シークレット・フィーリング

画像1

「疲れた……」

 石伊志織は取引先での営業を終えて地下鉄に乗り、自宅近くでもなく、会社近くでもない駅で降りた。商談が終わったから電話報告したところ部長が取引先から直帰して構わないと言ったので、行きつけの店で軽く1杯飲んでから帰ろうと思ったのだ。今日の商談後に残業しなきゃと思ってたので飲み会を断っていたが、こうなった上に華金だから自分を言い聞かせた。

 志織はショートヘアなので首元に風は通るが、夏本番は過ぎたとはいえスーツ姿ではまだ蒸し暑い。汗を気にしつつ薄暗い地下通路を抜けて地上への階段を登っていると、上の方に人がいるのが見えた。水色のミモレ丈ワンピースにベージュのキャスケットを被っていように見える。体勢的にこちらに振り向いているようだが、その女性に気を取られて足をつまずいてしまった。

「おっとっと」
 手すりを掴んで転ぶのは避けたが、ふたたび顔を上げると上には誰もいなく地上への出口がぽっかりと開いているだけだった。幻か、幽霊か、疲労か。原因はなんであれ、あのワンピースは先日雑誌で見て気に入った服に似ていたので一瞬だがつい見惚れてしまった。雑誌で見るよりずっと良かった。

 地上に上がると、帰宅や帰社ラッシュか大勢の人が行き交っていた。どう考えてもさっきの人影を探すのは困難なので諦め、歩いて5分のアーケード街の中にある行きつけのたこ焼き屋へと、足を運んだ。赤い看板が食欲をそそる。

「くうぅ、仕事終わりのハイボールが効くぅ!」

 店の前のオープンテラス席を確保した彼女は、注文したハイボールが届いた瞬間に半分ほど一気にあおる。きつめの炭酸が喉を刺激し、冷えた液体が胃袋の中に入っていく感覚を味わいつつ、遅れてたこ焼きを運んできた店員に濃いめのハイボールをもう1杯注文して、手に持っていたジョッキの中身を飲み干した。

 かつお節がゆらゆら揺れるほど熱々のたこ焼きを箸で割り、立ち上る湯気を見てようやく彼女は少し落ち着いた。中の生地がじっくりと流れ出ていくかのように、体を疲労が支配していく。

「いくら取引先だからって限度ってもんがあるでしょ……」

 今日の取引先の社長は、志織が行くと数量を増して注文してくれる会社だ。部長もそれをわかっているから志織を行かせるし、志織も営業成績に反映されるのでそれを受ける。ただ、接待とまではいかないまでもかなり長い時間拘束され、随分と色々なことを聞かされるし喋らされてしまうし、先日は根負けして個人的な連絡先を交換してしまった。今のところ個別に連絡が来ることはないが、今日はさらに積極的になってきてついに夕食に誘われた。そろそろ手を打たないとまずいと思うのだが、成績至上主義の部長が何というかと思うと気が重い。さらに、男性が行くと社長が怒り出して取引停止を騒ぎ立てるのも問題だ。中小企業ゆえ社内の女性営業は志織しかおらず、他の女性は長爪裕子という総務以外は皆男性だ。たまたま先輩から引きついだ取引先なだけにどうしたらいいんだろと悩むが、何も解決策は出てこない。少し冷ましたタコ焼きを食べ、悩みと一緒にハイボールで流し込む。

「誰かと食事するのは嫌じゃないんだけどさ」

 志織はこうして1人で飲むこともかなりあるが、誰かと食事するのが苦になるタイプではない。実際、会社で昼食を摂る時は「1人で食べるの寂しいから」と誘ってきた長妻裕子と一緒に食べているし、ほぼ毎週大学の同期と飲み会をしている。だが、取引先となれば話は別だ。

