人間と上位にあるもの。グルーミングから言語へ、その先?

 言葉というものがサルたちのよくやっているグルーミングから来たという説がある。ならば、言葉というものはグルーミングと共通な性質をもっていると考えてよいかもしれない。グルーミングをされると気持ちいい。猫でも犬でも飼ったことがある人ならすぐにわかるだろう。人間もそうだ。全身にいきわたる神経系が皮膚を通して撫でられるとそれが刺激されると気持ちがいいのだ。順位のある集団で暮らすサルたちは個体と個体の間に生じる緊張感や対立を解消するためにグルーミングをするようである。とくに緊張感は上位のサルに対して感じるであろうから自分がとても気持ち良いと感じられるグルーミングのやり方を上位のサルに対してすることが出来なくてはならない。つまり自分の相手に自己同一化することが出来るようにできればいいわけだ。自分の身体の反応のように自分が気持ちいいように同じく上位者も気持ちいいよくなるようにグルーミングができるわけだ。順位のある集団とグルーミングをすることが結びつく。
 ジャン・ジャック・ルソーは、他者と同一化するようにわれわれを駆り立てる感情が社会生活の起源にあるとみなした。他者と同一化するときは恐らく自己の上位者あるいは、あこがれや好意を持っているものを想像してみるのだろう。ならば、言葉というものにはそういう性質があるのかもしれない。こどもはヒーローやヒロインが大好きだしそれをまねる遊びをしている。自分があたかも上位者のように考えることをしてしまう。自分と違う人間のことを想像したところでその人物が理解できたわけではない。ところがその人物と自己同一化してしまう。想像上でその人物を演じるのだからそれはフィクションの想像力である。そうであるなら、言語の本質にはフィクションの想像力があるということになる。つまり、言葉はフィクションを表現することによって豊かな表現力や次第に事物を記述する正確さを上げていく形式-それは文字だーを進化させたのだろう。言葉は人間にとって上位にあるものから来るものなのだろう。聖書にあるようにはじめに言葉があったのである。言葉は神とともにあった。

 このことがわれわれを窮地に陥らせることもある。自分ではなく自分を自分の上位者であるかのように考えてしまうこと。それだけでは、自分の客観的な位置がどのようなところであるのか、自分にとって何が問題であるのか自分では考えるのが難しくなってしまう。上位者に従って考えるので集団はまとまりが出来て構造化していく。それはほかの集団を呑み込んで同化してより大きな集団を作ることが出来る。そして、いったん出来上がったヒエラルキーは上位者にとって合理的であるように人々の思考を支配していくので、より強固になって社会はそのヒエラルキー構造の変化がしにくくなっていく。ところがこのような上位者という存在は想像上のものに過ぎない。実際のそういうものとは違うし実際の方位に近いところにあるものも想像上の上位者にとってよいことを想像している。上の方があるいは中心がいつも不在になっている。
 また言語によってルールが記述できるようになるので、そのルールは洗練され複雑になって様々な行為を生成させさらに複雑なシステムを動かしていくことが出来るようになっていく。こんな感じのことをデヴィッド・グレーバーは解釈労働と呼んでいる。それはもともとからある原始的な言葉の性質だったのかもしれない。それだから自己認識よりも自己承認を求めたがるのだ。
 もう一つ大きな問題があってそれは合理性ということだ。いまの社会では上位にいけばいくほど合理性に自己同一化していく傾向がある。合理性は人間にとっての最上位に位置しつつあるのかもしれない。それは、保守であるとかリベラルであるとかいう価値観というか上位のそれぞれの理想みたいなものを古臭くて廃棄してしまおうという感じが出てきている。この合理性というのは情報化した社会に特有の数値的な判断基準が一番有効な誰にでも接近可能なデータ分析に従って判断することが最も理性的だということで統計的なエビデンスなしでは相手にする必要がないというところまで行きそうだ。科学的な認識というものは基本的には潜在的な誤りでいずれ改訂されなくてはどこかおかしいというぐらいなのだけれどまるで上位にあるものであるかのように感じられてしまう。認識というものはそれ自身では正しいとか間違っているという価値判断とは無関係で基本的にはフラットなものだ。崇拝みたいなことはもってのほかだ。
 それを使うことで何かをなすときには合理的ならいいとかそういうことに引っ張られてそれ以外の見方をする関係者たちを排除してしまうことの方が大きな間違いのもとになる可能性もあるということに意識的であるべきなのに。思想的な理想を廃棄してその代わりに数値的な記号的なシステムに変えることは決して間違いではないし数値的な計算が計算システムの進歩でかなり可能になってもいるから一概に否定されるのは馬鹿げている。ところがそれは実は古い思想的なものに支配されているのかもしれないこともある。元祖天才バカボンならぬ科学的思想の創始者天才デカルトは占星術をバカにしているのに自分の誕生日を知られることを気にしていた。自分の誕生日を知られることで自分の人生を計算されることを恐れていたというような話が伝えられている。合理性で判断できる物事の範囲は意外に狭いのでそれに自己同一化するのはいかがなものかなのだ。
 
