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卒業(回顧録的なもの)

私のなかで、考えること、言語化する事は結構価値観のなかの重要度が高いものである。だからこそ、扱う言葉のひとつひとつに重量がある。
特に感情を表すものはひとしお。「好き」とか、「寂しい」とか、「悲しい」とか。
軽率に使ってしまえばその言葉自体軽くなってしまう様な気がして、何度も使う内に、その感情があたりまえになってしまうようで怖い。
だからこそ素直になれないし、でも自分の思ってるニュアンスを伝えようとすると、回りくどい言い回しをしないと伝えられない。
口に出すなら尚更、好き、って言おうとすると喉がキュッとストッパーをかける。
そんな自分だから、この期を逃すと一生書けない気がするので、今、ちゃんとこの3年間について、いや、それよりもう少し前からのことを、
言語にしておきたいと思う。


自分にとっては充分長く、人によってはまだまだ短い18年という年月のなかで、疑いようのないほど濃密な3年間でした。
島根県立隠岐島前高校、中学3年生の僕が、首都から離島へ、望んで島流しにあったのは自分を変えるためでした。

学校、帰宅、ゲーム、塾、満員電車、帰宅、またゲーム、ねる、以下繰り返し。
毎日毎日が誤差くらいしか変わらない日々は、生きているというよりも死なない為に惰性で消費してる日々でした。
父に連れられて出向いた先のワークショップで出会う、自分の好きで仕事をする輝かしい大人達を知っていて、塾の帰りの満員電車で隣合う空虚な瞳の大人も知ってました。知った気になっていました。
そんな当時の僕はと言えば、輝かしく、ワクワクとした表情で楽しそうに自分の仕事と、これからの未来を語る大人に心の底から憧れていました。
その反面、僕は自分で自分の好きなものも分からなくて、1番嫌いなものは自分ということだけはハッキリしてて。
憧れ以上に、「俺に届く領域じゃない」と、なんにもしないまま比較して、頭の中だけの演算結果に絶望して、諦念の方が強くなっていました。

しかしながら、日本全国の中学3年生というものは絶対に進路というものに向き合わされることになります。
あなたの好きな事は?
大切にしたいことは?
どんな仕事につきたい?
全く答えの検討もつかない質問の並ぶキャリア診断みたいなものを何度も受けさせられて、答えられないままに、自分に何も無いのだと思い込む時間が暫く続きました。
その生活でハッキリしたのは「今のままでは居たくない」ということ。
きっと自分がこのまま、のらりくらりと生きて行くのでは、満員電車の目に、死んだ魚のようなものがひとつ加わるだけでしょう。そう確かな根拠の無い実感がありました。

「変わらなきゃいけない」「挑戦できる自分になりたい」
きっとこの時初めて、朧気ながらに進みたい方向が出来たように思います。
変化し続ける人間でありたい、そのために常に考え続ける人間でいよう。受験生活も大詰めの11月、やっと決心がつきました。

そうして選んだ隠岐島前高校。
最初のことは今でも鮮明に思い出せます。
フェリーから降りてきた皆と集合した後に、寮へと坂を登る最中に見えた青い海と牛への驚き。
荷物を自分の部屋へと入れた瞬間、サッカーするぞと校庭へ連れられ、チーム決めの方法で地域差が別れすぎてグダグダしたあの時間。
初めての点呼の時の寮のにおい。
制服に新しくボタンを付け替えるとき、裏ボタンも持ってくる必要があったことを知り、いっそいでパンの袋を止める針金で代用した初登校日。
朝、瞼をうすらに開けて、カーテンを開けた時、3号室の窓から見えたオレンジの朝日と、木々と青い海。今まで憂鬱を運んできていた朝が、素敵な景色と特別な日々をもたらすようになりました。


1年生のときは長い間先輩と一緒にいた気がします。向かいの部屋の先輩がとっても優しくて、趣味の話も合う人でしばらくずっとその人と話してた気がします。
それから掃除のときに同じ場所になった先輩に腕立て伏せが出来ないことを弄られ、掃除後ブートキャンプが毎日開催されるようになったり、
部屋が変わった後にケータイで麻雀をしに集まるようになったり。
可愛がってもらったなーと思うしすごく楽しかった。
でも、そんな先輩たちも寮のことになると途端に格好よくなるんだから驚きで。
学級会は沈黙がお決まりだった今までと違って、
皆が寮に向き合い、少しでも良くしようと恐れることなく意見を交わし合うそんな環境は初めてでした。
その上先輩方は強い個を持っている人が多くて、作曲できる人、楽器の扱いが上手い人、デザインがめっちゃカッコイイ人、地域活動に精を出す人、寮生の美容師を1人で担う人、化け物みたいなコミュ力を持つ人、そんな人たちを纏めようと尽力する寮長。
身内に憧れの人が出来るなんて経験は初めてで、初めてなのにその数は一気に増えて。
凄いと思う人、尊敬する人に囲まれながら、自分もそう在ろうと勇気づけられ、恐る恐る1歩目を踏み出せるようになった1年目でした。


2年次は少しずつ貯めた自信を元にひたすら動いた年でした。
その軸は寮と生徒会のふたつ。

まずは寮から。
1年生後半から、寮を良くしたい、こんな凄い人たちがいっぱいいるならもっとデカい事や凄いことが出来るに違いない!という思いがどんどん強まって、好きになって、俺がやりたい、と考えるようになってました。
そんなこんなで寮長になりました。期間はたった半年で、多分皆の中で僕=寮長のイメージは薄いだろうけど。

