ノーランの『オッペンハイマー』はちょっと見た限りでは日本ではあまり評判がよくないのはなぜ?

 ハイゼンベルグの部厚い伝記によると原子爆弾の問題は彼自身の個人的な動機の問題にかなり左右されていたように書かれている。ナチスの中での自分の位置をどうやって有利に出来るかということ。戦争モードが近づいていると愛国心のようなものが目立ってくる。しかし、このようなものは半分くらいはまわりが気になる偽善みたいなものだ。ナチスの中での科学者の問題は戦争でナチスにとどめが刺された跡では失われた記録などが多くてはっきりしたことはわからないようである。科学的好奇心、または名誉心、功利的な動機、愛国心、戦時下では戦争に勝つこと戦争遂行への援護になることなど。これらはかなり個人的動機や野心を刺激するだろう。こうして、蚊帳の中は満員になって倫理はたいてい蚊帳の外だ。とくにナチスの支配のもとでは倫理などは問題にならない。

 アゲアゲな気分に集団的な興奮状態、誰もがひとつの目標に集中して取り組んでいるという個人的競争より上位にある目的に一緒に取り組んでいること。ナチスに対抗して原爆を開発するという若い科学者たちの集団的熱狂はいつしか個人的な動機や判断を越えた最上位の目標の輝きに目がくらみそのとんでもない暴力性が見えなくなって解放された科学の力を自由に行使する時が来ていた。
 
 戦争の暴力の延長線上に原子爆弾の畏怖すら起こさせるまばゆいまでの閃光が見えた。また戦争の暴力は洗練されている技術的な成功と発展によって効率的な大量殺人が可能になってしまったという現実があった。倫理が止まってその関心が何処かにいってしまった間に物事は圧倒的に先へと進んでいたのだった。ホロコーストに反対する機会というかきっかけはあったのだろうか。ナチスにしても原子爆弾の実現にしても集団的なヒステリーといったものよりはじめには何か個人的な動機の方が大きかったような感じがしてならない。それだから次第に倫理が蚊帳の外にはみ出されて倫理的な意識は何一つとして重要な決定に加わることができなくなっていた。

 戦争に負けたドイツの側では、ナチスに協力したかどうかなどでドイツの物理学者たちの責任は定まっておわる。戦後は決着のしたことのその後のことばかりだから倫理が帰ってきて何かしたかというともうそれは終わってしまった後だったから責任問題は法的な処理に任せられる。戦後は経済問題と責任問題の法的処理のスキームでトラブルは対応されるようになった。もちろんそのどこかに倫理の席は用意されてはいる。しかし、個人的な動機の方はあえて可視化されずプライベートな問題として個人それぞれに任された。責任問題まで発展しないのであればスルーしてもらって構わない。仕方がないじゃん。問題は倫理が問われることになっても哲学的なものにとどまり痛みの感覚にはついにとどかないことだった。
 
 個人的な動機のすぐ近くに痛みの感覚がいるならばそれが内的な倫理の居場所を示すことができるのかもしれない。そこでなら倫理と出会える。つまり、わたしたちは個人的な動機のすぐ近くにいるさまざまな感覚が重要になってくるのを感じる。経済的な視界にはインセンティブとモチベーションしか入ってこないからそのすぐそばを探しても何も見つからないのだというだろう。内的な倫理の居場所はその次元とは直交している別の次元にあるのだろう。内的で個人的なものであるその倫理的なるものは小さくてコンパクトなものなのかもしれない。だからその影響力は小さくて幻想的なイメージでふくらませるのでなければ意識に上がってはこないのかもしれない。そのイメージの中を解像度を上げて可視化できるように近づけていかねばならないようである。社会的な現実が変化していくのと同時にひとりひとりのメンタリティもそれぞれ変化していったはずだ。ならば詳しく調査することができればそういうのが記録とか文化的な流行とかいろんな統計とかあればわかってくるのかもしれない。
 
