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タイの名付け事情 ―本名も一生ものとは限らない―

この記事は、2019年に日・タイ経済協力協会から発行された『日・タイパートナーシップ (162)』に掲載されたものです。

「新しい年号は<令和>であります」

 注目を集めた新元号がついに公表されました。生前退位であることから、今回の改元はなんだかイベント化され「このお祭り騒ぎは内政から国民の目をそらせるための策略だ」といった陰謀論を唱えるひともあるくらいです。しかし、お祭り騒ぎになっていようとも、改元の選定から発表までの過程にはかなりの厳粛さがありました。

 元号案について意見を聞くために政府に集められた有識者たちは、公表まえに元号の情報が漏れてしまうことを防ぐため、元号が発表されるまでの間、スマートフォンなどの持ち込みができない部屋で待機させられていたといいます。また、結局はマスメディアにリークされてしまっていますが、政府は新元号発表後も、原案や考案者は公表していません。それだけ、元号の「名付け」は大きな意味をもっています。
 
前回、改元には君主が空間だけでなく時を支配することの象徴としての意味があるというお話をしましたが、「名前をつける」という行為にも、ひとは深い思い入れを持っているものです。「令和」の由来や意味、込められた願いなどについてテレビや新聞で盛んに考察がとりあげられ、新元号の選定は、親が生まれてきた我が子に良い名を付けようしているようだともいわれました。実際、昨年イギリスでロイヤルファミリーが誕生した際にも、公表前からその名前に注目が集まっていたのも記憶に新しいところです。ひとりの人間の命名は重要なものだという認識がわたしたちにはあるといえます。


 

 ところが、タイの場合はひとの「名前」についての感覚が少し違っています。2019年3月24日、タイでは8年ぶりの総選挙が行われましたが、選挙前に改名をする候補者が相次いだことがニュースでも取り上げられました。日本でも議員が選挙ポスターをひらがな表記で作成したり、政界入りを目指す芸能人が芸名で立候補している例はあります。しかし今回のタイ総選挙では、貧困層を中心に現在でも国民に人気が高いタクシン元首相や妹のインラック前首相と全く同じ名前の候補者の届け出が、14人以上もあったというのです。

 タイでは政治家に限らず、改名をするひとは珍しくありません。日本では改名をするためには、家庭裁判所に認められる必要がありますが、タイでは本人が望んで、手数料を支払えば簡単な手続きのみで本名を変えてしまうことができます。気持ちを切り替えたいときや占いで運勢が気になるときなどに、一生のうちに何度も、まるで髪型を変えるかのように名前を変えるというひともいるくらいです。
 タイ内務省は15歳以上の全国民に対して「バット・プラチャーチョン(市民カード)」とよばれるIDカードを発行し、常時携帯することを義務付けています。本人確認はこのカードに記載される国民登録番号で行われるので、名前が変更されても個人を識別することができます。

 改名を望む人がいるのは、名前が人物の"ひととなり”を表したり、運勢を決定付けたりするという考えがあるためで、「名前」を重視していることは日本社会とかわりありません。子どもの名は、僧侶や人格者に良い名を選んでもらったり、産まれた日時から運気があがるといわれる文字を占って使うなど、想い入れをもってつけられるものです。ただ制度上、「ひとの名前は一生もの」ではかならずしもないという点が大きく異なっています。

お寺に備えられたおみくじを引き、名付けの参考にする人もあるといいます。

 タイでは姓名は、名が先、姓があとにきます。一般的には姓を呼ばず、名を呼ぶのが正式とされ、欧米のMrにあたるナーイ(naai)、Mrsにあたるナーング(naang)、Missにあたるナーングサーオ(naangsaao)という敬称を付けて呼ぶのも、姓ではなく名のほうです。先程の政治家の例でも、「タクシン」も「インラック」も姓ではなく名です。日本のマスメディアは、自国の首相を「晋三首相」と称したり、アメリカの大統領を「ドナルド大統領」と表記することはありませんが、「プラユット首相」というようにタイの人物名については正式として名を用いています。

