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幸田露伴の随筆「潮待ち草6・7」

六 亀板の文字
 亀を焼いて吉凶を占う方法は、支那(中国)においても既にその伝統が失われて、今これを詳らかにすることは難しい。しかし「周官」に記された太卜・卜師・亀人・箠氏・占人・筮人などの条文に拠って考えると、亀卜(きぼく)の法を明らかに知るのはのは難しいけれども、亀に文字を刻すというようなことは無いように思える。しかし明治三十二年、中国・河南省湯陰県で土地の人が地を掘ると亀板が甚だ多く出て来た。亀板を水で洗うこと数千片、片々の全てに文字があって、数十個の文字の全てが刀筆で刻まれている。劉鉄雲(りゅうてつうん)と云う者がその五十余片を収集し、その中から千品を選択して石刷りにしてこれを世に伝えて、「毛錐(もうすい・毛筆)の前は漆書であり、漆書の前は刀筆であった。亀板の文字は即ち殷人(いんじん)が刀筆で作ったもので、命亀の事(亀卜の事項)を記したのである」と云う。私は能く古文を読めないので亀板の文が記すものが、果して占卜のことに関するものかどうかは解らない。その数百片の文字は皆大同小異で、推測するところ特定の様式に従って行ったもののようで、漫然と刻画したものでは無く、同一の目的で使用したものであることは殆んど疑い無い。果たしてソウであれば、亀卜の法はマズその占う事を亀板に刻んだ後で焼いたものか、焼いた後で占った事を刻んでこれを保存したものか。「周官」に、「凡(およ)そ卜筮(ぼくぜい)は事が既(おわ)れば則ち幣(へい)を繫(か)けて以てその命(めい・お告げ)を比(ひ・判定)し、歳終(さいしゅう・年末)に則ちその占いの中(あた)れるや否やを計る。」とある条文の鄭康成の注記には、「卜筮を行った時は必ずその命亀の事(占いの事項)と兆(しるし・お告げ)を策(さく・札)に書して、その礼神の幣(へい)を繫(か)けて、そして亀板と合わて蔵(おさ)める。」と書かれてあるが、今仮に亀板が殷の物であると信じて之を推測すれば、或いは古人が直ちに命亀の事を既に焼いた亀に刻記して、之を蔵(しま)って置いたのではないかと思われる。
 掘り出しの当時は、亀板と一緒に牛の脛骨(けいこつ)も出て来たのであるが、牛骨にもまた亀板同様に文字の刻まれたものがあった。占卜に牛骨を用いる事は上古の書に見えないといえども、灼骨の占卜もまた思うに上古から存在したのであろう。我が国の上古の太占の法は、鹿の肩骨を灼いて吉凶を占うもので、真偽は知らないがその伝統が今も絶えないことで、大凡(おおよそ)の事はうかがい知ることが出来る。牛脛の占い云い亀卜と云いその方法の何と似ていることか。
 鉄雲の刻んだ亀板の文字を見ると同文のものが甚だ多くて異形のものは甚だ少ない。モシその記すところが占卜の事と関係なく全く他の事を記したものだとすると、また或いは支那の象形文字では無く西洋の記音文字であって、その為に同形の文字が甚だ多いのだとすると、考古学上においても非常に興味ある事ではないか。
 支那の人は好んで偽書を作り偽物を作る。周以前の物であることで亀板の値は甚だ尊いと云うが、これを実際に見た訳では無いので、これを論じるのも、これまた風を捕らえようとしたり、影を捉えようとするような愚かしいことと云うべきか。

