まどろみの世界Vol.2(日本語のニュアンスの更新について)

宮藤官九郎脚本の映画「ゆとりですがなにか。インターナショナル」を見ていたら小学生が「わかりみが深い」という台詞を言っていました。

「よく分かった」という事ではあるのですが、分かる事を「面白み」「ありがたみ」と同じ名詞化する事で、その対象にリアリティーをあたえていると思います。

「深い」と表現するのも「多い」では上限がどこか分からないけれど深いといえば、それは底まで到達出来るものあり、「わかりみ」の底まで間も無く到達する(100%理解した)というイメージになると思います。
物事を理解するという行為のニュアンスを絶妙に表してると思いました
言いかたとして定着するかどうか見届けたいと思います。

名前が無かった概念に名前がついて言葉が更新される事は面白いですよね

今は普通に使われる恋愛感情表現の「守ってあげたい」ですが、これは最初に使ったのは松任谷由実の1981年のシングル「守ってあげたい」なのではと思っています(エビデンスは曖昧です)

「守ってあげたい」これは「愛している」とニア・イコールですがニュアンスが違います。
「まも~ってあげたい~」を「あい~しているよ~」と歌ってもニュアンスがちがいますよね。

愛しているというのは一方的な自分の気持ちで利己的ですよね。
でも守ってあげたいというのは、あなたが何かに攻撃されるなど危険に目にあったとしても自分が何か損失をこうむっても構わないという利他的な気持ちを内包しているので、より愛してるという気持ちが具体的な物になるのだと思います。
「愛してる」と言われても、本当に愛しているかは証明はありません。「守ってあげたい」というのは行為を伴うので愛している事の証明になるので、より感情に訴えるのはないでしょうか。

70年代のドラマを見ていたら「XXちゃんとYYちゃんは似てるわよね」というセリフがありました。これは今なら絶対に「キャラ被ってるよね」となったと思います。「似てる」というのは説明を伴わない限り形状が似てるという事で性格、趣味指向の相似性までは含まれません。

でも「キャラが似てる」とはいいません。「被っている」という事で「個性が損なわれて居る」というニュアンスが入るわけです。「似てる」だけでは、このちょっとだけネガティブなニュアンスは入らないんです。
前述のドラマも前後に文脈から「似てるからあなたは損してるかも」というニュアンスだったのですが、「似てる」だけでは伝わらないと思います。

その逆に使っていてどうもしっりくこない日本語ありますよね
「ご飯に行きましょう」としても言いかたは、その人にたいして、どこか距離がある気がしてしまうし、長年の友人知人に対して使うのはよそよそしい気がします。でも「飯でも行こう」というのはちょっと乱暴すぎる気がしてしまいます。男性が女性に対して使うといまはセクハラ的なニュアンスあります。
そもそも食事に行こうというのは名目で、メインに行いたい事はむしろ歓談、さらに飲酒だったりする事だし、さらに食事なんて何人でしようが味は理論的には変わらないのだから「孤独のグルメ」でも言って居るように、好きな物を好きなように食べる自由を制限されるだけで複数人で行くメリットは中華料理以外はあまりないと思いませんか?

本当の目的は食事という名目を通じて、歓談、飲酒によってお互いの親密度や理解度を上げに行きませんかという事だと思います。この目的を表す新概念が出てくれば良いのにと思います。

敬称問題もありますよね。明らかな上下関係があるときは「さん」「くん」で良いのですが、上下関係がほぼない立場の初対面で「くん」と呼ぶ事はないので「さん」だと思うのですが、おたがいずっと「さん付け」だと距離が縮まらない感じがしませんか?
でも突然「君付け」に変えるとマウントを取ったみたいに感じれれるかも、という危惧があって変えるタイミングが見つからないストレスを感じます。

「さん」と「くん」の間にに比べると女子における「さん」と「ちゃん」の間は狭いように思います、多分それは「ちゃん」という敬称に二者の関係性だけでなく「君、可愛いね」というニュアンスが入るので言われて悪い気がしないというのがあるのではないでしょうか。

最近の小学校ではアダ名禁止、さん付け推奨だそうですが、どうせならもう一歩進めて、英語(Mr,Mrs はありますが)みたいに「敬称無し」としたら未来の子供達は生きやすいかもしれません。


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