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新学期と、はじまる

「大体さあ、困ってるって、誰が困ってんの?学校の先生でしょ?先生が困って何とかしろって言ってんでしょ?息子君はさあ、実際のとこあんまり困ってないんじゃないの?」

 これは息子を通じてもう4年の付き合いになる小児神経科医のことば。

 息子が、現在もう4歳8カ月になる妹が産まれ、長い入院からやっと帰宅した4年と少し前の春、先天性心疾患のために家でも色々とケアが必要になる乳児がやって来たことで激変した生活と真ん中の娘の新入学と息子の進級、全部が重なり、もともと新しい環境に慣れてそれを乗りなすということにあまり長けているとは言い難かった息子は、新しくやってきたまあるい顔のちいさな妹をそれは可愛がってくれたけれど、反面その小さな闖入者に自分でも気が付かないまま混乱し、新しい生活に苛ついていた。

 母親の私が、大きな手術を受けて退院したばかりで循環機能は不安定であるらしいし、もしかしたら真夜中の知らぬうちに心臓が止まってしまうかもしれない、そういう子を育てているのだという緊張の海の中で盛大におぼれている状態だったのだから、無理もないと言えば、無理もないのだけれど。

 そしてこの時の息子の混乱と苛立ちの矛先は、家庭と家族ではなく、学校に向けられてしまったらしい。思えばこの子は歩み始めのほんの小さな頃から

「どうにも落ち着きがなくて、いろいろと自由すぎやしないかしらん」

そういうちいさな心配があって、それは4年生のこの頃にだんだんと顕著になり、ひとの好き嫌いのはっきりしている性格であるがゆえに新しい担任の先生と合わなかったというのもあるのかもしれないけれど、毎日、算数の授業の一切を無視して億までの桁の計算をして遊び、体育のダンスでは音楽などひとつ聞こえていませんのでと青いお空を見上げて微動だにせず、当然それを注意した担任の先生に「なんでなん、なんでしたらあかんの、なんでせなあかんの」と妙な言い方で反抗したのらしい。

「こまるんです、何とかしてください」

と言われたのが、4年生の初夏、若葉うつくしい5月。それはまだ末の娘が退院して1ヶ月と少しの時期で、当時はまだ家庭訪問というものが大型連休の前に存在していた。今も地域によってはあるのかな。それで自宅にやってきた担任の先生のなかなかに辛口な「息子君がこういうこと、ああいうことをしまして本当に酷いです」という評に私は平身低頭

「いえもう本当に、申し訳ございません」

生後5か月の娘を抱いたまま謝り倒した。今思えばそんなに「おまえのむすこはばか」に似た言いまわしで詰め寄ることないやんけと思わなくもないけれど、定年間際、現場のベテランであるために結構なやんちゃ坊主達を大勢クラスで任されていた先生は、その中でもとりわけつかみどころ皆無で、授業中にとつぜん脱兎のごとく外の木漏れ日にむかって飛び出し、ひとこと叱れば老獪な言い回しで100言い返す、まるで宇宙人のような未知の生物である息子を持て余したのだろう、本当に申し訳なかったと思う、思うんだけどさ。

 とにかく当時の息子は授業中先生の言うことをひとつも聞かず、制御不能のAIロボットのようにして計算ばかりして、それをおかしいと笑うお友達とはあたりをはばからず喧嘩をし、それまでは私自身

「なんかすこし変わった子だのう…」

という認識で、集団生活での困りごとは確かにいくつかあったのだけれど、それは支援センターでの相談程度、ずっと「様子をみましょう」と言われるだけだった息子の情緒発達のいろいろを本格的に調べて、いろいろを相談をできる場所を見つけるべきだと、そういう結論に辿り着いた。それも早急に。それで当時も今も絶賛治療中の心臓疾患児とそのころ1年生になったばかりのいとけない真ん中の娘を抱えながら、支援センターではもう埒が明かん、ここは一足飛びに医者や、神経なのか発達なのか精神なのかとにかくそういうことの分かるお医者さんを探そうと、必死で探して見つけたのが今現在もお世話になっている小児神経科医。