「裕子さん今日1人で食べてるのかな? あ、そういえば有給だったか」

 数日前に、金曜日を有給にして買い物に行くと言っていた話をしたのを思い出す。裕子の持ってきたファッション雑誌で服や化粧品について話した流れで、そう言っていたはずだし、朝礼の時にもいなかった気がする。志織はあまり飾りっ気がなく化粧も最低限なので、ファッション全般に詳しい裕子の聞き役になっていた。裕子と一緒に出かけたりしたことはないがいつもこだわっていると言っており、会社では華美なものは禁止されているのが残念とよく愚痴っていた。

「愚痴ねえ……」

 会社に愚痴を言いたくなる場面がないかと言われるとそんなことはないが、基本的にみんな優しいし困るのは大体取引先の対応だ。社内の男性にも一緒に食事や飲み会どうと誘われることもあるが、大学生の時に男性ばかりの飲み会で嫌なことがあって以来遠慮している。向こうも形式的に声をかけているだけだと思うので、無理に誘おうとしないでもらえていてありがたい。だからこそ、取引先の人がぐいぐいくると余計に嫌な気持ちになる。裕子が「上手くかわすのも大人のテクニックよ」と言ってたが、社会人5年目になってもまだその技術は身に付かない。嫌な気持ちにさせない断り方がわかればいいが、そもそもなんで自分がこんなに困らなければいけないのかと思うと少しイラッとしてしまう。宛名のない手紙だってそうだ。そんなことされてもどうしたらいいのかわからないだけで怒りだけこみあげる。誘わなければ断る必要もないし、お互い嫌な気持ちにもならない。

 そうこう考えているうちにハイボールが4杯目に突入して、8個あったたこ焼きは残り2個になっていた。もうかつお節は揺れていないし、タコ焼き6個も食べた記憶もあまりない。なんだか損した気分になってきたが、胃袋の中にはしっかりタコ焼きがあるようだ。

「あんまり飲みすぎるのも良くないんだけどなぁ。睡眠導入剤の効き悪くなるし……」

 ストレスのせいか寝付きが悪かった志織は裕子に教えてもらった睡眠導入剤が結構効いていたおかげで最近は寝れていたけど、ちょっと気を抜くとこうしてお酒に逃げてしまっていた。まだ飲み足りない気がするが、この店はほぼたこ焼きとハイボール専門店なのでこれ以上のおかわりをする気にはならなかった。かといってさっと飲んで帰るつもりだっただけに、2軒目に行く気分でもない。でも今日は金曜日だしたまには気分転換も必要……と思った志織を夜風が包む。夏の暑さが過ぎた少し涼しい風が吹いていた。

「ちょっと公園寄ろうかな」

 残りのハイボールとたこ焼きが無くなったところで店を出て、近くのコンビニに寄って酎ハイの缶を2本購入した。アルコール度数9%の強いやつだが、今の志織はもう完全にぐいっと飲みたい気分に代わっていた。

 街中にある大きな公園へ行くと、ベンチにまばらに人がいる程度で静かだった。近くの人は表情がわかるが、離れている人はシルエットしかわからない程度の薄暗さが目に優しい。志織は空いているベンチに腰掛け、冷えた酎ハイを開けてグイッと飲む。普段ならアルコールの味をがっつり感じるが、タコ焼きの後だとかなり甘く感じた。

「しょっぱいもののあとは甘いものだよなー。デザート的な」

 そんな独り言も夜風に乗ってどこかへ飛んでいく。ふと時計を見ると、まだ飲み始めて1時間くらいしか経っていなかった。流石にオーバーペースだったなと反省しながら、1本目を飲み干す。全く水を飲んでないことに今更気づいたが、耐えがたい尿意がやってきた。

「トイレ……」

 志織はトイレに行こうと立ち上がったが、足元がフラフラておぼつかない。こんなに酔ったので久しぶりだなと思いつつ、なんとか仕事道具の入ったカバンだけを持って近くの公衆トイレへ向けて歩き出す。公衆トイレの明かりは見えるが、一向に近づく気配がない。見えてるよりもそんなに遠い距離なのだろうか? 気のせいだろうか。志織は自分の1歩が靴1足分しかないことも気付かずよろよろとトイレへ向かう。

