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我等残滓となる哉、この浮世に

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今日、いままでになく『創造者』への当たり強め記事ができた経緯・・・・

僕の同級生で名前を憶えている人を検索しても出ないんだ。

当時学校在籍時からプロ活動や講師に認められて仕事を振ってもらっていた生徒はいる。贔屓目に見ても今の有名どころに引けを取らないレベルが学内にゴロゴロしていた。


左手でコードトーンとベースラインを弾きながらもジャズではなくファンキーでスラップ混じりなところに右手タップでメロディをこなす、今だったら動画で有名人間違いなしだったあの子、速弾きからブルースまでなんでもござれのあの子、運が良ければベビメタで叩いていたのは彼じゃなかったのかと思うあの子・・・・


そういう梁山泊みたいな学校だった。ギラつきは少なくて和気藹々としていたが、どっかで「俺が一番うめぇ」って人間が服を着て歩いているようなもんだったし、全国から集まったそういう人間達がたじろぐ講師たちが教鞭を取っていたのが母校であるのは誇りだ。(あのギター作ってる会社のあそこ、ね)


しかも実力主義でクラス別けがされるのに、途中で

「明日から下のクラスね」ってのがチャーハン時。逆に上のクラスに上げられても待っているのは新たな絶望だったりする。


入学時100人以上が2年目にはもう半分もいなくなる。

さらに2年1組は

2人、これが確実にあの90年代ごろの日本人の若者トップレベル、そして2組は3人だった。自分は3組の3番。

そう、この出席番号は『イコール学校内での成績と実力判定』の数字なのだ。


福島県のクソ田舎の『村一番の速弾き王』が理論も知らず世間も知らず、

「俺は日本でもそこそこ速い!はず・・・・」って上京し、

入試試験で汗ダラダラ、けちょんけちょんにぶちのめされ、1年8組。

15組まであってさらに1クラスに10人以上いたから実質『そびえ立ちすらしないクソ』である。

しかも新聞奨学生で頑張るぞい!って思ってたら893さん経営のお店に放り込まれて、学校に行くと怒られる始末。

3か月に1週間しか出席させてもらえず大金を払いマイナス状態で学校へ徒歩5分圏内の高田馬場へ。

4丁目の築30年、風呂無し家賃4万円、戸山口まで徒歩6分のねぐらで必死に勉強し練習した。

恥をかいて教えを請い、笑われようがセッションをしてもらい、弾いて弾いて弾きまくった。初見が苦手で10分かかって笑われても毎週初見でせーので知らない他の楽器コースの生徒とバンドをやらされる授業があったので泣きながら弾いてた(すらすら読める人からすればバカみたいですけど譜面濡らして泣いてたんですよ)

努力の結果、それでも上から8番目にしかなれなかった・・・・。

最終の先生からの面談というか成績の感想は

「譜面が遅い、録音の現場でテイク数が多い(これも授業があって3テイク通しでOKもらえないとあらかさまに「帰れ」って言われてモニター落とされるほど厳しい先生に習っておりました・・・・泣きたい)若干リズムが弱い」

みたいなね・・・・

当時はスタジオミュージシャン養成所、みたいな性格がすごく強くて(今はもっと幅広いみたいですけど。なにせ声優さんまでいますから)とにかく現場での瞬発力や実際にある理不尽さを乗り越える能力を求められる感じでした。

講師陣も『グランジブームで行き場を失っただけで腕前はワールドクラス、でもどんなジャンルでも生き残れる猛者』がごろごろ、特に理論講師陣は癖が強く本当に泣きっぱなしで良く辞めなかったと思います。


在学中から、

実家へ帰ってしまう者、厳しさから脱落する者、音楽そのものに見切りをつける者・・・・

それこそたくさん別れをしてきました。

自分より上手い子もたくさんいた。それなのに自分は残ってしまった。無能な自分が。

たしかに、卒業しても宛はなかった。バンドはグランジしか選択肢がなかったし、誰かのサポートにありつくには競争率が今とは桁違いで、それこそプロデューサーとのコネクションがなければデモテープなんてゴミ箱行き・・・・

そんな時代に自信などつくこともなく、それでもバイトしながらいろんなバンドのヘルプや当方ボーカル(笑)などのありがちな子への曲や機材提供、知り合いとみんなでバックバンドになってライブの夢を叶えてあげるとか(笑)そういうことをやっていた。