 タイでは全国民に苗字がつけられるようになったのは近代のことです。西暦1916年にモンクット国王が官僚制度を整備する必要から「姓氏例」を制定し、官僚も平民もすべてのタイ人が姓をもつようになりました。このとき、それまで苗字がなかった者は、自分で作成して登録するということになったので、パーリー=サンスクリット語起源のものをはじめ、様々な苗字がつくられました。「なにごとも誰かと同じほうが安心」という集団意識の強い日本とは異なる「自分だけのオリジナルがいい」というタイ人の価値観が働いたのかどうかはわかりませんが、他人と同じ苗字にすることは避けられていたようです。そのため、親戚ではない他人が偶然に同じ姓であることは、通常は非常に珍しいといわれています。
(しかし改名だけではなく改姓も簡単にできるため、あえて他人と同じ姓にすることも実際は可能です。わたしの友人のひとりは「わたしの家族の苗字はお父さんの友達の家族と同じ」だといいます。彼女の家族は元々中国系ルーツなのですが、タイ式の姓を望んだ彼女の父親が親友の姓をもらったそうです。許可を得て改姓をしたというだけで、婚姻や養子縁組をしたわけではないので、彼らふたつの家族の間に親戚関係はありません。)

 婚姻に際しては、妻と夫いずれかの姓を選んで夫婦で統一することもできますが、夫婦別姓とすることも認められており、さらには新しい姓を作ることも選べます。

 タイで社会生活をするうえでは、こうした名でも姓でもなく、チュー・レン(cuu len)直訳すると「遊び名」というニックネームが最もよく使われます。日常的に使われるのはこのチュー・レンで、親しい友人同士でも互いの本名を知らないということは珍しくはありません。学生と親しく接する大学教授が、「受講者のことは全員顔がわかるけど、チュー・レンで呼んでいて本名と一致させられないから授業態度は成績に反映できない。逆に私情を持ち込まないから公平だけど」ともらしているのをきいたこともあります。

 チュー・レンが使われる起源には、アニミズムがあるともいわれます。昔乳幼児の生存率が低かった頃、産まれたばかりの子どもが死んでしまうのは精霊に連れ去られてしまうためだとの考えから、精霊を欺くために「アリ」「鳥」「みかん」といった動植物の名前や、「太い」「小さい」「黒い」といった特に魅力のない形容詞で幼児を呼ぶことで、災難を逃れようとしていたのです。
 本名の姓名が長くて難しいのが一般的であるのに対し、チュー・レンは短く簡単なものが付けられます。本名の最初の音節がそのままチュー・レンになっているひともいますが、本名の名付けとは異なり、願いを込めたり、意味を考えることはありません。ほとんどのチュー・レンは男女兼用で、音の響きの呼びやすさ、覚えやすさのみを考慮して簡単につけられます。ニックネームですから、家族からと友人からとでは別のよばれ方をしている等、複数のチュー・レンをもっていたり、本名と同様に変更することもあります。流行り廃りもあり、少し前は英語の名前がかっこいいということで、自分のチュー・レンを英訳するひともいました。「星」という意味の「ダーウ」さんが「今日から"スター"と呼んで」という具合です。

オーソドックスなチュー・レンはこのように短い名前ですが、最近は長めのチュー・レンも増えてます。フォン・ビア(ビールの泡)、ナップ・ダーウ(星を数える)等、昔ながらのチュー・レンに動詞や形容詞を加えたものがオシャレな感覚らしいです。

 ICTが普及してから、Web上やSNS上でのハンドルネームやユーザーネームというかたちで、自分の名前を自分で考える、変更するという経験は、誰にとっても特別なものではなくなりました。タイの人びとにとっては、本名の改名も似たような感覚なのかもしれません。FacebookやLILEのアカウントをひとりで複数もっていたり、頻繁にプロフィールやアイコンを作り変えたりする人がタイには多い気がするのですが、改名の気軽さとなにか関係があるのか、気になっているところです。


日・タイ経済協力協会 2019『日・タイパートナーシップ(162)』pp.34-36





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