「あの、すいません、大丈夫ですか?」

 急にフラフラしていると、急に声をかけられた。一瞬びっくりするが、女性のようで安堵する。

「あ、はい、なんとか大丈夫で……裕子さんじゃないですか! どうしてここに?」
「私は買い物の帰りだけど、志織ちゃん一体どうしたの? 仕事だったんでしょ?」

 話しかけて来たのは同じ職場の長妻裕子だった。暗い上に裕子はロングヘアーなので表情がいまいちわからないが、シルエットから私服なのは間違いなかった。やはり休みだったようだ。

「部長に直帰していいって言われたんで、少し飲んで今帰ろうと思ってたところなんですけど、飲み過ぎちゃいました……」
「そうだったの。あんまり飲み過ぎちゃだめよ。それにこっち地下鉄じゃないわよ?」
「あそこのトイレに行こうと思って……」
「そういうこと。足ふらふらじゃない、肩貸してあげる」

 裕子は志織の腕を自分の肩に回し、トイレへと連れて行った。トイレ行くまでの間にもえづく志織をなんとかなだめて、女子トイレの空いていた個室に通す。裕子は志織を洋式便器の中に吐けるようにしゃがませ、左手で志織の背中をさする。

「吐ける?」
「はい……うっ」

 体に力が入らないのか、志織は縮こまるばかりで吐けそうにない。

「ちょっと苦しいけど我慢してね」

 裕子は左腕を志織の背中に回し、右手の人差指と中指を志織の口の中に入れた。生暖かい人体の温度と粘液のぬめりを感じつつ、喉の入り口、舌の付け根のあたりを刺激する。異物を吐き出そうと喉が収縮して締め付けて来るの楽しみながら、涙目でえづく志織の嘔吐を待つ。

「吐けそう? 遠慮しなくていいから1回全部だしちゃいな」
「うっ、おっ、おぇっ」

 何回かえづいたあと、上がってきたのを感じた裕子が指を引き抜くと志織は一気に吐き出した。便器の中にほとんど出せたが、勢いが強くてスーツを少し汚してしまう。

「気持ち悪いときは吐くのが一番だからね」

 そう言いながら裕子は志織の背中を擦りながら一旦便器の中の水を流した。志織はぼんやりと流れる水の様子を見ている。

「あ、ありがとうございます……」

 息も絶え絶えに言葉を絞り出す志織に、裕子はニッコリと笑いながら声を掛ける。

「でも、まだ吐けるでしょ?」
「え?」

 志織が呆気にとられた一瞬で、裕子は再び志織の口の中に右手の人差し指と中指を突っ込んだ。志織は裕子の右手を引き抜こうと両手で掴むが、力が全く入らない。

「ひゅ、ゔっ、ひゅうこはん!」
「ちゃんと吐かないとあとで困るからね」

 裕子はさっきよりも奥に指を突っ込んでいく。さっきよりも厚い粘膜を感じつつ痙攣してる喉を撫でるように刺激する。志織は目を白黒させながら暴れるが、力の差は赤子の手をひねるよりも明らかだった。そのまま促された2回目の嘔吐は若干血も混ざっていた。

「まだ行けるわよね?」
「ゔぅぅ!」

 そのまま更に2回吐かされて、力尽きた志織はトイレの床に倒れ込んだ。スーツが自分の吐瀉物でドロドロになってしまっている。

「ほんと、何でこんな汚い子がみんな好きなのかしら」

 裕子は回収してあった志織がベンチに忘れていったコンビニ袋の中から2本目の強アルコール酎ハイを出して、プルタブを開けて床においた。志織を一瞥するとポケットから錠剤の入った小袋を取り出し、中の白い錠剤10錠を手のひらに乗せた。