ちゃんとしたスタジオの仕事は数回、モノになったのはなく、金にもならなかった。譜面投げつけられた事が一回、とにかくまず仕事にたどり着けなかった。


そんな自分もあるメタルバンドへ加入できた。

人気がそこそこありギターが抜けるので穴埋めでチャンスが回って来た。小さいハコなら有名どころの前座もできるくらいには知名度もあった。


加入が決まってから揉め事があったらしく(自分は無関係なので詳しくは知らない)なんと人気の原動力だったボーカルがドラム以外のメンバーを連れて分裂、残ったギターとドラムに自分。貧乏くじを引いてしまう。


それからそのバンドも頑張ったけど立ち行かなくなり、

自分のバンドを組むもなんとベーシストが宗教勧誘をメンバーにやりだして迷惑をかけたので追放。そして新たに若手でまったく無名だったが超絶ベーシストを引きこんで2音半下げパンテラ+デスラッシュ+ドリームシアターみたいな当時としては相当斬新なバンドを動かした。


が、そこで経済的に燃え尽きた。

あとは・・・・どうでもいいことだ。


それからインターネットがこんなことになるとは思ってもみなかった。

個人名がもう『個人情報』と呼べないくらいにSNSが発達したし、車のナンバーもストーカーの手がかりになるくらいで今や『個人特定情報』にはならない。


そしてなにより『無料で個人が世界へ発信』することができるようになった。


同級生の名前を検索する。

Hitしない。業界にもいる気配がない。動画にも見つかることがない。

サポートメンバーとかアマチュア活動もしていないのか、本当に誰も判明しない。


ついに今は無き『ギター専門SNS』で呼びかけたこともあった。

誰も名乗り出なかった。


寂しいかった。

懐かしいとはとても贅沢な感情だと思う。

しかし僕らの世代はとてもそんな時間はなかった。生きているだけでもうれしいのに、みんなどっかに息をひそめているのか興味がないのか、

それとも自分がまだ固執しすぎているのか・・・・

わからないけど寂しいし悔しかった。たしかに僕らの世代はバリバリやってなきゃいけないのにその数はとても少ない。一部のタフな人間と天才以外は人ごみに飲み込まれることすら疲れ果てている。


市街にあふれる人の流れにも乗らせてもらえなかった厳しい時代、

そうなのだろう。そんな時代に手堅い選択をしなかった自己責任、

でもたしかにあの時代でもたった6本の弦に魂を乗せた若者はいた。

のたうち回って、人生のよじれがチョーキングし、

そのまま心臓がフィードバックと派手なアームダウンで止められそうなほどに、『新しい価値観』という名の『なんとかしろ』的ヴァルハラで会おう、靖国で会おう、健闘を祈る、ご武運を、神の御名と共に・・・・とあらゆる玉砕、全滅、撤退、包囲戦、市街地戦の最期の伝言を投げつけられた我々でも

バカなまでに命を削り取っていた若者がいたよ。

あの当時、それでも自分に『覚悟』があったのか?と思い返すと疑問で

足りなかったんじゃないか?と思う。

自分は『運』至上主義で、100%努力しても101%の幸運には勝てないと思っている。

それでも艱難辛苦、万難を排しやりきるしか人は抗う術をもたない。

神頼みも命乞いも人生には聞いてくれる創造主がいない。

だいたいの人間が崇める神様なんて運を擬人化しただけだと思ってる。

好きなオオヤマツミだって自然に逆らえないから自然を擬人化した古代人なりの『科学』だろうし。


人間を超える神などいないよ。

人を殺すのはいつだって人だ。

時代に打ち捨てられたのは紛れもなく、

氷河期世代と名付けられて1冊にされてしまいそうな

数多の物語だ。


そんな物語の中に、

たった6本の弦で世界を変えられるなんて思ってた大馬鹿野郎どもがいて、

でもそれが郷愁にならずにただ錆びついて澱となっている。


そう思ったらどんなに今の自分が

「趣味でーす、田舎のおぢさんが一人で作ったクソ曲だおwwww」

とかほざいても

過去の自分に失礼だし

関わってくれた人たちに失礼だし

YouTubeでひっそりと眠っているわたしの動画達にも失礼だし、

なによりこんな姿で

本当に今とこれからに失礼で



だから腹をくくるにも

大きな怒りと殺意を隠さず、それでも包んでやる、許しはしないけど包み込んでやる、ただ傍観してやるからお前らのイチモツ見せてみろ!

ってやるしかないと思った。


その結果が『これ』なわけです。


そもそも重くて押しつけがましいと思うのだけれども、

それだけのことを僕達は生きたし

やったりやられたりした。

たくさんあったからたくさんケリをつけないと

みっともない『老人』になっちゃうでしょう?

そんなのが一番ロックじゃない、メタルじゃないからね、

ヘヴィにやってきたんだ、ヘヴィに決着つけるしかない。

きっとやれるさ。

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