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はじめての「ボク」にまつわる考察

はじめての「ボク」

ご縁をいただき、雑誌「星々vol.3」に寄稿させていただくことになりました。
そして「ボク」が主人公の作品を書きました。

「ボク」が主人公の作品なんてめずらしくはありませんよね。
とはいえ、それを主語にして作品を書くことは、私にははじめての経験でした。
ちょっとした跳躍でした。
小川を飛び越える時の感覚に似ていました。

そんな、はじめて「ボク」を使った小説を書いた初心者の書き手の、小さな気付きについてあれこれ、書いてみたいと思います。

小川の岸に佇む

子どもの私が小川の側に立っている。
小川の向こうには青々とした稲の生えそろった田んぼが広がっている。稲を撫でながら渡ってきた風が、お構いなしに私の髪もくしゃくしゃと撫でていく。若い稲の、独特の青い香りがする。空が広い。
小川の水面は力強く綾模様を描き、豊かに勢いよく流れて田に水を供給している。両岸には青々とクローバーが茂り、微かに湿り気を帯びてひんやりと心地よい。
向こう側のことは知っている。
遮るものはない。こちら側からも見えるし、少し離れたところに架かる橋を渡れば行ける。実際に何度も行っている。

けれども、私はその小川を飛び越えたことがない。
とはいえ、飛び越えている友だちも何人かいる。
私にもできないことはないはずだ。
でも、あの子は運動が得意だ。
向こう岸に足が届かないことはないと思う。でも、うまく着地できないかもしれない。足をくじいてしまうかもしれない。
そんなことには興味がない子もいる。
川の向こう側だからって、生えている草も木も大して変わらない。特別なものはない。向こう側に行きたいなら橋がある。
そうだ。わざわざ危険を冒すことはない。
それなのに。
私は自分の中を覗き込む。
私は閉塞感を感じている。
こちら側で遊ぶことも楽しい。楽しかった。いつからだろうか、こちら側に閉じ込められているような、微かな息苦しさを感じるのだ。
私はさらに夢想する。
この小川を飛び越えるときの気持ちはどんなだろう。体の躍動はどんなだろう。この閉塞感など吹き飛ぶはずだ。あたりにある物は同じだけれど、こちら側から眺めるのとあちら側から眺めるのとでは、まったく違って見えるんじゃないだろうか。

少しの自己否定と不安とあこがれ。
それらがないまぜになって私を動揺させる。

これが今回の作品のイメージを掴む前までの私でした。

主語が「私」だった理由

これまで主語に「私」を選んでいたのには、いくつか理由があると思います。思います、と書いたのは、そんなに意図的に選んだという感覚がないからです。どのルートから進もうとしても、どうしても「私」に至ってしまう、そんな感覚でした。

はじめての小説は、ファンタジーにするつもりでした。当時の私は長い会社員生活に一区切りをつけて、心身を癒しながらのんびりと短歌や俳句を詠んでいました。会社という仕組みに過剰に適応して押し殺していた自分を解きほぐしていました。解放感と自由を味わっていました。ファンタジーがいいと思いました。ほんの短い動画のようなイメージも浮かんでいました。微かなトキメキを感じました。だから、それを温めて眺めていたら、自然と育っていって、そして作品が書けると思っていました。

けれども、そのイメージを取り出して眺めていると、別のイメージがよぎります。それは、会社員時代の様々な思い出やその時の気持ちです。楽しい思い出ももちろんあります。でも主に思い出すのは、失敗や誤解にまつわる苦い記憶や、頑張っても報われない孤独感や無力感です。気が付いてまた、小説のイメージに集中しようとするのですが、そのイメージが持つ微かなトキメキは、たちまち過去の苦い記憶にかき消されてしまいます。その感情があまりに生々しく臨場感があって、すぐに私をとらえてしまいます。
それはまるで、荒れ地で野菜を育てるようなものでした。
当然のことでした。
少しずつ手入れをして、以前よりずっとよくなっていたとはいえ、長らく捨て置かれていた私の土地は、畑と呼ぶにはまだ荒れていました。野菜を育てるほどには整っていませんでした。雑草や石を取り除き、深く耕す必要がありました。それは、しんどくてできたら避けたいけれど、避けては通れない工程でした。

でも少しはマシになっていたからこそ、偶然ではあるけれど、このタイミングで小説を書く決意ができたのだと思います。
避けては通れないことなのだと、腹をくくりました。それで、フィクションではあるけれど、繰り返し浮かんでくる子どもの頃の思い出や会社員時代の記憶を追体験し、とらえ直す物語を書くことに決めました。だから、主語は「私」以外に選択肢はありませんでした。三人称は、少し手触りが乾き過ぎている。私のために私の物語を見つけようとしたのでした。

今から思えばこれは、初期衝動というものだったのかもしれません。

もっと早ければ、とても耕す気になれなかったでしょう。実際にその一年前に吐き出すように書いた文章は、書いていて辛かったし作品にはなりそうもありませんでした。そしてたぶん、もっと後では、こんな風に臨場感を持って深く再体験、再構築できなかったでしょう。結局のところなにごとも、なるようになっているのでしょう。

小川を飛び越える

「私」が主語の二作品を書き終えて、気付けば私の土地は、畑と呼んでいいものになっていました。雑草や石はあらかた取り除かれ、深く耕された土は空気を含んで柔らかく豊かになっていました。台風の後の空みたいに、そこはぽかんと開けていました。
想定外に寄稿依頼をいただき、また小説を書くことに決めた時、その空間にはもう、過去の思い出は浮かんできませんでした。その空間は軽やかで、雑草は似合わないようでした。好きな花や野菜を育てられるし、そのことを楽しんでいいんだ、というあたりまえのことに気が付いた時、元同僚の男性のことが思い浮かびました。
カピバラに似ているなと思っていました。ちょっと頼りないけれどなんだか憎めなくて、お客様や先輩に可愛がられる青年でした。そして、さわやかに自分のことをあきらめていて、自分はダメだという自信を持っているのでした。その独特の感性に、私は興味を持っていました。
もはや彼と話す機会はないけれど、彼と似たような性質を他の青年たちにも感じていて、彼らがどんな世界で生きていて、そしてどう感じるのか考察してみたいと思いました。
例えば、もし彼が不思議な映画館に迷い込んだとしたら。
風船がぷっくり膨らむように好奇心が湧いてきました。台風の後のような、この軽やかな空にピッタリだと思いました。

私は小川を跳躍していました。「私」の岸から「ボク」の岸へ。

今回の作品は、書き手も楽しんでいいんだ、と感じて書くことができました。書き手と「ボク」の小さな冒険を、一緒にお楽しみいただけたら嬉しいです。

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