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産廃で苦しんだ豊島がゼロ・ウェイスト宣言に至らなかった2003年

豊島(てしま/瀬戸内海)の産廃事件をきっかけとして、リサイクル法が誕生し様々な法整備が進み、社会通念は変化してきました。

国際環境NGO団体グリーンピースが、豊島からゼロ・ダイオキシンキャンペーンを行ったのは1996年。2000年に公害調停が成立し、豊島の産廃処理が始まりました。産業廃棄物の不法投棄に苦しめられた豊島は「環境の学びの島へ」というスローガンを掲げました。

グリーンピースが各地で「ゼロ・ウェイスト」政策を提言していく中、2003年徳島県上勝町が日本で初めて「ゼロ・ウェイスト宣言」を採択しました。豊島事件で学びを深めた人たちが、上勝町での実践のために移ったと聞きました。

上勝町のゼロ・ウェイストは、9/23のJ-WAVEでも取り上げられていました。何代目かのPRスピーカー、移住者による先進的な取り組みの話と個人史が織り交ぜて語られました。流暢な語りに、ふと思ったのです。町民1500人で高齢者率54%以上の町に、どれだけの移住者がいるのか。ゼロ・ウェイストは民意なのか。一部の人たちによる看板政策かもしれないと。なぜなら、豊島事件を追いかけていると「島民は一枚岩ではなかった」と島外から豊島事件を支援した人々によって度々発っせられた言葉があるからです。あるいは島民から「いつまでも産廃と言っていたら食えない」と、インタビューアーに向けた怒りを含んだ言葉も投げかけられました。

上勝町のゼロ・ウェイストを、同質に扱うメディア。検索では見えない町民の思いや軋轢があったかもしれない。視察というビジネスモデルは成功かもしれないけれど、達成率80%という現状を100%へあと数年で移行させるという宣言に疲弊はないのか。

豊島はなぜ、ゼロ・ウェイスト宣言に至らなかったのか。


進的な取り組みをしていた徳島県の上勝町が2003年に日本ではじめて2020年を目標にごみをゼロにしていく「ゼロ・ウェイスト宣言」を採択



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