「貴女が入社するまでみんな私を大切に扱ってくれてたのに、今は何かにつけて志織ちゃん志織ちゃんの大合唱。ご飯も飲み会も誘ってくれない上に、貴女がいないとやれ志織ちゃんの好きなものはとか好みの男性はとか。知らないっての」

 裕子は志織の髪を掴んで上体を起こすと、錠剤全部をだらしなく空いてる口に放り込む。何か口に入れられたことに気づいた志織が出そうと反応するが、それより早く裕子が口に指を突っ込んで錠剤を奥に押し込む。

「部長も貴女が飲み会に来るように私から言ってよってうるさいし、他の奴らも独占しないで俺とも昼飯食わさせてくれよって騒ぐし。取引先も貴女の代わりに電話に出ると露骨に不満そうな声を出すし。何なのよ!」

 裕子は床に置いていた酎ハイを持ち上げ、志織の口の中へ流し込んでいく。アルコール度数9%、炭酸、500mlの酒が容赦なく注がれ、口の端から溢れるもかなりの量を飲まされた。缶の中身が空になり裕子が髪の毛を手放すと、志織は咳き込みながら床へ再び倒れ込んだ。薬を吐き出そうとするが、筋肉が弛緩しきって全く力が入ってない。

「今日ね、お昼にアプリで知り合った男と食事したんだけど、かわいいってたくさん褒めてくれたの。やっぱり私ってかわいいわよね。別に貴女に負けてるわけじゃなくて、周りの男どもが見る目ないだけよね? このワンピース、貴女が雑誌でいいなって言ってたやつなんだけど、私のほうが似合うわよね? 彼もすごく似合ってるって言ってくれたし。今日は急に用事が出来たからってことでお昼ご飯だけで解散したんだけど、次会う時はもっとじっくり私を見てほしいわね。きっともう彼は私に夢中よ。何着てけばいいかしら。オススメある?」

 目の焦点が合ってない志織に、裕子のマシンガントークは届いていない。それに少し苛ついた裕子は、自分のカバンの中から今飲ませた酎ハイと同じものを取り出す。

「まだ足りないかしら? 貴女が自分で買うと思ってなかったから私も買ってたのよね。飲む? そう、飲みたいの。じゃ飲ませてあげる」
「もう、やめっ……」

 裕子は先ほどと同じ要領で、志織に酎ハイを注ぐ。口の中にアルミ缶をねじ込む勢いの裕子へ対抗する力は、志織には残っていない。

「ふぅ、こんなもんかしら。いつも飲み会断ってどこ行くのかと思ってたら割と1人で飲んでるみたいだから、今日は私が一緒に付き合ってあげたわ。楽しかったでしょ?」

 もう志織は返事もしない。薬か、アルコールのせいか、意識が混濁しているようだ。いつの間にか漏らしていた志織は、あらゆる液体でぐしゃぐしゃに汚れていた。

「教えてあげた睡眠導入剤、効いてるみたいでよかったわ。まぁトイレの床で寝るのはちょっと辛いけど、冬じゃないから風邪は引かないわよね」

 志織をそのまま放っておき、裕子は着衣の乱れだけ直してトイレの個室を出た。

「汚れちゃったから着替えなきゃ……。じゃあまた会社でね、志織ちゃん。来週から繁忙期になるから休んじゃだめよ」

 異臭漂うトイレの中に、軽快なヒールの音だけが響いた。


 週明けの月曜日、朝礼で社長が志織がしばらく入院すると告げた。なんでも、急性アルコール中毒でトイレで倒れてたところを男性が発見し、病院に緊急搬送されたとのことだ。かなり衰弱していたようだっが、迅速な処置で助かったとのこと。救急車を呼ぶのがもう30分遅かったら危なかったかもしれなかったようで助けてくれた男性に礼を言いたいが、担架に乗せている間に名前も告げず去ったらしい。話を終えた社長が朝礼の終わりを告げても、裕子は少しの間立ち尽くしていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?