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漢 Kitchenで「共生」への回答をみる~『ハンチバック』とグミゼリーケーキ~

市川沙央『ハンチバック』

『ハンチバック』が読めない

市川沙央の『ハンチバック』が芥川賞を獲った。僕は障害当事者として『ハンチバック』が文學界新人賞を獲った時から、嬉しいような悔しいような恥ずかしいようなそんな気持ちがしていて、なかなか手を出せずにいた。それは多分、「同じ」障害当事者としてというより、「同じ」作家志望の人間として悔しいみたいな気持ちが一番デカいんだと思う。僕が文壇に「障害当事者」を武器に殴り込もうとしたら、先に、そして圧倒的な破壊力でもって芥川賞まで搔っ攫ってしまわれた。多分これから僕が作家になれたとしても、僕は市川さんが切り開いていった道を頭を下げつつ申し訳なさそうにしながら進んでいくしかないのではなかろうか。それは悔しい。あくまでも、作家志望として。

「同じ」障害当事者

「同じ」障害当事者という表現をしたけれど、こういう表現はあまり正しくないように思う。僕は市川さん、ないし『ハンチバック』の主人公ほど重度の障害者ではない。小・中・高・大学といわゆる「普通」の学校で健常者と呼ばれる「みんな」と生活を共にしてきた。かといってじゃあ軽度の障害かと問われるとそんなことはなく、日々車椅子で生活しているし、手すりのない階段は一人で登れないし、電車とホームの間も一人では超えられないから僕はやはり「障害者」なのだと日々認識させられる。のだけれど、僕の周りは幸い良い人が多かったのと、そのお陰で僕のコミュニケーション力に磨きがかけられていったこともまた幸いし、友達の多い人生を送れている。
そういう点で僕と市川さんを「『同じ』障害当事者」と表現するのは気がひけてしまう。そもそも、彼女は作家で、僕はうだつの上がらないまま学生を続けているのだ。その点でもやはり全然違うし、そもそも、僕は障害者同士で連帯しようという気もさらさら起きないのだ。知らない障害者より知ってる地元の(健常者の)友達の側に僕は立っていたいと思うし。
時として取り沙汰される「障害者の怒り」みたいなニュアンスの文言、例えば今回は『ハンチバック』の紹介で「健常者を撃つ」みたいなのを見かけた気もするが、そういう抑圧された者の怒りの発露みたいな取り上げ方(作品どうこうではなく)とかって、かえって分断を進めてしまうだけのような気もするのだ。
誤解して欲しくないのは、だからといって『ハンチバック』ないし市川さんに文句を言おうという気はない。彼女と彼女の作品が世に出たことによって、社会は間違いなく良い方向に変わっていくと思うし。
ただ僕が、彼女とは「違う」障害当事者で、「同じ」作家志望(だった)点において『ハンチバック』を読めない、というだけ。

「グミゼリーケーキ」という「共生」への回答

そんなこんなで、『ハンチバック』の芥川賞受賞の速報をスマホで見て「くそ~おめでと~」と思いながら、最寄り駅の駅ビルにあるくまざわ書店で『ハンチバック』を買って数日、自分の頭の中で「あ~こんなこと書いてあるんだろうなぁ~あ~」などとあらぬ妄想を繰り返した挙句、1ページも読めずにいたところ、僕のスマホにtwitterからとある通知が飛び込んできた。

「漢さんとお料理したナッツよ🍭」

少し考える。ちょっと待てよこれってつまり…

ピーナッツくんが漢 a.k.a.GAMIと料理すんの⁉

僕はピーナッツくんが(Vtuberとしてもアーティストとしても)とても好きで、『Drippin’Life』に何度心を救われたか知れないという感じなんだけれど、別にHIP-HOPに詳しいわけでもなければ、今となっては「遅れてる」感覚なのかもしれないけれどヒップホッパーに対しては「いうてもちょっと怖い人たち」という印象だった。それに漢 a.k.a.GAMIといえば、一時期少しネガティブにニュースを騒がせたこともある人だ。
大丈夫か、ピーナッツくん…
そんなことを思いつつ、ピーナッツくんの引用元のツイートに貼られていた予告動画を見てみる。


