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臆病

新たな門出を迎えたおめでた〜い時にこんな話をするのはどうかと思う。自分でも、もっと前向きにあれよ、なんて思う。
卒業式の夜、言葉にすることを求められたというか、言葉にしないといけないという使命感に駆られて珍しいやり方で色々書いた。
そこで改めて感じた「言葉」というものへの恐れがあった。だから、考えずにはいられなかった。

私はもともと臆病で、何か分からないモノは否応なく怖い。おばけだって怖いし、スピリチュアルとか意味分かんないし、感情という存在すら怖がりながら生きている。
だからこそ言葉にして、見えるように、思考の対象に引きずり出してやらないと気が済まない。
だから小さな頃から頭の中では常に独り言のように考えていた。
「今感じたこれはどうして生じたのか、あの人はなぜ怒っているのか。ああ、今回のはあの時に似てる、これは前のあれの延長線上にある感覚なのかな。いやでもこれがこうだから違うかもしれない。今の僕はどう見られているんだろう。」
常に周りに目を凝らして、分からないものが無いように、自分を納得させて安心させる材料を必死に探して生きてきた。
批判的思考力や論理的思考力があるなんて言われることもあるけれど、多分それはそういった営みの結果なのだと思う。
論理という計算できるものに落とし込んで、紐解いて、理解する、そしてどうすればいいか考える。堅実に安心へと向かうための、自然に身についていたプロセス。
趣味:哲学。

「今、目の前にあるものを、そのまま真っ直ぐ受け止める。」それが怖くて怖くて。
安心するために何でも論理しようとするから、パッと見難解で、捻くれた風にに見える様になるのだろう。

特段わからなくて、特別怖いのは「相手になんて思われるんだろう」と考える時。
拒絶されるのは怖いし、悲しいし、寂しい。それが今、自分のアクション1つで引き起こされようとしている。そう考えると何も言えない、何も出来ない。
さらに、観測者がいるということは、自分から言葉として出た「自分の一部分」が確かに存在するものとして現れる。そしたらもう言い訳で逃げられない。

言葉という日々何の気なしに使ってるものが、常に自分に向けられた銃の引き金になりうる。そんな感覚。
その銃の向く先を自分から逸らすために、言葉を自分のものから婉曲させていく。あっちこっち行って、何重にも張り巡らして、ばーんと音が鳴っても音にビックリするだけで済むようにする。


言葉を使う時の重みは
このnote→LINEとかの特定の相手に届くもの
→直筆の手紙→声
の順番に重くなっていく。

考えられる要素として
・自分との距離
・相手に届く確実性
があると考えている。

まずnoteやLINEなんかのインターネット上のやつ。
これは僕はただ親指を動かすだけ、しかもインターネットという色んなものがごっちゃになったモノを通ってから相手に届く。
文字も画一化されたフォントで、言葉遣い以外にはもう僕の人間性は宿っていない。
しかも、noteなんかは誰も見てないかもしれない。見られないのはちょっと寂しい気もするけれど、全然最悪ではない。0が0のままなだけだ。
ただLINEなんかのDMのあるSNSでは確実に相手に届いてしまう。
相手が見たという事実が分かる。そしたらその時点で、「どう思われているんだろう」の問は開始してしまう。

次に手紙、手紙では筆跡という個人を特定することも出来るほどのパーソナリティが加わる。
それは僕にしか生み出せないもので、しかも相手にちゃんと届いてしまう。

さらに声になってしまえば、それは自分の口から発せられていて、目の前か受話器の前には相手がいて、絶対に届いて、反応を待つ空白が必ず生まれる。

怖いものが返ってくるかもしれない。その可能性がある時点で恐ろしすぎる。しかも発する言葉が自分の芯に近いものなら尚更。

まだぼくは受け止める強さを持ちあわせていない。初めて見たものに、ちょんちょんとつつくことしか出来ないように、牽制を続けながらでしか関われない。だから自分とは遠い言葉で防具をつくる。強く見せようとする。
あれだ、山月記でいう臆病な自尊心ってやつだ。

ちゃんとまっすぐできる人は強いひとだと思う。


今の自分のまま、そういうことばを言えるのならば、その時は、相手にどれほどの信頼があって、どれほどの抑えきれない感情があるのだろうか。
全く検討もつかない。
多分こういう性分だから、恋愛ってもんが程遠いんだろうな。

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