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はじめての「ファンタジー」にまつわる考察

「ファンタジー」にはまだ早い

はじめての小説は、ファンタジーにするつもりでした。でも、私の中で生まれたイメージの種は、小さな芽を出したもののそれはほとんど育ちませんでした。
小説を書こうと決意することができた、ということは、荒れ果てていた私の畑もかなり整ってきたのだ、と楽観しました。それでも、ファンタジーの種をまくにはまだ早かったのでしょう。
とりあえず手あたり次第まいてみました。それで、まだ荒れた畑でも芽を出した種がありました。「私」を主人公にした実体験に基づく作品でした。もちろんフィクションではありますが、良くも悪くも生命力のあるこの種は、スクスクと、というわけにはいきませんでしたが、雑草と石の多い痩せた畑でも力強く根を張ってくれました。私も手探りではありますが彼らを育てようと努めました。その過程で畑も畑に育ったのだと感じています。

「ファンタジー」の種をまく

気が付くと目の前に、畑と呼んでも悪くはない土地が広がっていました。ところどころに雑草や小石は見られるものの、土は耕されて柔らかく、生命力を含んで豊かに湿っています。空は高く広く、遮るものなく陽光が降り注いでいます。私はそこにぼんやりと佇んでいました。

そんな時、想定外の寄稿依頼をいただきました。テーマは「映画」でした。

今ならいろいろな種が育ちそうでした。育てて良さそうでした。選択の余地がなかった以前に比べると、驚くほどの変化です。一方で、荒れ地でも力強く根を張る種は合わないような気がしました。それは寂しくもありましたが、また、どこかで出会えるような気もしました。
ふと、彼のことが思い浮かびました。元同僚の青年でした。カピバラに似ている、と私は密かに思っていました。ごく平凡な青年です。忘れっぽくて失敗が多く、課長や先輩によくお説教されていました。それでいて、なんとはない愛嬌があって可愛がられてもいました。私は彼の雰囲気が気になっていました。自信がないことに自信がある、とでもいうような独特の雰囲気が。同じような失敗を繰り返しては、同じようにお説教されていました。反抗的ではないのに、むしろ、素直に聞いているように見えるのに、決して届かないという絶望を感じる。彼の中には、自分に対する確信めいたあきらめのようなものがあるのでした。彼らは何年もそれを繰り返していました。彼とは挨拶する程度でした。もう会うこともないだろうけれど、彼はずっとあのままなのだろうか。それなりに幸せそうではあるけれど。

彼は映画を見るだろうか。
映画を見て、彼に少しでも変化は起こるだろうか。
もし、そうだとしたらどんな映画だろうか。

気が付くと、暗茶色の畑に若草色の小さな芽が顔をだしていました。

「ファンタジー」だからできること

たぶん、彼は映画はほとんど見ないだろうと思いました。見てもアクション娯楽作品でしょう。あくまで、だれかと一緒に楽しむ娯楽の一つで、それで、面白かったね、とか、イマイチだったね、とか感想を言ってそれでおしまいだろうと。
だからって強制的に、アカデミー賞級の感動作を見せたとしても、ピンときそうもありません。

そんな想像をしていると、なんだか自分がくどくどと彼にお説教していた課長みたいに思えてきて、少し気分が滅入ってきます。
私は彼を否定したいわけじゃない。矯正したいわけでもない。彼の世界に触れてみたいだけだ。そして、できたら、伝わっていたかは疑問だけれど、彼に愛情をもってお説教をしていた課長や先輩社員の想いを代表して、ほんの少しでも、彼の自信に満ちたあきらめを溶かしてみたい。少なくとも、そんなイメージだけでもつかんでみたい。
まったくもって自己満足もいいところなんだけれど。

それで、彼には不思議な映画館に通ってもらうことになりました。
ちょっと強引だけれど、彼にはこのくらいの仕組みが必要そうでした。そして、今、この畑でなら育つ気がしたし、育ててみたいと思いました。それを、自分に許すことができました。

はじめての「ファンタジー」

いわゆる異世界転生モノが盛り上がっている昨今、勇者もいない魔法もない、現実の生活にちょこっとファンタジーが紛れ込む程度の作品は、もしかして、薄味過ぎてファンタジーとは呼びづらいものかもしれません。

とはいえ、以前、その程度のファンタジーであっても育たなかったのは、私の中でファンタジーが力を失っていたからかもしれません。あるいは、単純に自分に自信がなかったのかもしれません。自由だからこそ、必然性や手応えといったものが表現しきれず、上っ面をなぞった都合の良い軽薄なものになってしまいそうな気がしていました。また、その自由さを活かして人々を楽しませることは、私のような真面目一辺倒の人間ができる気がしませんでした。

では、今回の場合はどうか。主人公の彼を、現実的な理由や登場人物で引き込む方法もあったと思いますが、私にはできそうもありませんでした。それは想像してもあまり楽しくなくて、そっちの方向にはイメージが育ちませんでした。
それで、ちょっとファンタジーの力を借りてみようと思いついて、その方法で彼を不思議な映画館に誘導しようとしている時、私はちょっといたずらをしているみたいにワクワクしました。その先を見てみたいと思いました。
そっか、こういうの、やってもいいんだ、って思いました。

小川を飛び越える

ファンタジーの力を借りることは、素敵なアイディアだと感じました。
あんなにお説教されても深刻にならない、不思議な彼の雰囲気に合っている気がしました。そして、現実的なお説教で変わらなかった彼には、非現実的な経験でいい意味でのショックを与えることができるかもしれない、と。ファンタジーの力を借りると、ちょっとウソっぽくなるかもしれないけれど、それが軽やかで彼の雰囲気に合っていていい。

異世界転生モノのような、大仕掛けでエンターテインメントに溢れた作品ばかりがファンタジーだと思い込んでいました。
もっと多様で多彩な作品をたくさん知っているはずなのに、もし、友だちがこんな思い込みをしているなら、もっと自由にやればいいよ、って笑って言うはずなのに。いざ自分が書き手になると、自分でも気づかない思い込みやしがらみに自らはまってもがいている。そして、また新たな自分に気付く。滑稽で愛おしい。これも人間ならではの、醍醐味と言っていいかもしれませんね。

表現したいものがあって、そして手段がある。
そんな当たり前のことに気付くのに、時々ひどく遠回りする癖が私にはあるようです。こんな当たり前のことにやっと気づいて、そして自分に許すことができたのでした。
こういうファンタジーの使い方もアリだな、と。

私は小川を飛び越えていました。「リアル」の岸から「ファンタジー」の岸へ。

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