20190611開潟神社__57_

2019/06/27 旅に生きる ~地形考③~

※みなさまの投げ銭で旅をする企画です。

その①

その②

今回は福島潟をぐるっとした時に道路沿いにあった神社と地蔵の写真をあげるだけの中休み的回です。なので一切調べたり情報はありませんので、コメント欄で何かご存じの方はお教えいただけると助かります。

古い橋。これが観光客用の通路だったのか、地元の人の生活用だったのか気になる。

よく幹線道路の工事などで見ていたガードくん。これだけ近づけたのは初めてなのです。福島県で使ってるのあんまり見ないからね。

小潟地蔵菩薩・・・・わからんぇ(´ρ`)

お寺なのでしょうかね?

引き戸の扉開けると蜘蛛の巣頭にわっさーってなりました。

お参りして撤退。

あれですね、やっぱりお寺と神社の違いって神様そのものよね。

『像』として出しちゃうからね。

ただ古い仏像の『枯れ』よりも新しい仏像の『強引さ』もまた捨てがたい。時代が下がっても欲しがった信仰心の表れだからね。

鳥居の寄進なんかと方向性は似ていると思う。

ただ仏教と神道は日本では飲み込んで混ざっているからわかりにくいけど、ここですんごい根拠なしの勝手な推論を述べさせていただくと

『0』

なんじゃなかろうか?

日本はどこにでも神様がいる、というかなんでも神様。

仏教もたくさん神様いるんだけど役割と同時に『上下関係』もあるっしょ?

たぶんスカウター的な発想をしてしまうんですよ。

最初のブッダの哲学に好きかって解釈くっつけて伝来したのをさらに日本式に溶かしたモノ(それの正否善悪は問うことが野暮)であるけれど、

『無量光寿』とか『那由他』とかでっかい数字の単位はインド人の『0いっぱいくっつけたら強いぞ』発想なんだと思うのですね。

だからデカい・ありがたい・金色・大量みたいなのがお寺にありがちで、かつそういう仏像の展示の仕方がかっこよさを感じる。

神道は『山が本体だから神殿はないぞ』

だからね(´ρ`)

比較したけど上下優劣ではないんですよ。日本には日本式でしか合わないということ。

だから他の宗教があまり数が増えないのはそういうことなのです。

単一民族だ、とかそういうのじゃなくて『砂と熱と月の宗教』が『山と海と川の水の島』に合うわけないでしょっていう単純なことです。

よくわかんない(´ρ`)

入口がわからん

こっちは神社?


調べんで帰って来た。お参りはするぞ

右に曲がる

お賽銭入れるところ欲しい。

こういうところだと扉の中にお賽銭箱あるのに鍵閉めてるの多い。

伊藤幸一郎翁

通りかかった普通のお家の入口にあった鷲。

なんと鉄製。なんで外に置いているのだろうか?かなり立派なモンだよ。

これだけ解説しておきましょうか。

この福島潟が現在の形になる前は当然船で往来するしかなかったわけです。もちろん色々魚とか採るのにも小舟を出したはず。

ところが何も遮るものがない平地なので風で船が転覆して死んでしまう人が多かったのだとか。

それらの霊が船を引っ張るとかと亡霊の祟りを恐れた住民が霊を祀った供養塔なのですね。

水辺の暮らし、なんていいますけど川での水難事故、雨降ってる時の田んぼの様子で用水路流れやったり大変なのだ。

その隣りは・・・

このお隣は新築で綺麗な家。ただの老朽化でこうなったのならアレですけど、住む人がいなくなって倒壊して、でもお隣は新築で・・・・だったら栄華必衰諸行無常。

とりあえずここまでで福島潟は終了。

ここからまた49号線を戻る。

のだが素直に戻らず一旦裏道へ入る

次回へ続きます→その④

投げ銭を旅費にして旅をしてレポートしたり、リクエストを受け付けて作曲をしたりしています。