めて遊びに来い」

りり子さんは下ろしていた髪をくるりとクリップで夜会巻きみたいにして纏めて立ち上がった。りり子さんはこの時、完全に類君の叔父で、香織さんの弟の、かつての利一君に戻っていて、そして姉の身の上に1年前に起こった出来事に激怒していた。そう言えば頭に血の上りやすい人だったってさっき類君から聞いた気がする。

「不倫して子供が出来て店から追い出されたて何やそれ、姉ちゃんはそれでええって言うてんのか、あの人は昔からそうやな、そんな時まで相手に遠慮してどうすんねん」

そう言えば母は利一君と香織さんは血のつながりはなくてもとても仲の良い姉弟だと言っていた。それに丈おじさんは、利一君の事を

『利一君は正義感の強い人ですが己の正義を貫くという目的の為の方法論に若干問題がある場合がありました』

そんな風に評していた。直情型で、激高したら手が付けられないタイプの人だと。あれ、でも今

「りり子さん、滋賀に一緒に帰ってくれるの?その恰好のままで?いいの?着替えてきた方がよくない?」

「ええねんもう、車出したるから待っとけ、ここから新幹線なんか乗るより、車で高速飛ばした方が早いからな」

私たちは慌てて源ちゃんお店に荷物を取りに戻り、そのまま、りり子さんが借りている駐車場から取って来た車に放り込まれるみたいにして乗り込んだ。丈おじさんと同じ水色の車だ、でも丈おじさんの廃車寸前のフィアットとは真逆の、ピカピカのシトロエン。


☞7

結論から言うと、第80回全国高等学校野球選手権大会に出場し損ねた140kmの右ストレートを投げる幻の剛腕は、少し入り組んだ商店街の死角からかつての姉の店だったパティスリーのガラスに甥の持って来た卵を投げつけたりはしなかった。りり子さんは商店街の入り口にある駐車場に車を停め、私と於菟をその車の中で待たせて類君の手を引いて店に行き、突然やって来た息子の姿に驚いて店の奥から出て来た類君の父親に

「この子が貴方が母親にしてきた事を許せないと、だから形だけの面会交流はこれまでにしたいし、何なら恨みが凝ってそれがとても抑えきれないので、この卵をこの店に全部ぶつけて憂さを晴らしたいと言っていたので、これをお持ちしました」

そう言って、類君が自宅から大切に持って来た卵の6個パックをカウンターに叩きつけるようにして渡してから

「申し遅れましたが、類の叔父の夏目利一です」

そう言って深々と挨拶をして戻って来た。水色のワンピ―ス姿で188㎝の大男の夏目利一君に先方は相当面食らっていたらしい。まあ、それはそうかもしれない。そしてその時、店の中にいた新しい奥さんらしき人が抱いていた小さな女の子を見た類君は、少しだけ哀しそうな顔をして、それでも

「さよなら、もう会わへん」

そう言ってお店をから出て来たのだそうだ。てっきり、りり子さんが類君の父親を一発殴って来る位の事はするのかもしれないと思って身構えていた私は驚いた。驚いたけど、あの色々な事情があってつい先輩をぶん殴って家出した少年は今もう大人になっているんだと、この時私は改めて思った。現実の利一君、りり子さんは40歳で、もう大人なんだ。



類君は車の中で少しだけ泣いて、それから於菟と他愛もない少し話をしたり車窓を眺めたりカバンの中のお菓子や飴なんかを交換したりしていたけれど、名神高速道路に乗って少しすると車の心地よい揺れのせいか於菟と2人、重なるようにして眠ってしまい、助手席に座った私と、ハンドルを握っているりり子さんだけが、8月の午後、一番暑い時刻に逃げ水を追うようにして走る車の揺れに会わせて体を揺らしていた。

「ねえ、茉莉ちゃん、もう茉莉でいい?あのね、丈は私の事、なんて言ってた?その…仲良くなったいきさつとか、あと、どうして地元からいなくなったのかとか」

一番太陽光が強い時間帯の日差しを避けてサングラスをかけているりり子さんは、表情がよく読み取れなかったけど、少し不安そうな声をしていた。

『大人になった』さっきはそう思ったけど、滋賀に送ってやる、そう言った時のりり子さんは確実に頭に血が上っていたし、その事でつい言ってしまった言葉に少し後悔して、今ちょっと不安になっているのかもしれないな、私はそう思った。