すげー楽しそう

すごく楽しそうである。抱き合ったりしてる。
しかも作ってるものがなんだかすごい可愛い。
なんだ、グミゼリーケーキって。そんなもんあんのか。そもそも、その3つって合体可能なのか? 寿司ハンバーグラーメンみたいなことでしょだって。
わかんないけどヒップホッパーが作る料理では絶対にないし、そもそもヒップホッパーと料理番組という組み合わせが既にもうなんかすごい(しかもそれが16回続いている)。
だがこの漢って人、見れば見るほどキッチンとエプロンとの親和性が高そうだ。「この人多分、色々と寛容な人なんじゃね」と僕のなかの直感が囁く。

と、とにかく早く観てぇよ…あと48時間…ぐぬぬ

(僕なりの)共生の理想形が体現され過ぎている漢Kitchen

そんなことではやる気持ちを押さえて、48時間後、7月23日(日)の21時に
【ゲスト:ピーナッツくん】漢Kitchen~漢a.k.a.GAMIの料理番組~
が公開された。

僕は漢さんの曲は聴いたこともないし、漢Kitchenを見るのも今回が初めてで本当に事前情報ゼロの状態(セルフ『君たちはどう生きるか』状態)で視聴を開始した。開始して数秒、僕は確信した。

漢 a.k.a.GAMI、めっちゃ良い人~~!!

社会的にどうかみたいなことは一旦抜きにして、この人、めちゃめちゃ良い人だ。いや、一旦抜きにせずとも、罪は償ったんだし(多分)、社会に対してアウトサイダー的な立ち位置の人だろうから、「もう」別にいいことなのだ。本質は恐らくそこじゃない気がする(少なくともそう思わされてしまうだけの魅力が彼にはある)。

白シャツの袖からいかちぃタトューを覗かせつつも全体として清潔なイメージの漢さんと、その隣に立つ(着ぐるみフォーム)2頭身のピーナッツくんという構図は初っ端から視聴者になんとも言えない期待感を抱かせる。
これからこの2人がグミゼリーケーキを作るのだ。

だから何、グミゼリーケーキって。

あまりにもホスピタリティーが高い漢a.k.a.GAMI

と、意気揚々と番組を再生してから気付いたことなのだが、ピーナッツくん、着ぐるみフォームなので現実世界で出来ることが非常に限られているのだ。だが無常かな、そこは料理番組なのだ。

「これはアレかな、ピーナッツくん漢さんが料理していくのを見てる感じかな…」

と僕は思った。自分が小学校の時、グランドの端で体育を見学していた時に近い感覚が呼び起こされ、センチメンタルに沈みかける。

「では、早速作っていきたいと思います」

ルックが強い漢Kitchen

まぁ着ぐるみの横でガシガシとスイーツを作っていくラッパーを見るのも楽しいだろうし…と思っていると「え〜じゃあまずね、」と発した漢さんは、ピーナッツくんの手を握り、

漢「あ〜こういう感じの、ドラえもん的な感じの手だねこれ、じゃあ」

手と手。こうも違うか。

ピ「ちょっと、どこまで出来るかわかんないんですよ」

漢「じゃあまぁ、出来ることは全てやってもらおう」

衝撃だった。

漢さんは、はじめからピーナッツくんと一緒に料理を作る気なのだ。

例えば、仮にピーナッツくんではなく、漢さんの隣に車椅子の僕がいたとして、僕も上記のピーナッツくんと同じことを言うだろう。

「(車椅子なので)どこまで出来るかわかんないんですよ(なので横で見てます)」

昔から、「みんな」が持っている流れや空気みたいなものを僕が停滞させてしまう時間みたいなものが苦手だった。「みんな」の当初のプランが僕という存在が入ってきたことで一旦崩されてしまう「あの感じ」が僕はどうも苦手で、それだったら僕は「みんな」が楽しそうなのを傍から見てる方が幸せなので、「いいよ、僕見てるから」という選択肢を常に選んできた。

だが漢a.k.a.GAMIという人は、その場で(つまり打ち合わせたホスピタリティーではなく)ピーナッツくんの状態を確認した上で、「見ててよ」でも「出来ないことはやってあげる」でもなく、

「じゃあまぁ、出来ることは全てやってもらおう」

という言葉を選べてしまう。
それは僕が、これまで車椅子に乗って生きてきた24年間の中で、最も欲していた言葉だったように思えた。

ハグ、ハグ、そしてハグ。

調理開始したものの、やはりピーナッツくん、出来ることは限られている。
視野が(極端に)狭いので、コンロを着火するのにも一苦労だ。
だが漢さんはその「出来なさ」を露悪的にイジったりはしない。ボタンの位置が分からなければ、腕を添えてそっとピーナッツくんにボタンの位置を教えてやり、着火に成功すると

