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~昨年末から現在に至るまでの体調と治療~

諸々の事情で治療経過を記載出来ず、1ヶ月ほど間が空いてしまった。時系列に沿って記載しておこうと思う。

※なお、病巣の写真を載せているので閲覧はご注意下さい。


▼ 2023年末

肺炎の治療をある程度終え(正確には治療しながらになるが)私のふくらはぎの腫瘤に対して、服薬による抗がん剤の治療が始まることとなった。

『ハイエスタ』という抗がん剤になる。

これは少なくとも私の悪性リンパ腫が判明した2020年5月の時点では、保険承認されていなかった薬になる。

簡単に言うと、長く生きていると治療の選択肢が増える可能性があるということを具現化した実例になるかと思う。私の場合は週2回、1回4錠を服薬することとなった。

肺炎の程度がある程度治まったので、肺炎治療が点滴から服薬に対応が変更されることにもなり、年末年始にかけては自宅にて様子を見るという結論となった。

ある程度この流れは想定されていて、もちろん喜ばしい流れではあった。だが、先に結論から申し上げるとこのハイエスタが後々に私を苦しめることになる。

▼ 年始~1月上旬

錠剤型の抗がん剤ハイエスタの効果については、正直それなりにあったという手応えは個人的に感じてた。

私の癌は現在皮膚に現れているので、見たり触ったりすることである程度の状態を判断することが出来る。

…もちろんその判断は正しくないかもしれないし、身体の内部については全く分からないということは先にお断りしておきたいが。

皮膚の表面にいくつか現れてきた腫瘤のうち、小さなものに関しては弾力を失ったり消失したりしたことが窺えた。もちろんこれは移植を行った私の弟の免疫細胞の働きによる効果も少なからずあるだろうが、やはり抗がん剤の効果もあると自分では捉えていた。

だが、左ふくらはぎに表出している最大の腫瘤については、あまり大きな変化がみられなかったというのも率直な感想である。

現在の状況については、写真をいくつか載せておく。
※病巣の写真なので、閲覧は各自の責任とさせて頂きます。

左ふくらはぎ腫瘤

左のふくらはぎの腫瘤は、張り感や艶感が現在もある。

左太もも腫瘤

一方で、左の太ももの腫瘤は今の時点ではかなり小さくなっていてほぼ見る影もない。

時系列の記録を残していないのだが、この数か月前の太ももの状態は現在のふくらはぎの状態とほぼ似たような形であった。

一方でハイエスタの服用によって想定されていた副作用は、私にはいくつか訪れることとなった。

ただその度合いがなかなか激しいもので、結果的に「食事を摂る」ということが年が明けてからかなり難しくなった。

食品の匂いにかなり敏感になり、普通に何かを口に運ぶとほとんどが強烈な吐き気を催す。一番しんどかったのは揚げ油の匂いであり、いわゆる「油もの」と言われるものはほぼ喉を通らなくなった。

そうなると、当然を起きるのは体重の減少と血球の減少である。

抗がん剤の効果により血球は減少するし、血液や筋肉を作る材料が口から摂取されないので当たり前のことではあるが、わずか2週間の間で5キロほど体重を落としてしまった。

2020年のいわゆる初めてガンが分かった時の体重は73キロ、1月の10日あたりの体重は45キロ。

…いかに落差があるか、お分かり頂けるかと思う。

さらには胸の痛みや違和感を覚えることが多くなり、週1回の診察の中で心電図の波形の乱れが顕著となった。

そこから不整脈や狭心症の疑いが指摘されたのだが、これもハイエスタで認められる副作用ということで、結果的にハイエスタは計4回にて一旦服用を中止されることとなった。

このNoteを執筆している現在は、約半月ほどハイエスタの休薬している。

一言で言うと「ある程度抗がん剤の効果は認められたが、それと同様に起こりうる可能性のある副作用(中でも特に危険なモノ)は結果的に私の中に起きてしまった」というわけである。

▼ 1月中旬

もともと抗がん剤投薬を行った理由は、それによって「寛解を目指していく」というものではない。

繰り返しになってしまうかもしれないが、私の病気は比較的高齢者に多いタイプになり、「治す」というよりかは「病気を抑える、落ち着かせる」といった処置が行われることが多い。

