クドカン話題のテレビドラマ『不適切にもほどがある!』「宮藤さんに言ってもしょうがないんですけど!」だけど面白いです。

 ちょっと遅れてるけれど『不適切にもほどがある!』を見ていて思ったことを書いてみます。過去の話と現在の話なので、思いっきり過去に飛んでみました。

 先史時代の洞窟の壁画はよく知られています。ラスコー洞窟壁画はかなり人気があります。レプリカがつくられてそれの展覧会が科学博物館でみられました。たくさんのファンの皆さんが駆け付けたようです。
 それを見て古臭くてつまんないって思う人はまず誰もいない。誰もが魅せられてしばしたたずんでしまう。
 人気があるからといって、その理由を、そういう壁画についてその「情報量」を計算することによって理解するというのは、だれでもバカげているとは思はないけどそういうのは関係ないと思うだろう。
 そうでもないか、研究というのはやってみなけりゃわかんないもんだしね。ビックリするような発見というのもある。この絵が発見されたというようなこともそうだ。

 何が言いたいのかというと、壁画そのものに意味や価値があるというのではなく、それを見ている側の方の人にその絵の「価値」を感じている何かがある。見てる人は普通はそんな感じになるだろう。文明人も原始人もここでは同じ人になっている。博物館かなにかでその壁画を見ているひとは、いつの間にか、まるでその絵を見ている原始人になっているかのように自分で無意識的に原始人を演じているかのような気分になっているかもしれない。もちろん、それを描いていた人たちは、楽しんでみていた人たちは、当然今はいないけれど、まるでそこにいる感じがするから、たぶん見ているひとは、同時に、その人たちを演じているような気分になるのだろう。時を超えてそこにはいいものがあるというわけだ。
 
 ここで気を付けてみなくてはならないことは、そのいいもの、は客観的に存在するものではなくて、今ここにいる人がそう感じているということによって、ここに存在するということなのだ。
 ここには、ひとの演じることの真実がある。何かが存在するためには演じているみたいなことが起きているようだ。これはある種の対話であり議論ではない。二人称的なもの、心の中でのダイアローグである。

 『不適切にもほどがある!』はとっても良かったと思います。クドカンのテレビドラマ『不適切にもほどがある!』のどこがおもしろいのかなと考えると今の社会のどこがつまんないのかなというとこへ考えは向いていくようで、どうもそういう作りになっている。
 「不適切」という言葉が今は何か日常的で、何が問題にされているのかというのはなんとなくわかる。「不適切」という言葉は制度の言葉であるから、こういう言葉に代表されている制度のパワーが発動してしまうと、なにかいいもの、それへ続いていきそうなこと、そういうのが却下されて、そうなると、それとの軋轢があってもしょうがない。だれかそれを考えてみるやつはいないか、ということのようだ。阿部サダヲくん登場だ。
 軋轢がもたらしてくるいちばん大きいことは、気になる、いやになる、つまんない、ということである。
 ところが、制度の方の人たちは、つまんなくたってぜんぜん不都合ではないし、それがどうしましたか、問題ないでしょ。だよね。ああいやだ。
 
 「不適切」という言葉は議論の言葉である。それがどうかしましたか、でおしまい。対話というかダイアローグにならないので、何か演じることでそれを突破しようとしても相手にされない。
 
 なにかいいものが存在するには演じてみなければならなかったのであった。
 
 このドラマでは不都合な事実が起こることがわかっている。ところがそれとはまだ無関係な過去から来た登場人物がいる。この現在ではその人物はその現在時では不都合な良くないことが起こったことがあるのでホントはそこに存在しない。
 制度的には、文書的には、それでお終い。
 ところが時間を超えたところで、いいものをたずさえてある男がやって来たがある。何も特別なものは持ってはいないのだけど、それがどのくらいいいものであるのかを彼はそこで演じるのであった。
 
 単にフィクションの想像力といってしまえばそれでおしまいだが、想像するとは演じることだというところまでいくと話はだいぶ違ってくる。

 制度的な「不適切」という言葉に代表される議論の仕切るところのつまんない世界を変えるにはドラマを演じることで議論ではなくてダイアローグをすることでどうにかしましょうなのであった。そういうわけで、あのタモリが忌み嫌っていた、ミュージカルが、がぜん注目されるのであった。

 おもしろいことに、テレビドラマはテレビという制度の中のこれまた一つの制度だった。だから普通はテレビドラマ論はテレビに映る制度についてあれこれ言うことになることが多い。だから、このテレビドラマについて論じるというのは、昭和の制度と令和のそれの比較みたいなこと、流行っていたこと、タレントやファッション、グルメ、レジャー、会社や学校という制度の実際について何とかいうことになることも多い。
 ところが、テレビドラマはなにかを説明するのとは違う。ドラマはなにかを演じるのだから。説明するのであれば、その説明するなにかははじめからわかっているから、説明がわかりやすいか駄目だったかでしかない。