「ドッジボール大会で集中攻撃を受けてた時に助けてもらったって、そう言っていました。それで利一君をとても好きになったって。利一君が丈おじさんの人生では唯一、自ら求めて作った友人だって、その時以来、今も大切な友達だってそう言ってました。それとりり子さんが17歳で居なくなった経緯とかそういうのは、丈おじさんじゃなくて、私の母から聞きました。部活内のちょっとした揉め事が大事になっただけで、利一君が悪いんじゃないのは皆わかってるし、香織さんも夏目堂のみんなも帰りをずっと待ってるって」

だって、17歳の時に部活であった事件?喧嘩みたいなのって、利一君が悪いんじゃないんですよね。私はそう聞いた。私もアレはちょっと理不尽だなと、そう思っていたから。

「うん…でもアレはホラ、きっかけみたいな物だから。そりゃあね、四半世紀前の田舎の野球部なんてもう理不尽の嵐っていうか、組事務所みたいな所があったからね。先輩は絶対君主だし、いじめみたいなのも一杯あったし…でもホラ、私、こんなだけど運動は大好きで、野球も好きだったの。プロからの話もちらほら来てたのよ、プロになれば手っ取り早く稼げるし、夏目の父にはお世話になったし、それで恩返ししますみたいなしおらしい気持ちがあって、それでずっと我慢してたんだけどね。あの時は、1年生の挨拶の声が小さいってキャプテンが言い出して、それに乗っかるみたいにして先輩たちが1年を殴り始めて、私、止めた方がいいって、怪我しますからって先輩の腕を掴んで止めたの、そうしたらね」

当時、心はほんのり乙女だったけれど外見上は完全に男の子だった利一君は、外見は丸坊主の日焼けした188㎝だったけれど、多分一緒に暮らしていた姉の香織さんは何か感じるところがあったのだろう、利一君の爪を時たま綺麗に整えて磨いてくれていたのだそうだ。名目上は、爪を綺麗に切って整えていた方がいい球が投げられるような気がするから。でもその爪は手先の器用な姉によってまるで女の子のように綺麗に磨かれて整えられて、利一君の中でまだその容積を圧迫していない存在だったりり子さんは、それがとても嬉しかったのだそうだ。でもそれを

「先輩がね、オマエ何やその爪、オカマかって、ゲラゲラ笑ったのよね」

利一君はそれまでも、坊主頭が嫌だとか、日焼け止めを塗っても汗で流れ落ちて真っ黒になる肌が辛いとか、9歳の時、友達ができないままひとりぼっちだった自分に、仲良くしてほしいと言ってくれた眼鏡の王子様に一生自分の想いを打ち明けられないのが辛いとか、そういう鬱屈した気持ちが常に澱のように心の奥に溜まっていたらしい。でもその気持ちに正直になったらそれで最後、自分を家族として受け入れてくれた父や姉を無くす事になるかもしれない、そうなれば再婚して幸せに暮らしている母親にも迷惑がかかってしまう、何よりそんな自分を丈はどう思うだろう、その気持ちが、長い間ずっと利一君の中のりり子さんの存在に蓋をしていた。

「でもね、そしたらふと、なんか全部がどうでもよくなったの、それで気が付いたら、先輩のこと力任せに何回も殴って怪我させてたの」

ふんわりとした乙女の内面を持ってはいても、超高校級、140kmの白球を投げる剛腕投手は本気を出したらヒト1人殺しかねない猛者だった。それで先輩は利一君が力任せに殴ったせいで鼻と上腕を骨折し、最初はありがちな先輩の理不尽な後輩指導だったその出来事は、既に決定していた甲子園の出場辞退という大事に発展してしまった。当然、非難は利一君に集中した。当時は同級生からも先輩からも、何なら担任教師からも結構な嫌がらせを受けたのだそうだ。

そして、利一君は全部を捨てて家から出た。

「それは、家族に悪いなって思ったから?でも最初に理不尽に後輩を殴ったのは先輩なんでしょ?」

「それはそうなんだけど、茉莉は今16だっけ、あのさ、好きな子っている?」

「いない」

「あ、そう、奥手ねえ。じゃあね、想像力を駆使してほしいんだけど、17歳で、もうずっと8年も想い続けてる人がいて、その気持ちを一生に告げる事も出来ないままその人と一生友達でいないといけないって、そう思ったらいっそ泡みたいに消えてなくなりたいって思わない?」

