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この世に無駄なことはない

メンタリストDAIGOさんの動画で、母校から動画を削除する要請があったという報告動画を見て、考えたことがあるので、書きます。

私の中高時代は、悔しいことも辛いことも含めて、マルッと良い思い出です。
小学生の頃は友達にいじめられていましたけど、私は人に優しくしたいなと思うきっかけになったので、良い経験でした。彼女たちに、感謝です。

中学高校どちらの時代も、学校のルールを守る時代でした。
中学校はとにかく規制規制規制で、自由なんてない。友達と『いつか番号で呼ばれるようになるんちゃうか?これ。』と笑っていました。
つまり、囚人番号です。囚人、または軍隊のようでした。
今となっては、笑けてきます。おかしなルールに、文句も言わず良い子ちゃんに従っていました。私は今20歳ですが、中学の頃ビンタされましたよ。30年前の話じゃ無いですよ。

高校は勉強ばかりしていましたので、つまらんルールごときで、大事な将来を潰している場合ではありませんでしたから、アホくさいルールでも、反発して、めんどくさくなるような青春は犯す事なく、静かにきちんと守っていました。

高校の校長先生はいつも言っていました。

一見無駄なことでも、無駄だと思わずやりなさい
無駄なことは無いのです。

無駄を省いたり、効率を追い求めたり、しがちですが、、、

私はこの先生の言葉があるから、どんなにアホくさい事でも、耐えられます。

無駄かどうか分かるのは、後になってからですよね。結果論。
いろんなところでバイトしましたが、企業や工場にはいくらでもアホくさいルールはありました。それに従わないとバイトクビですから、社会のルールはアホくさくても守るのは当たり前だと今言えます。


全ての愚かな経験が、今の私の人格を作っていて、これから先の人生を歩む糧になっています。
若いうちに愚かなことをまじめにこなせて、無駄をたーくさん経験して、回り道、寄り道、あってこその豊かなこころ。

地獄の環境にいたとして、その経験は決して無駄なものではないと思います。
いつか振り返ると、未来の自分を今の私が作っている。

学校の先生に期待するの?

メンタリストDAIGOさんの話に戻りますが、
彼の言っていることは、正しいです。
その通りだと思います。
でも、学校の先生って、視野がとても狭い。彼らも愚かな人間の集まりなのに、先生らしさを求められている。正しく生きられないのに、正しさをまとめられる仕事。
愚かな人間に正しい答えや行いを求めるべきではないと思いました。
こんな彼らに、その時代に適した最善の答えを出せるでしょうか?
時代の最先端をせめぎ合っている、教育の研究者や、
自分のゆるぎない信念に基づいて教育を施す聖人ではない。

間違った答えを、自慢げに生徒の前で披露する愚かな大人を見て、自分は中学生や高校生ながら、何を考えて生きるか。
何を思考し、その出来事を自分の人生にどう生かしていくか。

こうやって愚かな大人をうしろに置いていって、自分は時代の最先端をせめぎ合って生を全うしたい。

メンタリストDAIGOさんが、今素晴らしい活躍をして、世の中の人々に生きるヒントを与え続けている。素晴らしい存在だと尊敬してます。
そんな今があるのは、過去の負の経験があったから。負の経験を与えたのは教師であった。
教師の過ちは、無駄であったのですかね?無い方が良い出来事だったと言えますか?

愚かな人間が愚かな人間を作り出すのは簡単だけれど、自分自身が愚かな人間になるかどうかは、その人次第であります。

先生が自分を作ってくれるのだ〜と甘んじるのはお門違いだし、自分がポンコツなのは先生がクズだからだ〜と責めるのも違いますよね??


教師なんて、人生のある一時に現れた、ひとりのちっぽけな人間だと解釈しています。
大そうな役割なんて期待しないで、愚かな人間同士、共に生きていこうじゃないか!

皆さんはどう考えましたか?


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