彼のことはここではタチバナ先生と呼びます。

 そのタチバナ先生が「今、話を聞いてくれなければ自宅のベランダから飛び降ります」くらいの切羽詰まった表情でやって来た私の予約を最短距離でねじ込んだ最初の外来の日。タチバナ先生はすでに1学期の学校で相当色々とやらかしてしていた息子のことを、もうひとり病気の娘も抱えて一体どうしましょうと混乱しながら訴える私の話をひと通り聞いてまずひとこと、こう仰ったのだった。

「で、一体だれが困ってるの?」

これは私にも目から鱗のぽろりところりと落ちるような言葉であって、そして小児科医の、小児科医らしい言葉であると、今この時も本当にそう思う。

『だってさ、先生がこの子を扱いにくいから何とかしろってハナシなんでしょ、それで診断書とか書いたり薬の処方したりって、出来ない話じゃないけど、息子君が困ってる訳じゃないなら、それはまた違う話なんやわ』

 それで私もよくよく考えて、担任の先生が困っているからというのではなくて、私が大変だからという話ではなくて、息子よ、君は今何に困っていて何が躓きの石になっていてこの夏の(5月に探した病院の予約が『最短』で取れたのが7月だった)プールの水面のきらきらとうつくしい時期に辛いと思っているのだね、ということをあらためて、当時9歳の男の子の顔をちゃんと見て聞く事ができたのだった。そしてあらためてまっすぐに見たあの時の息子は今も変わらない非常に頑固そうな眉をぐっと寄せて、少し考えてからひとこと

「俺はべつになんも困ってへん」

そう言った。うそやん。

しかし、お友達と喧嘩をするのはいかんやろとか、乱暴は相手がイヤな思いをするのやから絶対あかんねんとか、座っていられへんのはどうしてやろとか、それのひとつひとつを考えて諭して潰して解決して、解決できへんもんはまあ多少そのままに、多分脳の構造から世界の捉え方がひととは少し違う、やや特殊なところのある息子は、生きていくことが身体機能的に大変な妹と一緒に何とか、その後の秋を迎え冬を越えて春を過ごして今、中学2年生になった。

 相変わらず謎行動は多い。毎日同じ内容の昼食しか食べず、覚えておいてねということは即日忘れ、もう忘れろということは10年経っても記憶している。計算を至極得意として私に「電卓」と呼ばれ、片付けと言う概念を持たない。気はいい奴なのだけれど頑固、優しいけれどそれがえらく明後日、例えば算数が苦手な11歳の妹を何とかしたろと、かつて自分が使っていたテキストをぽんと渡して

「これ、明日までに1冊やって、兄ちゃんが丸つけしたるから」

という感じで兄ゴコロが異様に厳しくかつ変な方向を向いている。しかしその行動ひとつひとつには彼なりの意味がある。そういう感じの男子になった。

 今でも学校で忘れ物やらなくしもので注意されることはしばしばであるのにそれでも『まあ、俺はこれでええ』という妙な自信に満ちているのだ。それは母である私が盲目的に彼を愛して肯定して育てたからということでは全然なくて(だって、毎日相当叱っている)、それは1ヶ月毎の外来で顔を合わせるタチバナ先生がこの子のいろいろを、例えば「うちの子、読解不可能なレベルに字が汚いっていうか…読めないのが困るんですよねえ」なんて私が言うと

「いやーお母さん、僕だって字は相当汚いけどね、でも字が汚くても医者程度のモンにはなれるから!」

なんて、実のところレセプトの人を相当に泣かしているのであろう判読不能のご自身の悪筆を見せびらかして息子のことを完全肯定してしまうからだ。曰く

『息子君の色々は変えられないことの方が多いのやから、そんなら多少は世界が譲歩して、彼にあわしてやるほうが早いし、合理的やんか』

大きな声では言えないけれど、精神とか神経とかのお医者さんは朗らかに変な人が多い気がする。お影様で息子の文字は今も母親の私には読めない、本当によかったいま学校にAppleのタブレットが普及してくれていて。