その中で最大のチャレンジが蚤の市の復活でした。
「三燈蚤の市」というのは、昔、先輩方が
・普段お世話になっている地域の方々に感謝を伝える
・島前研修交流センターとしての三燈寮の役割を果たす
という目的のもと行ったフリーマーケットです。
しかしながらコロナ禍によって、人を集めるイベントである蚤の市も途切れてしまいました。

そんな地域との関わりが薄くなっていた今だからこそ、改めて地域の人にこの場所を知ってもらう必要がある。
改めて寮生も地域を知る必要がある。
そう思ってそのきっかけになればと思って実行に踏みきりました。

多分僕の3年間で、1番多くの人に迷惑と苦労をかけた出来事でした。
出店者、企画者の我々、お客さん、3方よしに気をつけながら何が出来るかを日々考えて、
学校にイベント実現の為に交渉にいって
卒寮生にインタビューに協力してもらって、
企画書とポスターを片手に地域を巡って、
役場まで協力をお願いしにいって、
寮生にスタッフや準備のお願いをして、
みんなで宣伝して回って、
ちゃんと僕らを知ってもらうためにプレゼンの準備もして、
やっとのやっとで実現しました。
当日に寮とその周りが一時的でも地域の人でいっぱいになったのは凄くうれしかった。

他にも、寮をキレイにする為に掃除バトルを企画したりだとかしました。
でも上手く行かないことの方が圧倒的に多くて、みんなを巻き込む事、仲間を作ることの難しさと、継続することの大変さを寮長として生活の中で実感しました。


さあ続いて生徒会。
前々から、学校がこんなだったらないいなーと思うことは多かったものの、「どうせ何やっても、言っても学校は変わらないだろう。」と中学の時のイメージを引きずって何もしてませんでした。

そんな時に、塾の土間で学校について話す機会があって、その中で話していた同級生の1人が次会長に立候補すると言っていました。
そしてその人が実際に会長になった後、「この人のもとなら思い描いていたことが実現出来るのではないか」と感じて、生徒会役員に立候補し、副会長になりました。

前期生徒会で掲げたのは「共創」。
先生やコーディネーターの「学校側」と、「生徒」、お互い学校について思う熱量は高いのにすれ違いも多い双方。
そんな2つが同じ目線に立って、一緒に作れたのなら、きっと素晴らしい学校が生まれるだろう。
端的に言えばそんな所。
1口にそう言っても、当然子供と大人がいきなり同じ目線なんて事は無理があるし、どうやったら実現できるか曖昧じゃあ誰も聞いてくれない。
細部まで考え込んだ構想を作るために、生徒会メンバー5人で、2週間以上も毎日塾でミーティングをしてました。
認識をメンバーの中で時間をかけて擦り合わせて、ゆっくりブラッシュアップする。
初めてカレンダーアプリを使ってスケジュール管理して、議事録とか取ったり、他人の意見をちゃんとに聞こうとしたり。
毎日毎日頭を使うその日々は超絶疲れたし、夜布団に入ってから大体吐き気に襲われる日々だったけど、充実感はその時が1番でした。

他にも学園祭準備に走り回ったり、他学校行事の雑務だったりも楽しかったなあ。
この時一緒にやったメンバーに対して割としっかり思い入れが強い。
それぞれの長所にすごく助けられたし、めちゃくちゃ尊敬してるし、生徒会が終わってからも、
各々の活動を傍目から応援してた。


そして体育祭が終わって、生徒会は後期に入る。
後期は助けてもらうこと、頼ることを学んだ時期だった。まぁこう表せば聞こえはいいけど、3年生まで続くスランプの始まりで、自分の不甲斐なさからかなーり迷惑と手間をかけさせてしまった期間でもありました。

後期生徒会が始まって、後輩の割合が増えて、メンバーが少し変わった。居心地で言えば、前期が良すぎたのもあって少し劣るところはあるけれど、会長の手腕もあって嫌ではなかったと思う。
最初は順調だったのだけれど、研修旅行で逆流性食道炎を発症して、そこから体調に引きずられるようにメンタルもちょっとグズグズになっていってしまいまして。
前みたいにエネルギーが持続しなくなってて、調子の波も安定しなくて、集中できてる時も少なくなっていってしまっていました。
だからどうしても頼らざるを得なくて、初めて自分の力で背負いきれなくなって…
でも有難いことに、同級生だけでなく後輩たちもパワフルで、ちゃんと向き合ってくれるし、ちゃんと考えてくれるし、信頼することができてる状態が出来上がってくれていました。
だから生徒会が終わっても、負い目にも似た感謝を持ち続けていて、話す機会はほぼ無くなったけれど気になり続けてたりもします。
卒業式でちゃんと話せなかったのはちょっと気がかりかなぁ…

そうして入った3年生。
2年後半に引き続き、伸びた天狗の鼻をこてんぱんに潰す時期でした。
推薦も、一般も、両方受けて自分なりにやりきることが出来たけれどもトップを目指すにはもうひとつ超えなければ行けないかべがあることを知りました。
初めてしっかり挫折して、悔しさを感じました。


そんなこんなで今の気分としては0の状態に近いのです。フラットに、新生活を受け入れて頑張っていこうと思います。

4000文字以上も書いてまだまだ語り尽くせないとは思ってなかった。人生劇場とか、ヒトツナギとか、時間的に占めた割合は少ないけど記憶に残るものもいっぱいあった。
改めて最高の3年間だったと思う。
ありがとうございました。
周りが思ってるよりも、ずっとずっと、みんなのことも、島も、空気感も大好きでした。
では、また。

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