 自分自身のことを表現することはむずかしい。環境の中での集団の中での
自分の位置を知ることは難しい。それは自分を含んでいるネットワーク構造をその上の流れを知ることが難しいということ、計算の難しさからくることでもある。しかしこのことはオスとメスの生殖の様式から考えるとまた違った見え方もできる。人間の場合では妊娠して子育てをするにはかなりのコストがかかる。それゆえ、男に比べて女の方が自分自身のことをよく考えることにぶつかることが多いだろう。女はおそらく男ほど解釈労働にはまることは少ないだろうと考えられるわけだ。女は上位者により気持ち良くなってほしいと思うよりも自分の難儀なことをどうにかしなくちゃと考えるからだ。フェミニズムのことはよく知らないがそれに可能性があることはこういうことからだけでもなんとなくわかる。

 エネルギー供給についても似たようなことが言えるのかもしれない。「上位」のエネルギーシステムがあってそれに自己同一化してしまう。ヒエラルキー構造的なネットワークでは事故や故障に脆弱で老朽化してくると停電に悩まされたりするとか。次第に意味のほとんどないコストに普通の生活者たちは悩まされるようになる。不特定多数の匿名性の世界ではこういうのを変えていくことが出来ない。巨大な経済や行政のパワーに支配されるままではうまくいかない。たとえば、民主主義はどんどんどんどんと機能不全になる。立派であればあるほど大きければ大きいほど上位にある何かに自己同一化することに魅力を感じてしまうという上位者と自分のあいだの関係性だけにーそれゆえ、孤独化していくー収斂してしまう。そういう孤独なあり方から変わらなければならなくなるだろう。上位者というなにものかのあり方が変わるということが起こるのかもしれない。つまり想像力の問題だ。
 
 最上位にあるものは自分の好みを意識化することもないのでルールなどは考えないで自由にプレイするだろう。それは決して出鱈目には見えない。というのは、ルール作りをするものたちは上位にあるもののことを想像して忖度してそれをつくるからだ。しかしいつかはそれを大きく逸脱する自由なプレイがなされるだろう。それに感動するだけの胆力も必要になるだろう。
 では自由なプレイヤーはどこから来る?どこにいる?それは、集団的なフィクションの想像力が活性化されるときだろう。まずは元気な活性化している集団がなければならない。
 
 人間は道具を使って可能性の範囲を拡張してきたからそのことについて新たに考えてみる。たった一人で使う道具もあるが二人以上で使う道具もある。道具なしでも二人で何かをすることがある。思いものを持ち上げるとか長いものを運ぶとか。このときには互いが互いの道具であるようなものだ。協力することとは相手の意思を理解して相手に合わせて道具になったかのように行為することが出来るということだ。この時は相手に対して、一歩下がって、相手を尊重して、つまり今までの言葉でいうと、相手を上位者と思って、相手に自己同一化して、協力するということだ。この二人からなる集団は元気で活性化している楽しい集団になるだろう。

 生き残っている先住民たちの集団は一人で自由にふるまうときと互いに尊重しながら二人でふるまうときのモードの組み合わせをうまくマネジメントすることで成り立っているのかもしれない。ひとりで自由に舞を踊るのと二人三人であるいはもっと多人数で絶妙なバランスでダンスする。身振りをそっくりまねること、演じること、演技すること。これが小さな集団を維持していくこと、道具をうまく使ってあるいは集団で協調して可能性を拡げていくことの始まりになるのだろう。それはこどもからおとなまでおとこもおんなも緩やかにまとまり合ってさまざまな関係性を創りだすことを可能にしてきたのかもしれない。

