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新連載漫画『セシルの女王』が出会う、この物語と共鳴する新しい読者層

漫画の新連載は、ロケットの打ち上げに似ている。ゼロから新しい読者を獲得し、重力に逆らって上昇していく、そこには大きなエネルギーがいる。

高校生薙刀部を舞台に映画•舞台化もされた大きなヒットとなった『あさひなぐ』が先日完結したこざき亜衣の新連載、『セシルの女王』は今、ロケットで言えば打ち上げから大気圏突破に至る所にいると思う。

日本の女子高校生を主人公にした前作とはガラリと舞台を変え、イギリスの歴史物だ。エリザベス1世と、彼女に仕えた忠臣セシルの物語。

決してコストパフォーマンスのいい題材ではない。服装、食事ひとつひとつに歴史資料と取材が必要で、しかも史実がベースなので制約も多い。身近な共感を呼ぶことがヒットの近道とされるSNS時代では、想像力を必要とする外国舞台の歴史作品は、読者のつかみでどうしても初動にハンデを背負う。

しかし『セシルの女王』のストーリーは、そうした「重力」を背負いつつ、ぐいぐいと高度を上げて大気圏を目指す力強さに満ちている。

そこで描かれるのは、『あさひなぐ』から連続する女性性というテーマだ。制度としては女王の統治が認められているはずなのに、現実には王は男子を望み、男系の統治でなければ失脚しやすくなるという16世紀イギリスの「ガラスの天井」。そこに生まれる「望まれなかった女の子」と、世界でたった1人彼女の味方になる従者の少年の物語には、読者をひきつける強い吸引力がある。

たぶんこの物語は、朝の連続テレビ小説や大河ドラマのファン層と親和性があると思う。『セシルの女王』がもしもNHKでドラマ化されて毎週放送されたら、強い父権の抑圧の下から育つ幼い王女と少年の物語に多くの人が惹きつけられるだろう。

でもその多くの潜在的な読者層、読めばこの物語に共鳴しうるはずの多くの人々は、『セシルの女王』という作品にまだ出会っていないと思う。

『セシルの女王』が連載されているのは、ビッグコミックオリジナルだ。『深夜食堂』をはじめ、優れた作品を多く生み出している雑誌で、そうした目の肥えたファンには『セシルの女王』は既に評価され、愛されていると思う。でもこの物語は本来、ビッグコミックオリジナルを普段手に取らない層にも届くポテンシャルを持っていると思う。

SNSで『セシルの女王』のことを宣伝したり、説明するのはとても難しい。そこには言うまでもなく、父権社会の下の抑圧された女性、ある種のフェミニズムがテーマのひとつになっているのだけど、SNSで今「この作品のフェミニズムは…」と語ることは、すぐに二項対立的な党派性に飲み込まれてしまい、読んでもいないのに反発する人、読んでもいないのに「筋書き」だけを党派的に評価して終わってしまう人の渦に作品が巻き込まれてしまう。と言って、「単にフェミニズムではなくヒューマンストーリーで…」などと口にすればたちまち炎上する。そういう構造が出来上がっている。

でも『セシルの女王』という作品には(優れた作品の多くがそうであるように)そうしたSNSの単純化された二項対立を超える長いスパンがあると思う。それはある面では封建制の抑圧を押し返して生きる女性の物語なのだが、同時に女王になるということは、その封建制を背負うことも意味しているからだ。

『風の谷のナウシカ』にはクシャナというトルメキアの王女が登場する。政治と暴力の中で生きる複雑な、しかし魅力的なキャラクターで、『セシルの女王』を読んでいると(2巻の段階ではまだ王女は赤ん坊なのだが)この作品と、まだゆりかごの中にいる主人公が秘めた物語のポテンシャルに心を揺さぶられるのだ。カトリックとプロテスタント、王と民衆、男と女。釣り上げるには大きすぎる魚がかかった釣り竿のように、その感触はとても重く大きい。

『セシルの女王』の第一巻の帯には、『ベルサイユのばら』の池田理代子氏が推薦コメントを寄せていた。フランス革命で断頭台に消えた最後の女王、マリーアントワネットを描いた『ベルサイユのばら』と、イギリスの黄金期のエリザベス1世を描いた『セシルの女王』は正反対のようでいて、歴史の中の女性というテーマを共有している。もしも『セシルの女王』が宝塚で舞台化されたら、多くの宝塚ファンの心をとらえる演目になるだろう。

まだ『セシルの女王』を知らない、多くの読者と作品が出会ってほしいと思う。SNSの力は残念ながらまだそれほど大きくはないのだが、それでも対立を煽る以外に、優れた作品を手渡しで運ぶ力が全くないわけではない。そうした読者の力がこの作品を押し上げて、あと少しで大気圏を抜けることができたなら、たぶんそこには宇宙の星空と、青く美しい地球を眼下に見る高い視点が作品の中に広がると思う。

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