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幸田露伴の伝記「真西遊記・発端」

真西遊記

発端

 明治の御世(みよ)の年若い諸君はやがてこの御世に光を添えるべき方々なので、誠実・勇健・剛邁・堅忍の徳を蓄え養って、成長した後(のち)には縦横無尽に我が国のため、我が父母のため、我が兄弟姉妹のため、世界の人々のために、我が身から大いに光を放って働く覚悟が無くてならない。しかし、魚を求める者は木に縁が無く、山に登る者は船に乗らない理屈で、光明を未来に揚げようとする諸君は、暗い昔の遺物とも云える荒唐無稽な小説の西遊記などを読まないで、その時代時代に光輝いた賢人・哲人・大人・豪傑の身の上について記した堅実な書物を読んで、どんなに昔の人々が志を立てて努力したか、どのような方面にどのような光明を揚げたかを問いただして、之(これ)を学んで之を尊び之を考えて之を論じ、少しでも好い楽しみを得るのが善いと思う。樟(くすのき)の箱に納めれば紙は自然と芳(かんば)しく虫も食わない、油樽の傍(そば)に在れば茶は自然と味を失う理屈で、歴史上に名声を残す賢人・哲人・大人・豪傑などに親しめば必ず益があろうが、荒唐無稽な雑書などを愛しては必ず害があろう。また蠅や蛆(うじ)は汚物に群がり、鳳凰は桐に棲(す)む定(き)まりであれば、賢い今の諸君は西遊記のような陋劣で笑うようなものに親しむこと無く正しい書物を好まれるが善い。雅正(がせい)の書籍で無ければ読まない、聖哲(せいてつ)の人で無ければ倣(なら)わないとは、少なくとも世に大望を持つ人の無くてはならない幼い時の心掛けである。
 しかし西遊記は全くの作り話では無く、彼(か)の張騫(ちょうけん)さえ大層仰々しく載せる支那(中国)の歴史の中でも、極めて珍しい大きな実際にあった出来事を骨にし、妖怪変化の話を皮や肉にして作った話なので、その書が次第に広まるに従って、その作り話のために実際の話も作り話の中に埋もれた観があるが、その事実は架空の西遊記が根拠にしたほど実に稀な奇事快事であって、また快奇なだけで無く、それを聞けば怠け者も奮い立ち欲深い者も恥じるような、年若い諸君にとっては学ぶべき立派な事実なのであるが、昔から学者がこのことを云わなかったのは、この事が仏教に関係したことなので、公平でない支那の歴史家等が少しも称揚しなかった為だと云える。私は今これからその事実の大略を述べて諸君の余暇の役に立てたい。
しかし諸君に仏教を勧める訳ではないので、諸君も仏教の話かと頭から排斥しないで欲しい。韓愈(かんゆ)は悪い人では無いが心の狭い人だったので妄(みだ)りに仏教を排斥した為に、度量の広い眼識の高い後世の人に笑われている。欧陽脩(おうようしゅう)は世のために努力された人だが歴史の編纂に偏(かたよ)りが有り、仏教を載せること極めて疎かで、後世の人に冷笑されている。教義を論じる上では仏教を排斥しても可(よ)い、儒教を浅いとしても可い、キリスト教を取るに足りないと云っても可いが、人を論じるに当たって、直ちにその人の信仰で取捨を判断したり、その人の実績を排斥したりするのは間違いである。昔から、「その人によって、その言を捨てず」とさえ云うのに、人の信仰するところによって、その事実を排斥するのは道理あることとは云えない。魚を釣っていたからと云って太公望を捨ててはいけない、草履取りをしたと云っても太閤秀吉は豪傑である。まして人それぞれ天から享(う)けた才能を基に、ある事に就いて有らん限りの力を尽くし、心を傾け、斃(たお)れて初めて已(や)むのであれば、これ即ち大丈夫(だいじょうぶ)であり真の男児である。たとえその事が賤しくとも決した排斥してはいけない。刀鍛冶の道に至誠を尽した正宗や宗近等を、刀鍛冶だからと云って賤しいとするのは狂人の評価であって、農業に心を尽くした大蔵永常や二宮尊徳等を、百姓だから取るに足らないと云うのは愚か者の暴論と云うより他ない。すべて自分の職業に誠実であることは世の文明を進める基で、即ち仁(じん)であり義(ぎ)なのである。事業に誠実でないことは即ち不仁不義なのである。大丈夫とは自分の事業にあくまで誠実な人のことを云うので、正宗や宗近等は刀鍛冶上の大丈夫であり英雄である。大蔵永常や二宮尊徳等は農業上の大丈夫であり英雄である。明珍は鎧(よろい)造りの大丈夫であり、雪舟や探幽は画の道の大丈夫であり、荻生徂徠・新井白石・本居宣長・平田篤胤等は学問上の大丈夫であり、北条時頼や徳川家康等は政治上の大丈夫であり、加藤清正や本多忠勝は武将中の大丈夫であり、もし或る者を尊んで或る者を賤(いや)しんで排斥したら、盾を作る者を仁者として矢を作る者を不仁者とするような馬鹿げた話になってしまう。布を織る者に大丈夫あり、家を建てる者に大丈夫あり、病を治す者に大丈夫あることで、私達がその恵みを受けているのであれば、彼等は即ち仁者である。もし布を織る者が布を織ることに誠実で無く、家を建てる者が家を建てることに誠実で無く、病を治す者が病を治すことに誠実でなければ、彼等は不義の者であり、彼等のために我等は今なおエスキモーの着るアッシのようなものを身にまとい笹葺きの掘っ建て柱の家に住んで、病気になっても怪しい草の根を薬草として咬(か)んで居ることであろう。よくよく観れば私達の頭の上の帽子から足の下の履物その他に至るまで、皆それぞれの道の大丈夫の恩恵によって得ているのである。であれば、この道理から推測すればどんなに小さい技であっても、その技に真心を尽くす人は大丈夫であって、恩恵を世に垂れる貴い人である云える。
 西遊記の主人公とされる玄奘三蔵は仏教徒なので、仏教のために誠を尽くしたが、仏教の良否についてはさて置いて、自分の事業(つとめ)のために行った玄奘三蔵の勤労は伝え学ぶべきことではないか。年若い諸君の中には仏教のことと云うと、頭から嫌(きら)うような誤った考えを抱く者もあろうかと思って、思わずこのように長々と筆を滑らせたが、イザそれでは、玄奘三蔵の西遊の真実を記す傍らその一生の伝記を述べよう。(「その一」につづく)


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