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幸田露伴の「二宮尊徳①(登場)」

二宮尊徳

 いい加減に起き、いい加減に眠り、無駄に食い、無駄に着て、何もしない人は、鳥や獣と同じようで尊敬できない。学んで知識を広げ、働いて何かを行う人は尊い。正しい行いを目指す人はいよいよ尊い。誠実で人の為になる人もまたいよいよ尊い。二宮尊徳(にのみやそんとく)先生と今でも多くの人に尊敬されている人格者とか豪傑とか云うような人が徳川時代に居た。もちろん世にも稀なほどの大きな心を持った人の事なので、そしてまた二宮先生の善い行い善い言葉は数多くあるので、一々ここで述べるのは難しいが、ここではその大体をお話しよう。モシこの話によって二宮先生をおぼろげながらでも思い浮かべて、その善い行いを学びたいと思う人が出てくれば、有難いことだと思う。
 二宮先生と云えども生まれながらの人格者でも豪傑でも無い。先生は相模(さがみ)の国(神奈川県)の柏山(かやま)村と云う田舎で生まれた。家が貧しい上に、先生が五才の時には酒匂川(さかわがわ)の洪水で先生の家の田圃(たんぼ)が荒らされて、いよいよ貧しくなった。先生と弟の三郎左衛門(さぶろうさえもん)と富次郎(とみじろう)の三人を育てるのは簡単ではなかった。先生はその中で次第に成長して、草鞋(わらじ)を作りそれを売っては量こそ一合と少ないが、大きな情のこもった酒を買って父に勧めた。昔でもこのような親孝行をする人は少ない。このような中で先生の十四の時に頼みの父とは死に別れ、家はますます苦しく貧乏になって、仕方なく母は末(すえ)の子を遠くの親類に預けようと決心し、気持ちを強く持って富次郎を預けて帰って来たが、流石に可哀そうに思ってか、母は毎夜、置いて来た子の事を思って眠れない様子、先生はこれを見て、「毎夜寝付けないようだが、どうされました」と訊ねると、「お乳が張って寝苦しい」と他所(よそ)を向いて涙を隠し誤魔化(ごまか)すが、早くも察して先生も涙を浮かべ、「どんなに貧乏でも赤ん坊の一人ぐらい増えても減っても別に変りはありません。富次郎を思って夜も碌(ろく)に眠れないほど母(かあ)さんを悲しませるよりは、子供だけれど私が明日から山に入って、薪を採ってそれを売り、弟と一緒に住めるようにします。早く富次郎を取り返して下さい。」と云えば母も喜び、夜道も恐れず隣村に行って、可愛い我が子を抱きかかえ帰り着くあばら家。貧しい中にも親子四人無事に暮らす楽しさに、それからは朝早くから霧深い山に入り薪を取り柴を刈って、帰りはそれを売って、夜は夜で縄を縒(よ)って草鞋(わらじ)を作り、一寸(ちょっと)の暇も惜しんで母の為弟の為と励んで、毎日毎日先生は働いた。そしてまた、「人として生まれて、聖賢(せいけん)の道(聖人や賢者の教える道理)を知らないで過ごすのは残念だ」と、やっと買った「大学」と云う本を何時(いつ)も持ち歩き、薪取りの行き帰りに歩きながら読み学ばれた心掛けの尊さ。
 先生は早く父を失い苦労されたが、またも十六の年に母が病気になり、神仏に祈って回復を願った甲斐も無く、母は三人の子供を残して亡くなった。田も畑も財産も無く、何一ツ無いあばら家に三人の子は残された。親類たちはこれを見てお互いに相談して、弟の三郎左衛門と富次郎の二人を川窪家が引き取り、先生は萬兵衛と云う親類の家に引き取られたが、萬兵衛は生まれつきケチで人情の分からない人なので、昼間一日中働いて夜の僅かな時間に学問する先生を罵って、「お前を育てるのに多くの金がかかっているが、子供のお前の働きではまだ足りないぞ、それを考えずに自分勝手な夜学の為に、家の灯油を使うとはケシカラン」と𠮟り飛ばすのを、無理を云うと思ったが争わずに、「一生を無学文盲で終るのは残念だ、自分の力で学問すればまさか叱られることも無いだろう」と、川べりの荒れ地に菜種(なたね)を播いて七八升の実を収穫し灯油に換えて、毎夜独り勉強を続けていると、情け知らずの萬兵衛はまたも罵(ののし)り、「学問をするより縄を縒(よ)れ、家の手助けをしろ」と欲深いことを云う。それでも先生は逆らわず、縄縒り筵(むしろ)織りと油断なくして、その後で密(ひそ)かに灯を点(とも)し、衣類で光が漏れないように隠した上で、教師は居ないが自分の向学心を教師にして、一番鶏が鳴く頃まで毎夜読書をされた苦労の程は、察しても涙がこぼれるばかりである。