そうして息子に、というよりも多分受け持ち患児全員に甘いというか、すべてにおいて患児本位である先生は、その患児のきょうだいにもなぜだか大層甘い。

 初めてタチバナ先生と出会った頃、まだ生後7カ月だった末の娘は毎回息子の外来について来ている。それでタチバナ先生は小児神経科の医師であるのに、なぜか循環器科の守備範囲である先天性心疾患児の成長もまた見守るどころか、時折たわむれに聴診器まであててやっていて、そして「俺、循環器は全然わからんわ」と言って笑う。そうやって時は過ぎて今、末の娘が

「令和6年度の小学校入学、どうしますか?」

という果てしなく高いな壁に立ち向かう時がやってくる季節が巡ってきたのだから、あれからいくたび桜は咲いて散ったやら。

 年中児の小学校入学を今から心配するのは気が早すぎやしませんかという印象のあるこの話、ただそれは末の娘がいまだ治療の途中で在宅酸素療法を続けている子ども、所謂「医療的ケア児」だからなのであって、そういう子が小学校入学を迎えるとなると、そこは看護師配置であるとか、設備面でも配慮が必要になる場合もあって、そもそもが大変なレアケースである医療的ケア児の入学は

「たとえ年長児の秋が就学相談の時期だから、それまではそんなにやる事無いのやでとか言われても、地域の学校への見学とかね、ひとくちに「学校」て言うても支援校も普通校もあるし、設備面の問題で越境って可能性もあるやん?どこにするのかもう決めてるのなら学校への打診とかね、看護師の配置のこともあるから、そういうのは早めに、なっ?」

そう教えてくれたのは、全く見ず知らずの、しかし同じ市内にお住いであるらしい人工呼吸器ユーザーの小学生の子のお母さん。これは私があまりにも

「娘の学校は一体どうしたらええのでしょう、普通の小学校でいろいろ配慮してもらう形がベストやないかと主治医は言うのですけれど、その普通の、公立の小学校にどう話をしたらええものか、私にはひとつもわからへんのですけれども」

やっと幼稚園に入った頃からそう言って生まれたての小鹿のようにかたかたと震えるもので、頼りがいが主成分である訪問看護師さんが、訪問先の小学生の子のママに聞いて来てあげると、匿名で橋渡しをしてくれたもの。過去に同じ境遇に泣いたことのあるひとは、今同じ立場で泣く者にそれこそ聖母のように優しい。わかりました今からですね。

それで、ついこの前、息子の定期外来で世間話のついでにタチバナ先生に

「娘もいよいよ就学相談の前準備に入るんです、息子の時のことを考えると、小学校とか教育委員会と話しあうのは相当恐ろしいんですけど、とにかく私、頑張りますので」

そう告げると、タチバナ先生は

「ウン、この子の学習環境をさ、どうしたいのかって言うのは、基本的にこの子の特性とか状態とか何がベストかを一番わかってる親御さんが決めていいんだよ、まあ先方は俺からするとわからんちんの多い業界だけどさ、もし発達の検査とかが必要ならこっちでも引き受けられるから」

がんばって。

にこにことそう言ってくれたもので、もともと『学校』という場所のもつ空気というものに上手くチューニングの合わせられない子どもで結果、学校にものすごく苦手意識があるまま大人になった私には相当恐ろしい事ではあったけれど、真ん中の娘の参観日のついでに行きましたよ、まずは先制のご挨拶に。

 最初に「入学を希望しているのですが…見学とか相談とかそういうものの手順はどうしたら…」というご挨拶がてらの連絡ないしは訪問の相手は、既にきょうだいが在校生なら、相手はあなたから見て一番話を通しやすい管理職の人にしなさいと件の先輩ママもタチバナ先生も仰るもので、私は過去息子のことで色々お世話になった私と同じ年の教頭先生に白羽の矢を立てた。

 私は、これまで人類というものは職員室のドアの前に立つと「腹がいてえ、帰りてえ」を発動する設定にできているものだと思っていたのですけれど、これまで診察室、レントゲン室、処置室、全ての扉を己の手で開けて、いろいろを己の手で切り開いて来たうちの4歳が

「こんにちはー!」

なんだか妙に嬉しそうに爽やかにちいちゃな手で引き戸をからりと開けたもので、医療的ケア児・令和6年の入学相談(準備)はこの秋より、始まります。


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