 科学者が問題になっているので普通の一般の人とは違うのかもしれない。人と違うこと考えるのが科学者なわけで、もちろん先輩から徹底的に科学を仕込まれる人の方が圧倒的に多いのも事実だけど自分自身の意識としては革新的なことがやりたいという夢みたいなあこがれる心は持っているのが科学者というものだ。科学者たちは互いが互いに違っているのが当たり前という意識なので個人的な動機の方に偏ることが多いかもしれない。芸術家というほどではないにしろ。ジャズミュージシャンやロックミュージシャンになりそこなって科学者に転向なんてのもいるようだ。それもダメでまた舞い戻ったり。おそらくこういうような芸術家とにたイメージがあるので科学者と倫理意識とは結び付いて思われるのかもしれない。政治家や官僚、また投資家や起業家、ビジネスパーソンと倫理意識の関係なんかと違ってみられるのだろう。
 ドイツに戻って、ハイゼンベルグや彼の同僚たちについて考えると、ナチスの科学政策はきわめて馬鹿げたものにみえただろう。しかし反対するのも憚られる。おそらくこのことは案外多くのドイツ人たちに共通だったかもしれない。もともとあえて反対するようなことのしにくいような捻じれてしまったようなメンタリティになってしまっていたのかもしれない。人それぞれで違う感じ方をするのが当たり前ではあるけれどそれが気になってしまうのかもしれない。社会が短い間に急速に変わり人々に強烈な圧力を加えていたのかもしれない。思想や芸術、科学や産業、政治体制の変化、経済変動の動きであるとか、フランス革命からナポレオン戦争、ビスマルクの国家統一から第一次大戦の敗北からワイマール共和国。メンタリティの変動というか不安定な心理というのはありそうなことだ。ナチスが敗北して責任問題が浮上すればどういう態度をとるのがいいのかすぐに気がついてうまく立ち振る舞うだろう。ハイゼンベルグにはどうもそういう姑息な印象が付き纏うのは仕方のないことなのかもしれない。このことがハイゼンベルグを主役にした物語が出てこなかったことのもとにあるのかもしれない。戦後のドイツは日本なんかと違って戦争責任であるとかについて真摯な態度をとることで尊敬されてきた、などということが語られてきた。しかし事はそう単純なこと?ではなさそうだ。世界がきしんできて暴力が噴出してくるとどこに問題を見出していくのがいいかしだいにわからなくなっていく。どう解決するかではなく次に何がどういう問題がやってくるかの方に関心が行くようである。つまり、個人的な動機ではどうにもならないこと。ノーランの『オッペンハイマー』の応答であるようなハイゼンベルグのドキュメント番組か伝記映画が出てくればドイツの現在について何かが分かるだろうか。

 個人的な動機の問題はそれが他人とはなかなか共有することが難しいということである。また時代が複雑化していきそうなのでそれを評価する方法が見つからない。コスパだけ考えていればいいなんて時代はとうに終わってるといわれるだろう。個人的な動機の問題はすでにもう終わっているのだろうか。ならば問題は?もう到達しているのかもしれない。人口減少は確実なトレンドである。その根本にあるのは男女問わずそれは、非もて問題?まさしくこれは個人的な動機ではどうにもならないものだ。
 
 ここでははじめに倫理の問題を考えたのだった。というかそれが暗黙の目的だった。ここまで来てなんとなくわかったのは、倫理の問題は実は非もて問題にとても近いということなのかもしれない。
 個人的な動機には「倫理」は含まれることがまずない。倫理は正直でありたいとか誰かに対して思いやりを持てるようになりたいとか暴力的にならないようにしたいとか具体的にはそういうことである。個人的な動機だけからせめて気持ちの上ではそれから抜け出したい、そういう勇気があればすてきだなと思える。ということである。
 ちょっとむかしに流行った探偵小説で容疑者全員が犯人というのがあったけど、いまどきのお話には登場人物全員がクズから抜け出せなくて七転八倒するみたいのが、これって、お話じゃなくて現実だね。非もて問題は最先端問題で倫理問題です。

 現実に戻ると、科学もテクノロジーも組織に属してするものだ、バイオや創薬や情報テクノロジーの巨大な企業とか大学などの研究機関、また軍事施設での研究とか。それぞれの利益や目標、緩急者たち個人個人の動機や目標達成やら組織内部のそれぞれの目標がある。それらが勝手に暴走しないように個人的な動機に引っ張られ過ぎないようにコントロールされねばならない。しかしそれは自主的なひとりひとりの人間に任されるわけにはいかない。組織はもちろん内部に行動の基準や倫理規定を持たねばならないがそれだけでは済まないから外部に別の組織を作って組織そのものを監視して管理していかねばならない。したがって外部の専門家たちが外部の専門家もそれ以外の専門性にこだわらずに様々な分野のひとも含めた外部的な基準を設定なければならずそれらはさらに一般の人々にも開かれていなければならず常に説明責任を問われることに意識的であらねばならない。こうして、外部的な基準が大きな操作する力を持つので内部に属している人にとってはそういうことを問題にしないで済んでしまうようになった。
 というので、何か科学的な技術的な問題があるときには、外部的基準が活性化して、社会はそれにセンシティブな反応を見せる。問題によってはかなり敏感に反応したりするものだ。