注解
・周官:周礼のこと。
・劉鉄雲:劉鶚(りゅうがく)、鉄雲は字(あざな)。中国・清末の作家・考古学者。甲骨文字の発見者。

七 大志
 新たに文字を制定して、これを一世に広め、これを万年に伝えようとすることは、文学上の最も大きな野心だと云えよう。その事が成らなければただ一積みの古紙を遺(のこ)すだけであるが、モシ事が成ればその人の大きな功徳は、たとえば太陽の光があらゆるところにも行き渡り、あらゆる物を加護し、その恩沢が世に充ち満ちるように、少なくとも文字の在るところにはその功徳がもたらされるであろう大きく立派な功績であって、これに優るものは無い。しかしながら無位無官で学識も無く、また深厚博大でも無く高遠精透でも無い徒(やから)が、新字を制定してこれを世に行わせようとするなどは、田舎の農夫が自ら急に奮起して鋤や鍬を投げ捨て、その年に天子の位に着いて、天下に号令しようとするようなことで、その志の甚だ雄大なこと、その気の甚だ豪壮なことは、愛すべく悦ぶべきことではあるが、また狂のようでもあり痴のようなことであって、むしろ憂え憐れむようなことである。いわゆる世界語(エスペラント語)を造り出して万国の言語を統一して、人類の歴史に一大変革を画そうとするようなことは、その願うところイヨイヨ大で、その成功することイヨイヨ困難である。その人の学識がただ深く遠いだけでは無く、ナポレオンやアレキサンダーのような雄大な資質を持ち、併せてキリストや釈迦のような溢れるばかりの徳を有するのでなければ、今の世に於いては殆んどその成功は望めそうにない。世に仮名と支那数字だけを使用させたり、又はローマ字とアラビヤ数字とを使用させようとするようなことは、新字を造ったり世界語を造ったりするのに比べれば易しいことであろうが、これもまた甚だ簡単では無い。言語と文章を同一にしようとすることもまた大きな企てである。
 およそこれ等のことは皆、己を知って分を守る輩の出来る事業では無く、ただ才気ある人が時に或いは好んで為すような大事業である。器(うつわ)が大きく志(こころざし)の高い聡明英俊を自認する人は、総べてこのような大事業に苦思し焦心して三五十年を送ることだろう。たとえその事が成らなくて、身体が弱り精神が衰え鶏皮と鶴骨が残るだけの老年の時が来て、壮図は夢のようになって苦笑の一場面をもたらすだけになったとしても、その事跡は必ずしも後進の役に立たないとは云えない。まして新字を制定するようなことが、徒労に終わった例も無くはないが、成功した例もまた絶無ではないだろう。世界語をつくるようなこともまた、終(つい)には成らないことも無いだろう。交通機関の発達は次第に万邦を一国にし、国際状態の進歩に次第に未開国と文明国を近付け、経済関係の接近は次第に仲の悪い国々を一体にし、時運の大勢はついに世界を打って一丸とする傾向にあるではないか。世界語もまた或いは終(つい)には成る日もあるだろう。予(あらかじ)めこれを否定する理由はないようである。カナを使用させ、ローマ字を使用させ、言文を一致させるようなことは、城を破るようなことで、天下を統一しようとすることに比べると、その難易は同列に語るべきではない。その事の是非はともかくとして、その事の成否は実行する人の実力の如何にあるのみである。楽毅(がっき)は斉(せい)を破り田単(でんたん)は斉を復活させた。七十余城もまた一人二人の力が、燕に属したり斉に属したりさせた。英雄が事に当たれば、我が日本も必ず全国がカナを使いローマ字を使い言文一致となる日が来よう。
 およそこのような大事業に比べれば、一(いち)芭蕉(ばしょう)を論じ、一(いち)巣林(そうりん)を論じて、舌を爛(ただ)れさせたり筆を禿(ちび)らせたりするなどの、その事の小さいこと、その志(こころざし)の小さいことは、棘刺(きょくし)で沐猴(もっこう)を造ったり、米粒(こめつぶ)に福神を彫ったりするようなことである。またその延長で芭蕉の句を調べて論じたり、巣林の語法を論ずるように至っては、その事の小さいことその志の小さいことも甚だしく、殆んどその極小の為の召使になるようなことである。ソウとは云っても、このような小事小願でさえ能くこれを成し遂げた者は、甚だ世に少ない。であれば、新字を制定し世界語を造り、カナを使用させ、ローマ字を使用させ、言文を一致させるようなことは、ソモソモこれもまた難しいと云える。人にはそれぞれ欲するところがある。私は英雄の仲間にはならないで庶民の仲間に入って、大志を懐かずに小功を挙げたい。

注解
・世界語(エスペラント語):日本エスペラント協会の設立は、明治三十九年。
・楽毅:中国・戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて斉を滅亡寸前まで追い込んだ。
・田単:中国・戦国時代の斉の武将。燕によって滅亡寸前に追い詰められた斉を優れた知略によって救った。
・巣林:近松門左衛門、江戸時代前期の人形浄瑠璃および歌舞伎の作者。
・棘刺で沐猴を造る:荊のとげで猿をつくる。


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