 巨大な力を持つテクノロジーも精密なコントロールを可能にする情報のテクノロジーによってそれを分散化して小さな集団にうまくマッチングするように出来るかもしれない。情報のテクノロジーはコピーが自由だ。このとき、道具とは分散化された知識のシステムのまとまりのことになるだろうから自由にコピーできれば誰かが出てきてそれをうまく使いこなすやり方を見つけるだろう。そしてそれもコピーされていく。それらを使って二人三人で協調して物事をなしとげていく。ひとりのひとはまとまった個人情報として知識やスキルのまとまりとして道具のように参照されるのかもしれない。さまざまな協調関係によって小さな集団がつくられてそれらが連携して互いが互いを尊重しながら活動するがうまくできれば複雑なことにでも対処できるようになれるかもしれない。しかも小集団で。

 わたしたちは上位にあるものから自由になることは出来ない。こどものころのヒーローやらヒロインに自己同一化するアソビなしではどうなっていくのか想像もつかない。労働者なのに上位の経営者や支配層のカリスマに自己同一化することもなくならないだろう。大谷翔平君のマネをツイしてしまう中高年のオヤジたちもいる。テクノロジーによって労働は孤立化していくことの方が多いだろう。そうして自分自身の置かれた状況に無頓着な労働者も増えていくかもしれない。ふたりぐみやさんにんぐみのキャラクターたちの出てくるエンターテイメント作品は一人のキャラクターの作品に置き換わっていくかもしれない。別にそれが悪いことだともいえない。テクノロジーに適応しながらまた別なことをプレイするキャラクターも期待できる。
 わたしたちの上位にはいつでもすでに言葉がありまた社会がありその中にひとは生まれてくる。そして、グルーミングをしてもらうのだ。

  あいかわらず問題は想像力だ。オスとメスでは、その想像力は違うだろう。進化生物学とか進化生態学とかの考え方をすればそうなる。
 オスは卵に比べて安上がりの小さい精子をたくさん撒き散らせることでゲームをするから単なる仕様書だけあればよい。つまり、オスの想像力は超越的だ。ところが、メスはそういうわけにはいかない。哺乳類では長い妊娠期間がある。赤ん坊を生んで育てなくてはならないから手間がオスに比べて膨大にかかる。単純化してしまうと、オスは射精するだけ。メスは自分自身の身体とケアする能力と持続的な現実的な行動をしていかなければならないので、内在的な想像力が必要だ。
 こういうことなので、オスというものは自分にとっての上位者に自己同一化することになる。人間の男は自分を支配しているような存在を想像力を使って理解しようとしてその存在の利益にかなうような行動をしてしまうのかもしれない。想像力が権力に従うから超越的なトップダウンな想像力を意識している。「解釈労働」で生きているから彼らは社会を構成しているという自負があるわけだ。こうして、人間のオスたちは、メスたちが生きものたちをケアするように、資本主義の現場で生産過程の一部になってそれをケアするのである。生きものではなく、メカニズムやシステムや官僚制をケアする。国家や資本主義は、国民国家がそうであったような素晴らしい指導者や豊かな国と共同意識といったフィクションをもはや必要としない技術的な段階に入ってきている。仕事は超高性能でキラキラのハイテクのコンピューターでひとりでするものに変わっていき共通の目標とか仲間意識を持とうとも仕事のスタイルがもはやそうした幻想を維持することさえ無駄なことだと排除するだろう。そうすると評価基準は「いかにクリエイティブ」であるかなので、かつての狂気じみたところすら許容する芸術家のようなクリエイティブな人間に自己同一化しようとするかもしれない。
 共同意識に変わって他人の視線にかなり敏感になって内容のない奇妙な仕事が増えていくだろう。おかしなことだが、そういうタイプの仕事を集団でする組織が増えていくのである。なにがクリエイティブかを評価することを評価するための仕事を集団で行うわけだ。仕事が一人のスタイルになるので、カリスマ的ヒーローやら魔法やらロマンスやらが流行り、逆説的だがそういうのがみんなの関心のまとになる。まぁ内輪でなかよくするためにいい学歴や立派な血統が好まれるのだ。本や映画やテレビにインターネットで一日のうちの数時間を過ごすことで、世界を、権力者の、あるいは、クリエイティブなカリスマの、または軍人や警察の観点からみるのである。こういうことに近いことがあるなら、進化生物学が説くところの性選択みたいなことが起こっているのかもしれない。クジャクの尾ばねやシカやヤギのとても合理的とは言えないほど大き過ぎるつのみたいなものが進化するというのだ。