 ドラマはそういうものではない。そこにいいものがある。これがわかるかどうかということになる。こうなのでこれで突然わからなくなる。何が良かったんだろうか。それは人によって違うにきまっている。それでいいのだけれどそれだけではない。ドラマが成功かどうかは、まぁ普通は、見た人がいいと思ったことを他のある人に話してそれがダイアローグになるように広がっていければいいということになる。
 ケインズの乗数効果みたいな経済波及効果みたいに数値的に現れてくるもので考えるのだろう。まぁそれでいいといってもいい。でもそれだけだとうまくいかなかったときの理由はわからないままだろう。もちろん経済波及効果みたいに限定して調査すればかなりのことは合わるだろう。マーケティングと同じだ。いいものとは何だということが調査で現物としてわかる。ヒット商品だ。こうしてまた初めに戻ってきた。先史時代の洞窟の壁画だ。あれはヒット商品なんだよね。
 
 ドラマはそれを演じる俳優の演技であるよりも、経済効果みたいな、見た人が他の人にいいと思ったことを話していく、次々につながっていく見た人のする「演技」の連鎖の方が重要なのである。ヒット商品も老舗の名品も同じで、そこにいいものがあるということなのだ。それを存在させる演じることの連鎖のあること。
 何かよきものを存在させる演じることのつながり、集団的想像力が動き出すこと。

 このドラマでは時間旅行ができるので過去と未来のつながりのあることが切実にわかるつくりになっている。現在直面している問題を考える時に、政府の官僚や政治家、インフルエンサーや企業家たちを支配しているのは新しい考えではなくて何十年もたった古い思想を根拠にしていることがほとんどである。昭和の古い思想がいま現在どうなっていることとどう関係があるのかとか考えることは出来る。またある時代のある場所にいた人たちが何を期待していたか何を選択したのか、すべては時間の流れの中で生起する。いまだ生起しない将来の出来事との関係で人びとの選択は決まるほかない。ある行動を選択したならあとになって選択しなおすということはできないから人びとの期待というものはとても重要である。昭和のある時点で期待したこと。ひとの期待するということが良きものであるように。
 
 ここでは、最初の先史時代の洞窟の壁画とは違ったものがテーマになっている。いまだに存在しないものが期待ということによって存在に向かって歩き出す。それがその時にとっての未来の時点に飛んでそこで演じることになる。何しろこのテレビドラマはその未来の時点でつまり今の時点で作られているからそうなる。
 さて今演じられている演技によって存在するものは、いいものとは、果たして何なんだろうか。あの時の期待が向かった先が今ここにある。そういう作りになっているドラマだ。それが何だかあなたは言えますか。

  期待と制度の間には捻じれた関係が必ず生じます。制度の方に立つ人は、つまり権力を持つ方近い方では、期待することはあまり意味のあることには見えてきません。
 その人なりの、個人は個人の能力にしたがってその人の選択は合理的におこなわれるのが望ましいと考えます。というかそう仮定してかかる。
 制度設計をする側では、こどもじゃあるまいしみんなオトナなんだから各個人はつねに合理的に行動し自分自身で最適な選択をおこなうに決まってると仮定してしまいます。そういう前提の下でなら、選択は合理性により自動的に決まるように制度を作ることができると考えています。
 ところが、未来に何が起こるかなんてわからない。不確実でどうなるのかはわからないと感じている人間にとって期待することの意味はとても大きい。誰もがしあわせになりたいと思っている。そういう考え方は果たして合理的か?それぞれの人がそれぞれの能力に忠実に生きればそれなりに生きることは出来るでしょう。そういうふうに考えるのが制度というものだから、幸せというより退屈の平安さに満足するのが合理的というものだとする。というか、暗に要求してるのかもしれないですね。しかし、幸せという心が望むものが無視されてもいいということになると、生活はつまんなくなってしまう。言いたいことをいうのが難しくなり、何でもすぐに議論になってしまう。マニュアルそのままに決着はついて、ないも言うことがなくなってしまう。対話みたいな二人称的な関係ができなくなってしまいそうだ。
 どんな人でも、ふつうに人に会うときにはなんか少しは期待してしまう。自分も少しは期待されるようならいいなと思うだろう。ところが、制度が主になるときでは、何を期待されるかがあらかじめマニュアル的に決められている。というか、暗黙にはそうだと思っている。
 昭和から平成へさらに令和にかけて、社会のなかの組織はいろいろ技術的に進歩するので進歩しちゃうので、制度化は気がつく間もなくすすんでいく。もちろんその組織のなか人の行為が予測出来てハラスメントが起こらないというのはとても望ましいけれど、制度がつくられるときにはその組織の内部にいる人の意見より外部の有識者たちの制度をつくる専門家たちの委員会にまかされてしまうから、自分たちのことを運営することは外部任せにした方がより適切で客観的である。そういうことなので、内部にいる人が何かやってしまうとやらかすと「不適切にもほどがある!」ということになるのであるのだ。
 制度はそれに従うことを暗に要求してくるけれどそれはそれに従っていればいいだけで価値観のようなものには触れては来ない。だから人間そのものはたいして変わらないままでいられる。だから制度は意外とすんなりと受け入れられたりする。
 ところが、期待というのは違う。期待することでその人は変わることがある。というか、何か新しいことを期待しているのに同じままでいるのなら何か変だ。本気で何かを期待していると変わるのが普通なのだろう。
 たとえ良い制度であってもそれに従っているだけじゃ何か違う気がする。たいして変わりもせず退屈やつまんない生活は続いていく。やっぱり期待があった方がいいよ。それが何だかあなたは言えますか。
 思いもしない恐ろしいことは起こるので、起こってしまうので、それを知ってるとなんか切なくなりますね。

