映画『赤い河』ハワード・ホークスの運動性の魅力について濱口竜介監督が語る

この映画は、札幌で開催されたクリエイティブスタジオ、シネマシリーズ5「映画ヘと導く映画~映画監督・濱口竜介が選ぶ傑作2作品上映と特別講演」という催しで観たものだ。濱口竜介監督によって選ばれたハワード・ホークス作品というわけだ。ハワード・ホークスの空間の使い方、モーション・ピクチャーとしての運動の魅力と活力、その圧倒的な映画体験を語っていた。

私は初めて観たのだが、なにはともかく牛たちの圧倒的な迫力に驚かされる。撮影に使われた牛は1万頭とも言われている。その牛たちを使っての西部での大規模移動撮影の現場の苦労たるや、想像を絶する。その牛たちの運動と男たちの対決の運動が見事にシンクロしながら描かれている。

南北戦争直後、南部に絶好の牧草地があることを知った開拓者ダンスン(ジョン・ウェイン)は、幌馬車隊を離れ、親友グルート(ウォルター・ブレナン)とともに赤い河へとやって来る。まもなく幌馬車隊はコマンチ族に襲われ、あとから呼び寄せるつもりで別れた恋人フェン(コリーン・グレイ)も失ってしまう。コマンチ族の襲撃から逃げてきた一人の少年マシュー・“マット”・ガースも引き連れて、リオ・グランデ川の近くの牧草地で牧場を始める。牛たちの焼印(ブランド)は河の2本線とダンスンのDのイニシャル。

14年後、1万頭の牛たちを抱える大牧場主になったダンスンだが、南北戦争の影響で牛たちが売れなくなって、テキサスからミズーリを目指して1万頭の牛たちを連れた大移動、ロングドライブを始める。大人になったマット(モンゴメリー・クリフト)は早撃ち銃使いになっていた。圧倒的な牛たちの数を見せる長いパン映像。360度に近い270度くらいのロングパンに続いて、出発を告げる男たちの掛け声とともに移動が始まる。

前半は長旅の移動の苦労が描かれる。そしてこの映画の最も凄い場面、牛たちの暴走が描かれる。まず、音の使い方が見事だ。寝静まった夜、疲れ果てた牛たちは暴走の危険をはらんでいる。コヨーテの遠吠えと闇の静寂。ライフルでコヨーテを撃とうとする男を仲間がたしなめる。音の使い方は、先住民族の気配と声のやりとりなどでも効果的に使われていたが、この牛の暴走のキッカケとなるのが、度々砂糖の盗み食いをしていた男が食器を落とすガラガラという音なのだ。そして男たちの表情のアップ。牛たちの暴走。静寂の闇夜に響く金属の皿の音が牛たちの暴走のキッカケとなる。

濱口竜介氏が指摘していたのが、この牛たちの暴走が、これまでロングドライブを描いてきた<上手から下手へ>の運動、目的地へ向う旅の方向性と、牛たちの暴走が全く逆の<下手から上手へ>と逆方向であることだ。牛たちの疾走そのものも大迫力で凄いのだが、運動の方向が逆方向であることで、映画全体のなかで異物となる「絶望的な逆戻り」が描かれている。その絶望的な悲劇の逆方向が、映画的運動の活力になっているという両義性、アンビバレントさこそが、この映画の魅力だというのだ。「牛の暴走という最悪の現実を抽象的な映画的な活力に変えてしまう」演出にこそ、ハワード・ホークスのモーション・ピクチャーの運動性にこだわる魅力があるというのだ。

長旅の過酷な移動、雨や水や食糧不足。仲間たちの疲労や不満がたまり、脱走者も現れる。ミズーリではなく、鉄道が開通したカンザスへ行くべきだと主張する者たちも出てくるが、ダンスンはそんな声に耳を傾けない。強権を発動し、脱走者の首を吊すとまで言い出し、マットたちの反感を買う。銃の早撃ちでねじ伏せられたダンスンを置き去りして、マットたちはみんなでカンザスに向うことにする。西部劇で正義のヒーローであり続けたジョン・ウェインが、わからず屋の独裁者となり、仲間から見捨てられるのだ。

無事、鉄道が開通した街、カンザス州アビリーンに到着したマットたちは、牛を食べていなかった街の人たちに大歓迎され、大金を得ることになる。途中、コマンチ族に襲われていた幌馬車隊を救ったマットたち。そこで知り合った女性テス・ミレイ(ジョーン・ドルー)は、マットに一緒に連れて行ってと頼むが置いて行かれる。裏切ったマットを殺そうと、後を追ってきたダンスンは、かつての恋人フェンとテスを重ね、マットの元に連れて行く。

<上手から下手へ>と牛たちとともに移動したロングドライブは、最後、ダンスンが上手から下手へマットを追って街にやって来て、二人の対決が始まる。マットとダンスンとの素手での殴り合い喧嘩となり、テスの発砲と馬車に二人が倒れ込むことで、旅のゴールを迎える。ラスト、新たな牧場の牛たちの焼印(ブランド)は、河の両サイドにDとMのイニシャルがつくことになる。

女性の役割が繰り返されるところも、この映画の面白さだ。母の形見のブレスレットがダンスンの恋人フェンの腕から、マットの恋人となるテスの腕へと移動し、好きになった男の旅に連れて行ってもらえない境遇が繰り返される。私は、コマンチ族に囲まれながらライフルで発砲しているテスの姿を見たとき、ダンスンの恋人だったフェンがまだ生きていたのかと一瞬錯覚した。コリーン・グレイとジョーン・ドルーの二人の女優はなんだか似ていたのだ。

ジョン・ウェインとモンゴメリー・クリフトの親子関係のような対立の構図。世代が入れ替わり、リーダーが交代する。一方でお互いを認め合っている似たもの同士の構図。さらに恋人との似たような関係の描写の繰り返し。そんな対立と同調の関係と1万頭の牛たちの大移動とともに描いている運動の迫力がこの映画の魅力だ。勧善懲悪もののワンパターンになっていない西部劇として、記憶に残る作品となった。

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