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春は写真で愛を重ねたかった。共有したかった。だからフィルムカメラなのだ。

『四月になれば彼女は』を鑑賞した。
そもそも、映画は「何度も見るもの」である。動機はなんでもいい、好きな役者さんが出てるからでも、意図をわかりたいからでも、単純に気に入ったから何度も見るでも、なんならちょっと経ったけど、思い立って見返してみるでもいい。というか、一度見たら「もういいや」となるなら、別に映画じゃなくてもいいんじゃないかなとすら思う。その意味で、「何度も見なきゃ」と思わせるこの映画、素晴らしい映画だと思う。というか、見ないと意図の半分もわからない。気づけない。

そして、相変わらず私の女神、森七菜さんはもう見入る。ずっと見ちゃう。ポップコーンとかいらない。食う暇ない。断言するけど春ちゃんは七菜ちゃんじゃないと成立しない。なぜか? それは、行く先々の風景、空気、接する人、全てに対して森七菜さん自身が真っすぐに向き合おうとできる人で、しかも、彼女自身がカメラでもそれを切り取ることができる人だから。

フィルムカメラは、フィルムに色に反応する薬剤が塗られてて、レンズを通して被写体に反射した光に薬剤が反応して、像が焼きつくという原理だ。その場の光が直接触れている、ともいえる。なので、デジタルよりダイレクト感、その場の風景を写し取ったものという感覚があって、春が言っていた「目に見えないもの」もデジタルより感じられるんじゃないかとも思えてくる。

そんなフィルムカメラに春は自分の気持ち、行きたかったところの空気や雰囲気、そこで感じたことを託した。その写真と手紙という、メールやともすればSNSで済むところをわざわざアナログな方法で送ったのも、より内面に近いものを共有したかったんだろうな。そんな気がする。この作品、デジタルな質感が極力排されている感じがするのだけど、「人自体が究極のアナログ」だから、その人のアナログさを描きたかったようにも思える。

彼女が役の人間として生きているところを見るといつも、それが役としての人間なのか、森七菜という一人の人間の中のそれまで私たちが知らなかった一面を見ているのかがわからなくなる不思議で、でも心地よい感覚に陥るのだけど、今回もそうで、春の不器用さ、不完全さが彼女自身と重なって、胸がギュッとなる。フィクションの人であるはずの伊予田春を、確かに感じられる存在にしてしまう彼女に、写真を通して愛を伝えようとした春のように、映画というものを通して、彼女の愛を我々に伝えてくれようとしている、そんなふうにも感じた。

そうして森七菜という表現者を、またますます私は好きになっていくんだ。あなたが伊予田春という人になって伝えようとした思い、もっともっと受け止めたいし受け止めようじゃないか。あなたのまっすぐな思い、愛を感じたよ。

3月28日 追記
その、七菜さんが演じた「春」という子は、いろんな「春」の意味合いが込められた象徴、シンボルとしての存在感なのかもな、と一日経って思い立った。
「四月」という季節を表す「春」でもあるし、思い通りにはいかなかったけど、自分の中にあった理想とか、こうすればよかったという後悔とか、今目の前にある現実とかがごっちゃになった「青春」のシンボルとしての「春」、ほんとにたくさんの意味が伊予田春というキャラクターに託されていて、それを演じることを任されるだけの信頼が七菜さんにはあるんだなと思うと、なんか勝手に自分も誇らしくなるしうれしくなる。

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