  制度と期待、あるいは、期待と制度。どこが違うのか。違う言葉でならどうなのか。制度は議論から、議論は意識から、出てきます。それとは違って、期待は、議論ではなく対話から、対話は意識ではなく存在から出てきます。人と人がすれ違うだけではなくなる。意識の外に出てしまい対話することになる。こういう感じなのかな。意識は意識で完結しなくなって記憶のテーマが対話を求めていくことになるからドラマが始められることになるのだろう。こういうことなんだ。
 意識は小説に親和的で制度は政治になる。それがメディアの発達にのってくると対話になりドラマに向かっていく。
 資本主義、科学、芸術、意識から始まる個人的な展開が、物語に演劇になって娯楽になってコミュニケーションの広がりが可視化されていく。個人の世界で完結するような資本主義の精神に揺さぶりをかけよう、単線的な時間の展開に外部から介入しよう。
 20世紀後半では異議申し立てとかのテーマだったが情報科学や情報のテクノロジーが爆発的に規模拡大していくと、場所のテーマや時間のテーマが回帰することができるんじゃないのかという感覚なのだろうか。
 いろんなテーマが見られるようになってきたのはたしかだ。制度は自由をまず排除する。制度となんか話そうとすると、まず文書に書いておいてください、となるのであった。ところが、制度の内部で、対話しようとする人向けの部署で、話を聞いてしまうと、自由を呼び込んでしまう。「宮藤さんに言ってもしょうがないんですけど」。言ってみようかな。

 実際世の中で制度によらないものなんかあるんだろうか。だから制度がもともと悪いものとは思えない。資本主義が悪いのだっといってみてもなんだかなぁ。制度をつくる人は外部の人で自由にデータや知識を集めて利用することのできる専門家さんたちだ。悪意があるはずがない。もちろん意識にあらわれない偏見はあるだろう。もちろん彼らは説明責任があるのでそういう偏見が指摘されればすぐに訂正するだろう。めんどくさいから辞めちゃう人もいるかもしれない。内側にいる人はその人たちどうしで対話するなりしてきたが、それがうまくいかないことが増えたからなのだろう。これが科学や技術開発であれば、内側の人たちに任せておくと気がついたらとんでもないことが起きていたなんてことがないとは言えない。古いタイプの近未来SFにありそうなマッドな専門家は怖いです。しかし、制度はよきものであるためには外部任せじゃダメな気がする。だから制度を先導するよきものがなければならない。それが期待ということになるのだけれど。しかし、期待は確実性とは全く違うものだ。だからこそ期待の意味がそこにある。なんだかまたわからなくなった。組織には明確な基準や目標があってその内部の人たちはその人に合った要求水準を意識してもらわなければならない。まわりに迷惑なことになるのは困るからお互いが触らぬ神に祟りなしなのか二人称的な対話はしないようになっていくのだろうか。なんてことないのに妄想の世界に足を踏み入れることもないわけじゃないしそんな気もする。それですごく困るというのでもない。私的な会話なしで物事が進むように出来ているのだと思い込んでいても問題はない。むしろそっち側に向って制度は改良変更されていくのだろう。なら問題ないじゃん。だけどつまんない。

  このテレビドラマではまだそれについてはわからないままだ。組織内ではほんの短い対話しかないからだ。だからどういう期待が生まれてくるのかはわからない。ただ制度は強力になっていくのはわかる。内部の人間たちが対話する機会はなかなかないようになっているのはわかる。しかたがないから、ミュージカルごっこ遊びができればいいのかもしれない。身振り手振りステップ踏んで踊りながら話してみたりすればいいのかな。変なこと妄想するならミュージカルごっこ遊びだ。

先史時代の洞窟の壁画は人気があって人がたくさん来てそれらの絵を見ています。その洞窟あたりに住んでいた人たちとまさか遺伝的な子孫はいないだろうけどまるで一緒のように見てる気分はわかります。そこの原始人たちとわたしたちの今の間にはいろんなことがあったでしょう。言葉にならない想像上の対話をしている。彼らの中の誰かとたった一日でも一緒にいてお話ができたらいいのだけど。ミュージカルごっこ遊び。そんなこと考えました。
 

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