表現者と体現者

自分を体現したいと思えば思うほど、既存のジャンルに縛られたくないと思うのだろうか。

表現したい種類がありすぎると、ひとつのジャンルでは言いきれず複雑になっていく。

ここで言う「表現」と「体現」とは

表現…主観的な感情を、客観的な形に変えること

体現…表現より、もっと己についての思想や思念などの抽象的な部分、自分の核についてを伝えるために、己自身を使ってあらわすこと

ここでの「形」とは

…音楽、絵、写真、陶芸、ダンス、小説、漫画、ドラマ、などの芸術作品

表現には表情や身振り手振り、態度なども含まれるが今回は“作品”に限った話をしよう。


それら(作品)のほとんどは、“きっかけ”や“考え”、“感情”など、作者の主観が意匠され変換されて排出されたものである。

作者の主観は作品の密度を高くするものだとも言えるが、
そもそも見ず知らずの人の主観をそういった芸術作品で表すということは、他者から他者へ言語化するには難しい心情を、視覚や聴覚的に「受け入れやすくするための形」に過ぎない。

芸術に置き換えて、美しさ、心地良さ、気持ち悪さ、恐怖、興味などを、モノに付随させ他者の感性に響かせていく。
“そう感じさせるように作っていく”


それが“作品で表現する”ということではないか。


だが、結果(感動)は伝わっても経緯(作者の思想や観念的な部分)は正しく第三者に伝わりずらい。

表現は容易いが体現は難しい。

核を表現することに徹底するにつれてどんどん伝わりにくくなる。

わかりやすい、伝わりやすい、感動しやすいものが共感の連鎖を生み、ブレイクしやすいのだ。


作品を創る過程を楽しむだけなら全く問題ないのだが
思想や理念、考え方など、メッセージ性はなくとも己自身に興味を持たれたいなら大変コスパが悪い。

結局のところ、言葉や行動が1番伝わりやすいということ。

たまに結末が曖昧なドラマや、理解し難い現代美術の作品に対して

語らない方がかっこいい。
正解がない方が楽しめる。
敢えて言わないから違う感じ方をして欲しい。

とコメントされることが少なくないがそれらは作品を尊重した意見であって、
作家を尊重するなら是非語って欲しいところではある。

もちろんどちらが正解というのは無いが、
作者の追求は、表現ではなく体現になるのではないか。

自分を語る痛い人間から「1人のキャラクター」と成した瞬間、どれだけ生々しく、痛々しく、大口叩こうが、汚い思考だろうが、(一定の礼儀やマナーはあれど)そのキャラクターに魅せられたファンやリスナーが傍にいてくれる以上、途端に受け入れてもらいやすくなる。

キャラクターというのは、皆が共通してイメージできる像であり、そこに2次元か3次元かは関係ない。

キャラクターは作品として扱えると思う。

こう在りたい自分をまず外見に集中させたもの。
どう見られたいか、どう感じられたいか。
これが表現者。

そのキャラクターを使った思想の発信、オリジナルの追求、外見ではなく、自分の頭の中に興味を持って貰えるような広報活動。
これが体現者。

と考える。

表現者は、生み出す作品の系統が定まっているためジャンル分けしやすいが、
体現者は枠に囚われずにやりたいこと、言いたいことに開放的になりたいので今自分が名乗っていた役職に違和感や疑問を持ち始める。

名乗るジャンルによって見られ方やイメージの抱かれ方が違う。今ある言葉では計りにくい。

どちらにせよアーティストというカテゴリーに分類されるが、所属してる役職が基準となっているため少しでも追求した発言を残すと指を刺されやすい世の中である。
言葉の発信とは非常にデリケートな分、影響力がなければただの痛いままで終わってしまう、活動に活かしづらい分野なのだ。



小さな体現者は保守と主張の境目でうずうずしている。


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