「5歳のピーナッツくんが、5歳にして初めて火をつけれた!おめでとう!」

と言って漢さんはピーナッツくんにハグをして、
「やればできるじゃん」
と語りかける。

このような微笑ましく、力強いやり取りが幾度も行われる。

ゼラチンの袋を開けるのに苦戦するピーナッツくん。漢さんが「ピーナッツくんごめん」と代わろうとすると、袋が開き、「開いてるじゃん!すげぇ!」と素直に感心する漢さんは、「ピーナツ!」と呼びかけ、がっしとシェイクハンドし「ナイス」と小声で、だがやはり力強く語る。

こんな感じで、ピーナッツくんがひとつ何か出来るとハグや握手といった行為が必ず挟まれる。

「できない」を数えるのではなく、ひとつひとつの「できる」を称賛し、その度に抱き合い、互いの存在を肯定し合う美しい関係。
僕にとっての「共生」の理想形がそこには確かにあった。

色んな世界があるからね

ゼリーも完成を控え、冷えるのを待つ間、漢さんは座って煙草を燻らし、ピーナッツくんは立ち尽くしながら、会話をする一幕がある。
そこで漢さんは、高時給のバイトの面接だと思ったらゲイとデートする裏バイトの面接だった話をする。
うぉえ〜、なんか色々と的がデカい話だな大丈夫か?と思っていると、漢さんがその人間観を覗かせる一言を発した。

「色んな世界があるからね。なんも否定はできないけど。この地球には色んな人がいるなと思って。」

この漢a.k.a.GAMIという漢、名言製造機なのか? いちいち僕に刺さるぞ。
この一見、淡白にも思えるこの台詞の中に、複雑化する「多様性」への一種のアンサーが含まれているように僕は思う。
どんなことであれ、他者を完全に理解することは難しい。だが、どのような人間(ないしピーナッツ)であっても否定することなく、「色んな世界がある」と自身の認知と許容の幅を広げていき、同じ場に集えば、互いにリスペクトを持つ。
理解ではなく、リスペクトである。
理解は努力を必要とするし、しようとすればするほど、自身との違いに落胆してしまうこともあるだろう。

だがリスペクトならば、それは姿勢と態度の問題でしかないのだ。それを互いに持つことが、一番簡単で、一番強力な共生への道なのだと気づかされる。

出来上がったグミゼリーケーキに漢さんは生クリームとチョコレートをトッピングしていく。
見た目が美しいとはお世辞にも言い難いし、ラッパー2人が作ったとは思えないほど甘々しているが(そもそも美味しいのか?)、チョコペンでケーキ側面にデカデカと書かれた「ピーナツ」の文字には、存在の肯定という形でのリスペクトが最大限に表れている感じがする。
これでいいんだと思う。
「共生」そのものを、美しい形で形つくろうとするから難しさが生じてしまう。
だが不恰好でも「相手の好きなもの」を載せに載せ、名前を記してあげる。漢.a.k.a.GAMIというアウトサイダーと、ピーナッツくんという謎の存在が「共創」したグミゼリーケーキこそ、社会が考えあぐねている「共生」へのひとつの回答であるように思う。解答ではない。回答なのだ。
答えはいつもひとつではない。相手にする人それぞれの関係の中にそれぞれの回答があるのだ。
それを探し当てることに怯えることはない。
まずは互いに、リスペクトを持ち、それを表明することだ。
それがはじめであり、それがすべてなのだ。

『ハンチバック』を読める気がした21時半の脱衣室。

気がついたら、脱衣室で全裸のまま30分、漢Kitchenを最初から最後まで視聴していた。まだシャワーを浴びていないのに、太腿に水滴が垂れている。
ふと、『ハンチバック』を読めていない自分の浅はかさみたいなものに気がつく。
色々と言い訳をつけて、読まずに文句をつけようとしている自分、けっこうダサいな。

読もうかな、『ハンチバック』
 
浴室の鏡で、全裸の自分を改めてまじまじと見てみる。
市川さんと僕。
「同じ」ようで「違う」僕たちが、小説を通して対話する。
読み終えてどう思うかはまだ分からないけれど、文壇に思いっきり風穴を開けた彼女の生き様、そして作品にリスペクトを抱くことができる気がした。
思いきりくしゃみをする。
脱衣室で首を振り続けていた扇風機の風が、全裸の僕には案外堪えているらしかった。

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