 しかし問題は、順位の社会では暴力が基本的だということ、サルは上位者が怖いからしたがう。これは人間も同じだともいえる。暴力の問題はどうすればいいのだろう。最上位にあるものは自由気ままにふるまう。時にそれはかなりな暴力性をともなうこともある。また下位にあるものたちのことなど普通は考えないから汚い印象を与えるものや自分と関係ない無駄に見えるものに向って何をするのかわからない。暴力的に排除したり壊したりしてしまうかもしれないからこういうことは問題になるが上位者に自己同一化するものたちがそういうがさつで野蛮に見えることを洗練させてエレガントにすら見えるものに変えていくだろう。しかしその本質は変わることはないだろう。理性的で科学的で洗練された説明に酔ってしまう。社会の中では、自由なのか平等なのか民主的か権威的か許容されてしかるべき暴力とは何であるのか、そういうのがわからなくなってしまう。

 暴力の問題を扱うのは最近ではエンターテイメント作品である。クリストファー・ノーランのヒーローもの、最近彼はオッペンハイマーの映画を作った。核兵器とは最高に洗練された暴力の表現であるということなのだろうか。もはや、核廃絶というのは庶民にとってさえ現実的じゃないのか。ヒロシマはパールハーバーと姉妹になった。上位者がさらに上位者に向かうと暴力は消えるのか。仏陀というのはそういう存在だ。しかしスーパーヒーローとはとても言えない。ベルトリッチは『ラストエンペラー』のあとで『リトルブッダ』を撮ったっけ。仕事も生活も個人化していくなら仏陀は希望のひとつなのかなとは思う。最上位者、天上天下唯我独尊だもんね。
 エンターテインメント産業の想像力はゲームみたいに暴力的でたとえブッダの教えの崇拝者もいずれはエコテロリストになるしかないというお話に行き着くのかもしれない。
 
 グローバル化する生産システムを考えると、暴力を介さないで作られるよい大衆的なブランド商品は可能なんだろうかなんて思う。世界を席巻するよい商品はそのブランドイメージを通して暴力的な印象とは全く真逆のフィクションを与える。資本主義は世界を視野に入れる。それは暴力性をともなう。法の秩序であれ暴力なしには機能しないからだ。生産の現場は強力な秩序を必要とする。よい商品美しい商品は中途半端では完成しない。最高の演技者は暴力的な指導から生まれてきた。だから私たちは中途半端なものを想像力で補うことで満足することを覚えなければダメなのだろう。こどもたちが自然にしているような楽しい競争を越えてしまう時点について意識的であるべきなのだろう。グローバル市場を席巻するよい商品美しい商品には税金をたくさんかけるほうがいいのかもしれない。

 一人で生きることが技術的に可能になっていくと、自己愛や自己嫌悪のあいだをふらつくようになる気がする。安定的であるためにはどこか外側につながりがある方がいい。それは金銭でよいかどうかは懐疑的であるだろう。資本というものが変化して新しい機能を付け加えることになればそういうことは解消されるだろうか。人と人をつなげるはたらきを資本がするようになるということ。それは労働というような付加価値というようなタイプの価値を生産するということとは違うだろう。資本が集まっていくように人が資本のような性格を持つことだろうか。人のできることと資産価値?デジタル資本主義と金融資本主義。ネットワーク構造の中での自由度。ネットワーク構造は機能中心に出来ているようだと思っているかもしれないが、実際はそうでもなくて、何せ人間関係なのだから、趣味とか相性とか一緒に遊んで楽しいことのようなことが大きいので、そうでなければ続かないだろう。
 むしろそっちの方が主になるのかもしれない。大人という側面、仕事の効率やスキルといったこと、スペックのことだね、と子どもの側面、一緒に遊んだりすること、命令系統とか順位とかが一時的に解除することで思いっきり楽しむことを知ってること。こどもは人種や身分や性別とかあまり気にしないで遊ぶことが出る。こういうことが出来ること。
 そういうことも人的資本の大きな部分を形成するようになるかもしれない。個人に任せられる仕事は厳密にルールに従ってそれなりの品質が要求される。しかしそれだけではクリエイティブな人間だとは思われない。仕事の場面でも遊びの精神がなければいけない。チャーミングであらねばならないというつもりはないが、それをわかって喜べるくらいでなければつまんない人だと思われてしまう。そんな人いるかって?案外いるものかもしれない。ただそういう感じが堅苦しさとほぼ同じな評価基準にまったく入ってなくてむしろ排除されてきたからなのかもしれない。
 いまの先進的な職場ではネコとかイヌとか、ペットとかを、ときにはこどもを連れてきていいみたいなところもあるそうだから、そういうような、ネコとかイヌとかこどもとか、みたいな感じの人だって大歓迎になるかもしれない。

