仮説:写真は時と光の結晶か。
個人的感想ではありますが、日本人が世界に誇る美点として誇ってよいと思う点の一つとして、海外の優れたもの取り込んで自らの中に消化してより優れたものとして昇華させていく能力ではないかと思っています。
写真についても、それが発明された欧米での呼び方 - Camera(カメラ)に「写真機」という訳語を与え、より優れたものを生み出すべく努力を重ね、少なくともカメラについてはその目標を達成できたといってよいのではないかと思います。
しかし、Photograph(フォトグラフ)を「写真」と訳してしまったのは個人的には失敗じゃないかと思う事があります。Photographをより厳密に解釈すればPhoto - フォト(光)とGraph - グラフィックの組み合わせた造語で、その意味では「光画」という言葉 - もともとは戦前期の写真雑誌のタイトルだったそうですが、たいていの人がその言葉知ったのは漫画の中に登場した言葉からだと思います(そうです。あの「光画部」のことです!!)
写真の本質を考えれば、「光画」という言葉のほうがより実体を表していると思うのは自分だけでしょうか。
写真とは光の結晶体ではないか
最近は冬場にいろいろなところでイルミネーションイベントがあるのもあって、一年に最低一回は夜景撮影に出かけます。
イルミネーション撮影のような夜の撮影は昼間の撮影と違って光は貴重です。とにかく絞りを開けて少しでもたくさんの光を取り込み、ISO感度を上げて貴重な光を少しでもたくさん集めなければなりません。
集められた光はフィルムの上、または光学センサーの上に固定され、写真として完成されます。夜の撮影では取り込める光が少ないだけに写真を撮るとはカメラという箱の中に光を集める事なのだと痛感します。
この光を固定させるという部分で思いついたのですが、写真とは光の結晶体なのだと言い換えてもいいのではないか。という点です。
(学術的に言う「結晶」という定義からは色々突っ込まれるところが多いと思うのですが、あくまで観念的な意味として。というところでご容赦くださいw)
時間も結晶化されている!
写真を成立させる3つの要素。シャッター速度(SS)、絞り(F値)、ISO感度はどれも必要な光を適切に取り込むための要素な訳ですが、この中でシャッター速度は光を取り込んでいた間の時間も切り取って固定化されているという意味で、写真を撮った・・・シャッターを切った瞬間のこの日、この時を結晶化させていると思ってよいのではないかと思います。
例えば、この写真のシャッター速度は30秒で、その間に着陸した飛行機の航跡がそのまま光の光跡として結晶化されていると思うのです。
夜景撮影では、時間を結晶化することで「30秒」を「一枚」という全く異なった単位に変換できてしまいます。これはある意味動画には不可能な、写真だからこそ可能な効果ではないでしょうか。
普通の日中の撮影でのシャッター速度は、何十分の一秒(1/60秒とか)だったり、何百分の一秒(1/125秒とか)だったりするので、何秒もの時間を結晶化することはできない・・・しかし、昼間の写真でもその日、その時の一瞬を結晶化させているのは間違いないので、この時でなければ撮れなかったというものを結晶化させることが出来るわけです。
写真は物質か、情報か?
写真を時と光の結晶体だと考えた時、その結晶化した状態を不可逆的に固着、物質化させているフィルムの方がより写真の本質的に近いように思えます。デジタル写真は本質的にはデータ・・・つまり情報であって物質ではないからです。
今では完全に時代遅れな道具になっているはずのフィルムカメラがなかなか廃れない理由の一つは実は、この写真は時と光の結晶体である以上、最終的には物質化していなければならない。と考えれば納得いくのかも知れません。
そして、デジタル写真が本質的にはデータである以上、フィルムの写真との間には越えられない壁・・・と言うか溝があるのかも知れない。とも。
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