 先生は萬兵衛のところに居る中で、我家を復興させようと思う心は一日たりとも胸から去らず、人が手を付けない土地を耕し、人が捨てた苗を拾ってはそこへ植え付け、一俵余りの収穫を得て大喜びして、「少ないものを積んで、多くするのが自然の道である、今は僅かな一俵だが之を種子に農作業をすれば、我家を復興することも出来るだろう」と、仕法(しほう・やり方)を考え力を尽して怠り無く働き遂に多くの収穫を得た。そうなるとイヨイヨ先生は喜んで、数年後には萬兵衛に養育の恩を感謝して独立することが出来た。今まで人が住んで居なかった為に柱は傾き軒は朽ち腐り、蔓草ばかりが勢いよく纏い付く我が家に帰り、草を払って屋根を直し、話し相手もいない一人住まい、必死になって働いて、粗末な着物も粗食も構わず、次第に余裕が出来れば積み貯めて、少しのものも無駄にしないで、艱難辛苦を耐え忍び、田も畑も遂に買い戻し、立派とまでは云えないが、我家の復興を成し遂げた。アア、先生が将来に大きな仕事を成し遂げられたのも、この時までの心掛けによって成されたと云うことが出来る。
 その頃、小田原藩の家老に服部十郎兵衛という者が居た。千三百石もの大きな禄高(ろくだか)を受けながら家計は火の車で、借金も一千両余り有り、元金はもちろん利息金も支払えない状態、進退窮まり困り果てて、今は恥ずかしい事ではあるが辞職しようとまで考えたが、「柏山村に金次郎という男が居て、早く父母に別れ田畑も人の物になったが、僅か作った一俵の米から没落した家を復興し、それだけで無く心広く行い正しく慈悲深く、人を憐れむ非凡の人なので、この人を頼りに再興(さいこう)を任せればキット再興が成りましょう」と、或る人が教えて呉れたので服部は大いに喜び、早速人を遣(や)って事情を詳しく話して頼んだが、先生は之を承諾しない。服部はますます敬服して真実を尽くし謙虚にひたすら頼んだところ、先生も仕方なく承知して、妻に家を任せて服部の家に行き、マズその悪い点を指摘して反省させ、「悪い点が分ったら悪い点を直しなさい、悪い点を直すには自らを見直しなさい、食事を粗食にし、衣服は粗衣にし、欲を無用な事で充たさない。この三箇条を守ることが必要です。」と教え、次に服部家の使用人たちには、「五年間、私の指図に随え」と云い、それから貸金者を呼んで事情を説明し、先生独自の分度(ぶんど)の法(収入の範囲内に支出を抑えて余剰を生む予算計画)と云うものを立て、収入から必要費用を差し引き、ソコソコの生活が出来るようにして、先生自ら家事運営を勤められた。五年間は瞬く間に過ぎて、その結果千両余りの借財を返済した上に三百両もの余剰が出た。先生はその三百両を服部夫妻に差し出し、「今は借財も無くなり、三百両も余りました、この中(うち)の百両は貴方の手元に置いて非常時の用にしてください、また百両は奥方へ与えて家の暮らしの万一のための予備にしてください、残りの百両はどのようにも勝手に御遣い下さい」と云えば、服部は大いに感歎して、「我が家の没落の危機を救って頂いたのも貴方のお陰、三百両の余剰は全て貴方のものと思われるのに、二百両を後々の為に我等へ与えられるとは恐縮である、せめてこの百両を受け取って家業の足しにして下さい」と差し出せば、先生は喜んで受領して、「御言葉に順(したが)ってこの百両は頂きます。これからは再び困窮に陥らないよう千両を毎年の分度(予算)と定め、三百両を予備として運営されるがよろしい。そうすれば貧窮に陥ることも無いでしょう」と教えて退出し、その後にその家の使用人たちを呼び集めて、「貴方たちは五年の間、約束を守って私の指図に随って辛苦を忍んで仕えて呉れたが、今はこのように成った。ついては貴方たちの貢献を賞し之を分け与える。これは私が与えるのではない、主人が下さるのである、謹んでお受けしなさい。」と、自分が受領した百両を分け与えれば、使用人たちは驚き喜び、先生の清々(すがすが)しい情け深い心に感動したが、先生は服部家から何も受け取らずに飄然と家に帰られた。(②につづく)

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