「どうかなあ、そういう状況にならないとわかんないけど、でも」

「でも?」

「丈おじさんはそういう、利一君が今日、どんな姿で目の前に現れても、もし好きですって告白しても特に動じたりしないと思う。愛はあるけど、恋は知らないって、そういう感じの人だから。行間を読まない分、本人も読めないって言うか。お父さんのお葬式の日にも突然『かかわらず』って言葉の語釈につい話し出してたし」

私は1年前のあの日、遺影を抱えた私に突然、かかわらずと言う言葉について語りだした丈おじさんの事をりり子さんに話した

『しかし、僕らはそれにも拘わらずこの先を生きていくのです』

そう言って突然の父親の死に自責の念しか感じていなかった私を慰めてくれた事を。


「丈らしい。あの人、たまに機械か何かなんじゃないかなって思うほど神経通ってない態度で、言葉に抑揚はないし本当に変なヤツなんだけど、でもいつも無表情な顔面の裏で一生懸命相手の事を考えてるのよ、直情型の私と正反対なの。だから好きになったのね」

車から見える景色が夏空の下に広がる青い水田になり、車が目的地の故郷に近づいているのを横目にしながらりり子さんがそう言うので私はつい

「それって今でも?」

そう聞いた。9歳で好きになった男の子を40歳になった今でも好きでいられるものなんだろうか、人間の気持ちってそんな冷凍保存するみたいに新鮮なまま長期継続できるもの?そうしたらりり子さんは、太陽が積乱雲に隠れて、すっかり影っている事に気が付いてサングラスを外して、私に

「それは、9歳の時の私と、17歳の時の私と、40歳の私だと気持ちは全然違うわよ。私も今流石に家出した17歳の時ほど世界に絶望していないし、かと言って初恋を知った9歳の時ほど世界に酔っていないもの。丈は特別な人だけど、だからって今、会ってどうかなりたい訳でもないの。ただ大切な人、大切な友達なのよ。そう思えるまで家出して丈から物理的に離れて23年もかかったのね、そういうことよ、分かる?」

わかる?そう聞かれた私は少し考えて、私は

「ごめん、よくわからない」

そう言った。そういう気持ちってやっぱり冷凍保存されたみたいにいつまでも新鮮に持つモノじゃないんだ。でもその代わり熟成するのか。そういう新しい発見があっただけで16歳の私には40歳のりり子さんの気持ちはやっぱりよく分からなかった。でも、りり子さんは、丈おじさんを今も『大切な友達』だって思ってくれてるんだ、私はそれが凄く嬉しかった。



高速のインターを降りて、りり子さんにはきっと懐かしいお城の横の道を抜け、更に国道を走り水田とトマト畑に囲まれた私の家の屋根と背の高いタチアオイの花が見えた時、りり子さんは私の家のすぐ前の田舎道に突然水色のシトロエンを止めた。

「りり子さん、丈おじさんの家、もうすぐそこだよ」

私は運転席のりり子さんにそう声をかけた、ホラ、りり子さんのよく知ってる家だよ。

「やっぱり帰る」

「え?だってもう」

「だって、だってね、茉莉。私が丈を、元初恋の人で、今も大切な友達だって思ってて、丈も現段階では私を友達だと認識していたとしてもよ。丈がこの男だか女だかわかんない生き物を見たらどう思うと思う?怖いとかキモイとか思うかもしれないし、はっきり言葉にしてそう言うかもしれない。そうなったら私一生立ち直れない。茉莉、ごめん、於菟と類起こして降りて、私やっぱり帰る」

りり子さんはさっき、自分を40歳の大人だと言ったくせに、今度はまるで17歳の女の子みたいな事を言い出した。

「大丈夫だよ、りり子さん、丈おじさんは絶対そんな事言わない、利一君を今でも大切な友達だって、今日も言ってたし」

「それは『夏目利一』の事をでしょ、私は今、夏目利一じゃないのよ」

「でも利一君と、りり子さんは同一人物なんでしょ?」

「だって、それを言う勇気がないのよ私には」

もう目的地直前まで来て、今更すべてが恐ろしくなったりり子さんはそう言った。駄目なのかなやっぱり。私はそういうの全然変だと思わないから、丈おじさんも同じかなと思っているんだけど。私は余計な事をしたのかな。そう思った時、運転席側の窓に黒い人影が見えて、コンコンと窓を叩く音がした。