 ノーランのオッペンハイマーの批評を眺めてみると特に日本では原爆を落としたことについての問題にセンシティブに敏感に反応してその話題が中心になっている。外部的な基準が作品そのものよりも作品を構成している特定の題材の扱い方に強く反応しているのがわかる。芸術作品のようなタイプの複雑に構成された映画であっても集められた素材の扱いに関心が傾いていく。科学や技術については、知れの効果が重大な問題を引き起こすこともあるので外部的な基準が特定の部分に反応するのはよくわかる。
 科学や技術では、分析的に得られた結果や実験結果の分析や評価を整合的に理解しやすいようにまとめた論文などが批評の対象にされるからそれでいいわけだが。
 ところが、映画などの芸術作品みたいな場合には一意的な判断を下すことが的外れになることが多い。オッペンハイマーに関係する資料を集めて関係者たちの中においてドラマを作るときになるべく正確な資料の分析や確定している様々な事実の評価を分析的に関係性を整合的に積み上げていくというようなある種の科学論文みたいな、一意的に解釈が安定するようなものでないような作品をあえて作るのが芸術的ということであったのだが、今はあまりそういうことは問題にされない。こういうことはリベラルな社会という考え方をする人についてはデフォルトなことなのかもしれない。センシティブな問題については敏感に反応して強力な批判をする。一意的な価値基準を持ち出してきて論争のモードに持ち込んでいく。

 こうしてわかるのは外部的な基準が捉える問題が優先されるか、それとも芸術的な内部的な意図や構成が問題とされるかで、評価がものすごく違ったものになりやすいということだった。最近の作品では是枝裕和監督の映画作品『怪物』がそういう問題になっていた。
 現代的なリベラリズムというのは洗練されていてセンシティブな問題にも曖昧さを残さないように解像度の高い一意的な答えを出せることが評価の基準になっている。アメリカ風の洗練された経済学的な思考法だ。分析的な思考ということ。

 一方で、芸術的な作品というものは曖昧さをむしろ方法としてつかい、一意的な見方をすることをその都度脱臼させるみたいにずらして見せたりする。何一つ固定的ではなくてそれぞれがそれぞれで流動しているとしか言いようのない世界とその中で起こるはっきりとした出来事から作品をつくる。

 世界をとことんまで分析して世界そのものとほとんど変わらない世界が構成できるという考え方がある。平たく言えばコンピュータで作れる世界は本物の世界と部分的な関心を満たすのであればほとんど変わらずとても効果的に物事が実行できる。最先端のコンピュータグラフィックスやオーディオビジュアル技術を活用した世界の再現技術はすごいものである。こっち側中心に作成される映画がある。こういうしかたでオッペンハイマーの人生の映画がつくられれば、少なくとも日本ではとても歓迎された映画になったのかもしれない。聞くところによるとクリストファー・ノーランはコンピュータグラフィックスやコンピューター技術が嫌いで使いたがらないそうである。
 とかく分析的で整合的で曖昧さがなくて一意的な印象がつくれることを好む人たちが社会の最上階にいてそれが主流なトレンドを創りだすとみられている。もちろんそのような技術が安心して誰にも開かれてしかも安価で解放されていくなら文句を言う方が間違っているだろう。
 しかし世界はそういうようなものではないと考えるなら、また違った見方をするようになるだろう。
 大雑把にいって世界の見方には二つの考えがあることがよく分かったのではないかといえる。最先端の技術に親和的で整合的で分析的なリベラルであるかどうかはともかくとして趣味的には自由なオタク的なそれでいてどっちかといえば合理的な考えを持つ人とそうでない人がいる。
 
 外部的な基準について意識的である、分析的に理解しようとするひと。内部的な直観に意識的なひと対象に自己同一化しようとするひと。 

 さらにこの先にはまた問題がある。それは、外部的な基準というものがその本来の対象とするものとは離れてしまって、「外部的な基準」みたいなものが恣意的に使われていってしまう。それは、はっきりとした対象を理性的な認識から得られる判断によって集団的にある考えられた標準的なルールに従って作られる「外部的な基準」とは似ても似つかない感情的な好き嫌いに支配されたものであったりする。

 情報科学的な分析的な思考法は単なるパターンの好き嫌いに重なって見えてしまうと恣意的に暴走していく。インターネットから得られる情報はオーディオビジュアルな感覚系を刺激する形に進歩していくから、文書や科学的な命題のようなロジック中心の記述から離れてもっぱらパターン中心になる。そうなると、プレゼンテーションの仕方によって、信頼性のある「外部的な基準」が不合理な規制に見えてしまったりすることに感染してしまうと困ったことになる。しかしもうこれは違う問題の世界かもしれない。「外部的な基準」の無根拠問題?とでもいえそうだ。

 これはまた別の機会に考えてみます。

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