病気の特性上、世の中の薬や治療の開発がそちらに比重がかかっているわけなので仕方のないことだと思う。

一方で、病巣を抑えることが出来ればその時の体調等によって新たな治療の選択肢も広がるという意味合いもある。

今回は途中で服薬を中止してしまったという事実はあるのだが、弟の免疫細胞がある程度活躍していることや抗がん剤に対しても何かしら反応があるということを踏まえて医師の方から『リンパ輸注』という選択肢を提示された。

地方の病院で出来る治療ではないので、前回入院をした大学病院に再度話を聞くということになってその日程調整が行われたのがこの時期である。

そして移動日に飛行機が悪天候で飛ばず、お預けを食らうことになってしまう事態に見舞われる…。

▼ 1月下旬

輸注については、大学病院での治療になるので大学病院で説明を受けてくる様に主治医に指示を受けた。

昨年も造血幹細胞移植を行うにあたって、家族総出で話を聞きに行った様に今年も飛行機で移動の準備をしていたのだが、当日の悪天候のため当初の予定が一旦取りやめとなった。

冬期間の移動であることから天候に左右されることはもちろん、ある程度大人数の移動になるので振替便の確保やホテルの変更など労力のかかる結果となった。最終的に妻と息子を留守番させて、自分と両親でリンパ輸注について大学病院へ話を聞いてくることになる。

…もう二度と行きたくないと思っていたあの大学病院である。

リンパ輸注については主治医から説明をある程度受けていたので、今回の説明でもざっくりと納得することが出来た。

造血幹細胞移植時に関わってくれていたメインの先生は既に異動されていたので、当時のサブの先生が今回のメインを担当してくれることになったのだがそれは心強かった。

安心感から、両親の前で話すのは少し恥ずかしい部分もあったが私は率直に「治療を受けたくない」ということも伝えた。

「時間や金をかけて何を言ってるんだ」と思うかもしれないが、私の病巣は皮膚にあり生きるための主要な内臓器には現在転移はしていない…と勝手ながら思っている。

ハイエスタもそうだが治療に伴う副作用やダメージが顕著に出ている現在の状態で、新しい治療を行うことは正直避けられるものなら避けたいと思っているのが正直な気持ちであった。

このまま皮膚だけで病巣が大人しくしてくれるのであるならば、もうそれは受け入れて生きていく…なんてことを思っていた節もある。

その辺の話も、素直に伝えた。

医師は理解を示してくれて「その選択肢もある」ということ両親にも丁寧に話してくれた。

一方でリンパ輸注の選択肢が取れることは喜ばしいことであること、もし仮にある程度時間が経過して「リンパ輸注をしたい」と申し出られてもその時に出来ない可能性もあること、皮膚のみで病巣が収まらないこと…。

様々な可能性について、私以上に丁寧に両親に説明してくれた。

当たり前であるが、リンパ球を提供してくれる弟が私が「輸注をしたい」と申し出た時に健康な状態で生存している保証もない。その様々な選択肢や可能性を踏まえた上で「人は決断しなければいけない」と、そう伝えてくれた。

もうここまでくると「どう生きていきたいか」になってくるのだなぁとしみじみと思った。

…この辺の話はあまりにも長くなるので、別件にまとめたいと思う。

だが、その様々な選択肢の中で私は納得をしてリンパ輸注という治療を選んだことをここに記録しておきたいと思う。

私は今、納得してリンパ輸注を選択した。この治療で命を落としたとしても後悔はしない。

…いや、やはり後悔はするのであろうが、何か強い宣言をしておかないとこの1ヶ月の間にあった様々な想いが成就しない様な感じがしているので、そのように記載させて頂こうと思う。

▼ さいごに

今の私にとって一番重要なことは、文章を書ける体力を維持しながら生きているということにある。『生きる』とか『死ぬ』という言葉を使いながら文章を書くことが私は日毎に多くなっているが、強い言葉を使って誰かの興味や関心を引きたいわけでは残念ながらない。

人は死ぬ。これは100%決まっている。

Twitterを始めてもうすぐ1年になるが、100数十人程度の私がフォローしている人の中にはもうこの世にいない人が両手の指の数から溢れそうになる程存在する。

病気の情報収集で始めたので健康な人が多くないことは事実かもしれないが、それでも人の死を痛切に感じる。

そして、今も私と同様に病や治療と向き合う人が大勢いる。いつ言葉を交わすことが出来なくなるか分からない。

…分からないのである。

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