 わたしたちの先進国の社会は経済的には決して余裕のないところではない。むかしケインズが言ったようなこと。「百年後の世界、2030年ごろの世界には、人びとの生活は経済的にみて、どのような水準になっていると予想できるのだろうか。孫の世代の経済的可能性は、合理的にみて、どのように考えられるだろうか。」という問いに対してケインズは「百年以内に経済的な問題は解決するか、少なくとも近く解決するとみられるようになるといえる」と答える。技術的には解決できるという問題をちゃんと解決するかどうかは人間が何を思うか考えるかである。ケインズの予想がいまだにやってこないのは、そういうことなのかもしれない。

  技術的可能性を受け入れることはどうなることかというのはそれをどう考えるかによって決まる。AIによってなくなる職業がある、というのは否定的にも肯定的にも考えられるだろう。失業して厳しい生活を強いられるというのが大方の予想のようである。しかし、労働から解放されて新たな課題と新たなる希望が生かせると考えることもできる。ケインズは、後者の可能性のことを言っていたのだと今では考えることが出来るのかもしれない。
 職場にネコやイヌを連れてきてあるいはこどももつれてきておうちにいるみたいなリラックスしながら仕事ができる。そうであるなら、ネコもイヌもこどもも、労働に参加して価値を創造していることになるんじゃないのかと思うことが出来る。むしろ、この創造というのはこっちの字の想像なのかもしれない。わたしたちには必要な想像力が足りないのだ。人は上位にあるものに自己同一化するといった。ネコもイヌもこどもも交えた労働というのは動物と話したり出来る天使や神や、アッシジの聖フランチェスカは鳥と話したとかいうのじゃなかったかな。
 より自由により多彩に世界を受け入れることが出来ること、そういう上位者を考えることが出来て、したがってそういう存在に自己同一化すること。ケインズの時代は機械文明の転換点で、蒸気機関が内燃機関になり扱いやすくなり、たとえば、自動車のように機械的なメカニズムを個人向けにすることが出来るようになった。自転車もそうだな。自由度が増えた。そうなれば生活も行動の様式も変わる。進歩した自動運転できるまた運転者の欲求をうまくコーディネートできるAI制御のどでかいバイクなら若い女性もおばあちゃんも乗ることが出来るだろう。それは楽しいことに違いない。生活の中に新たな楽しみが生まれるということは新たな価値が想像ー創造されたということなので、経済が発展することである。それは新たな職業を生み雇用を増大させ時間的余裕も生まれるはずだ。
 テクノロジーの発展はこのように個人化することに向かうのなら、大きなシステムに依存する形の労働からわたしたちを解放することに向かうかもしれない。ビッグテックが支配してるようなことが標準化されパッケージ化され、小さな集団ででもできるようになる可能性は大いにあるだろう。
 それは、ビッグテックがあまりに大きすぎてあまりに膨大な人々の個人的な嗜好や希望を平準化することで失われてしまう人と人との互いに補い合う関係性の価値が小さなまとまりへと転換していくことでそういうのが生きるようになるだろう。テクノロジーは、標準化することで大勢の人たちにその可能性に近づくことを可能にする。また少数の人に特化していくこともできるので行き過ぎた平準化から解放されるだろう。 

 あるところから見ていると効率的でなく無意味な無駄や習慣に支配されているようだけれど別のところに行ってみればまた違う展望もある。さぁどうだろう。ケインズはいろいろな楽しみを知っていてまたそれについて悩み考えていたらしい。もうそろそろ寝るかな。眠くなっちゃった。悪夢は飽きたけれどまた悪夢かな。

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