ロジックの展開と物語の展開とどう違うのか。

 ロジックは動物としての人間に遺伝的につくりこまれている。物語はフィクションでロジックを簡単に超える展開をしてもそのことが想像力を刺激できれば興味深いものなれる。一方ではロジックは曖昧性がないし誰にとっても共通だ。ところが現実世界を描くにはロジックだけでは足りないというか世界があってのロジックだ。

 人間は自動機械とは違う。ところが、細部においてはどこもかしこも分子機械である。人間はひとりひとりみな違っているというのをそれぞれが独自の自動機械であるといってもおなじことになるのだろうか。いろいろ悩む自動機械というイメージは自閉症スペクトラム障害の人とかに当てはまったりする。いますごく関心を惹いている。魅力的に見えるようになったのだろうか。何を感じているのか何を考えているのかさっぱりわからないという自閉症スペクトラム障害のようなありかたがある種の解であるように見えることが結構あるようだ。コミュニケーションを最小化してそのまま進んで互いが互いの邪魔にならないで済むようなあえて摩擦をすり抜ける作法がそれが一番魅力的なのかもしれない。そういうことがある種の理想というのか理想の代わりとなるというのが啓蒙主義とか近代主義とかの代わりとするテクノロジーの無垢なる目標であること、それが望みうるもっともよい社会のイメージになるという逆説的なイメージ。社会はコミュニケーションの循環であるということの思いもよらない帰結なのだろうか。
 
 人間は時間を体験することで「想像的な旅すること」をする。空間についても同じことがいえる。自分のこどものころ何を思っていたのか思い出そうとすればおぼろげにも感じられることだ。人間は成長してこういうことから離れて具体的な選択肢に直面してそれを自分で決めなければならなくなることがある。自分を越えた力によって強制されることで済んだこともあった。その後に自分で決めることが要請されるのだがそれも終わりに近づいている。このときに案外重要なのは「想像的な旅すること」なのでいつまで経っても「子供っぽさ」が維持できないとよくないのだろう。いまではアニメを見るのをバカにする人はめったにいない。
 
 ロジックは関係する範囲の中で完結している。興味の外側は関係ない。これが技術が主導する仕事のあり方になっていく。キャリアを積む時間は技術の時間に追い抜かれるので新たに教育を受けてまた始めなければならない。人生の経験ということはバラバラになってまとまりがつかなくなってしまう。ところが物語はそういうことにはならない。ここで物語はロジックを越える。物語は経験や人生のまとまりを与えてくれる。もう大人になってるのに自分のバッグや持ち物にちいさなキャラクターの人形をつけているひとを見たときに不思議な気もしたがあれはちょっとしたシグナルなのかもしれないと感じたことがあった。物語の主人公は偶然によってほかの何か誰かと出会って自分の世界から連れ出されてしまうことで物語が面白くなる。あらかじめ考えられていることが自分の身に起こることになるときに主人公はどうするかロジックを使うか想像力を使うのか。偶然の出会いが何かを知らせてくれるのか。こうしていくつかの関係者が出ていくつかの見方ができる。ここからはロジックの出番でいくつかの展開する力の優劣が物語を導く。これでよろしいでしょうかともいかなくてまた偶然が出てくる。物語は内部に生まれる物語たちの争いを引き連れて終幕へと向かう。物語はこうして現実のモデルになっていく。これは長い時間である。昔は人生は短くて子供時代はすぐに過ぎ去って大人になっていった。いまは「想像的な旅すること」の長い時間がある。

 現実の世界を対象とした大きなモデルは大きな物語とか言われて現在は失効している。それは今どき社会に共通するような主題というかテーマみたいなものはどこにも見つからないというか見つかるはずがないと誰でも思うからだ。大多数の人は社会のなかでは普段はよくできたロジックに乗っているので物語はいらない。ところが個人的な想像力が自分の中の時間の展開を読みだしたりすると危ないところへ自分で行ってしまうことになりかねない。そのためにカジュアルなあるいはちょっと変わっているようないろんな物語がつねに生産されている。現実の個人に向けられた小さい物語がおびただしくつくられるのはこういうこともあるからかもしれない。

 誰にでも共通な環境がつくられていてときどきアップデートされたりしている。そこには中規模の生活する世界があって多くの人が自分のために動いている。それは一つの都市や地方の物語のようである。物語を生きる身体感覚があってそれが共通前提を取り込んでいく。そういう安定的な中規模の物語はその共通前提はそこのローカルな教育の場で語られるべきだがそうもいかない。教育は固定化したがるからかもしれない。中規模の物語があれば同じスケールのロジックが考えられ実装されることが求められる。政治とか経済はこのあたりになる。
 ロジックは推論のためのルールがあればデータを入力すれば動き出す。中規模の世界モデルを回せるだけの計算パワーが実現しつつあるので「それでいいのだ」かもしれないが「それでいいのだ」は実は物語を起動する。ところがその物語は対象を持っていないので、というのはそれは自動的に設定されるとされていたから、見つからないと物語が探しに出かける。物語は主人公が捕まるとデータを集めて入力して物語が起動する。つまり物語があってそれから主人公が動き出す。主人公がいてから物語が始まるのではないから主人公を演じる誰かは誰でも委縮しているみたいに見える。実は中規模の物語はいらないのかもしれない。東京都が東京の人間たちの物語を設定するみたいなことは非対称で鬱陶しいだけだ。まぁ行政にはそんな実力も実行力もないしやってる感見せているだけに過ぎないからやめたほうがいい。ロジックの展開と物語の展開とをごっちゃにしている癖というのがたしかにあるような気もする。固定化されていると思うとすぐに固定化から外される。流動していると感じるともうとどまっている。とはいえ最小限の時間はあるから行政はそれに応えなければ支持をうしなうようになるだろう。小さな政治がつくられていくのかもしれない。ここでなら心情倫理と責任倫理はそれほど乖離しないで済むかもしれない。物語とロジックの展開とが可視化され経験される可能性があると思えるかもしれない。こう思ってたのにこんなになっちゃった。ダメじゃんと普通に言えるようになれば日本にもにぎやかなざわめきも帰ってくるのかもしれない。最近は「かもしれない」のダークな面ばかり見させられていていやなことだが冷笑ばかりしていてもちっとも楽しくない。「かもしれない」には明るい面もあるはずなのでそこに期待しよう。ロジックの展開と物語の展開とがうまく同期できる小さな世界のこと。大きな世界の大き過ぎる同期は危険過ぎる。それは世界戦争にまで発展しそうだから怖い。大きな物語最新版に捕まらないようにしよう。「かもしれない」のダークサイドに落っこちてしまわないように『スターウォーズ』をまた見るとか。

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