「茉莉さんですか?」

それは、夕方の金之助の散歩に出ていた丈おじさんだった。丈おじさんは見慣れない車の助手席に座っている私の姿を見つけて中を覗いて来た、女子高校生の身内が全く見も知らない車に乗っていたとしたら、それは誰でもそうするだろうと思う。

「丈?」

「…うん、丈おじさん。りり子さんどうする?もしどうしても無理っていう話だったら、あの、親切な人が乗せて来てくれたって誤魔化してここでお別れしようか?」

「ううん、多分、大丈夫」

17歳のあの日、別れたきり一度も会わないままの友達を見て、さっきまで私を相手にやっぱり帰る、丈には会えないと駄々をこねるみたいに繰り返していたりり子さんは、懐かしい友達で初恋の人を目の前に、意を決したような顔をしてシートベルトを外し、静かにドアを開け、そしてシートに掛けたまま目の前に現れたかつての王子様の顔を真っ直ぐに見上げた。

「…丈?」

「利一君ですね」

そう言った丈おじさんは、かつて利一君で今はりり子さんになった利一君を見て、特に恐れも怯えもせずに、勿論気持ち悪いなんて言わず、そして丈おじさんにはとても珍しく、心から嬉しそうに微笑んで、体を屈めて車の中に半身を入れ、りり子さんの上半身を両腕でしっかりと抱きしめた。

「会いたかったです、とても嬉しい」

そう言った時、りり子さんは丈おじさんの背中にそっと手を置いて、ちょっと泣きそうになっていたし、何ならその数秒後、鼻水と涙を両方流して声をあげて泣いた。

『もう恋とかそういうんじゃないのよ』

そう言っていたりり子さんの初恋の最後の断片が成仏した瞬間だと、私は思う。

そして私もこの時、父が死んだあの日、何もできないどころか、何なら父の尻を蹴ってしまったあの罪がほんの少し赦されたような気がした。今日ここにりり子さんと一緒に帰って来た事で。

楽しい散歩の途中、突然主人である丈おじさんが知らない人に抱き着いたせいで、早く散歩の続きに行きたい金之助はものすごく不満そうな顔をしていた。金之助、お前の御主人はね、大切な友達に23年ぶりに再会したんだよ、ちゃんと分かってあげてよ、ホントに馬鹿だねお前は。

その日、りり子さんと丈おじさんを車に残して、私達は何食わぬ顔でそれぞれの自宅に戻った。源ちゃんはちゃんと私達にお土産の焼き鳥を持たせてくれていた。アリバイ工作だ。

りり子さんの水色のシトロエンの中、片方は成仏しかけている恋心を抱いた乙女と、片方はこの世でたった1人しか友達のいない変り者、その2人がどんな話をして、今後の関係をどうする事にしたのか、それは当人同士しか知らない事だ。

でもこの出来事から1ヶ月後の9月、丈おじさんの手術の日の手術前待合には、学校は安直に休むものではありませんよと丈おじさんから諭された私と於菟、どうしても抜けられない仕事で午前中しか付き添えなかった母に代わって、りり子さんが手術室の自動ドアの向こうから出て来る丈おじさんを待ってくれていた。

おじさんは、あの夏の日、私と於菟とりり子さんが心配して泣いた最悪の結果に至る事無く、無事に手術を終えて退院し、今も元気だ。

今、りり子さんは、りり子さんのまま、たまに琵琶湖のすぐそばの私達の家まで丈おじさんに会いに来るし、丈おじさんも、梅田の紀伊国屋書店に行った帰りには必ずりり子さんに会いに行く。それがどういう名前で呼ばれるべき関係なのか私は知らない、知らなくていいような気がする、だって2人とも今の私にはとても大切な人だ。



庭のコスモスが、ほんの少し秋の涼しい風に揺れる季節、私達の家の前の田舎道をちょっと目立つ長身のりり子さんが夏目堂で香織さんに持たされたケーキを片手にゆっくり歩いて家にやって来る。

それを見つけて、縁側で金之助の背中を背もたれにして太宰治全集をめくっていた丈おじさんは、笑顔でりり子さんに手を振る。


それを見ている私は、いつもなんだかとても嬉しい。


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