見出し画像

消える少年—ジェンダーをめぐる文化闘争は、深刻化する若年齢男子の教育上の困難を透明化している—

City Journal(米の保守系メディア)の記事抄訳

青い州——私の住むブルックリンのサッカーチームの少女が着ているTシャツのように真っ青な——の経典によると、「未来は女性のもの」なのだそうだ。大学のキャンパス内に限って言えば、それは実現している。
昨今、大卒者の女性率は6割にまで達しており、男性は4割にまで落ち込んでいる。この増加傾向は今に始まったことではなく、1980年代初頭からゆっくりと続く現象ではあるものの、いよいよもって記録的な規模に達しており、注目を集めているものだ。

注目を集めるのは良いことだ。雇用状態の悪化・結婚率の低下・不安定な家庭の増加など、多岐にわたる波及効果を考えれば、男性への高等教育率の下落は、この国の社会・経済的展望を懸念する者すべてに対し、警鐘を鳴らす現象である。
しかし、この問題をさらに深く掘り下げてみると——多くのメディアの記事がそうであるように——大学に焦点を当てた論考は、芯を食っていないことがわかる。
実のところ、教育における女性中心主義の起点をたどると、高校、中学、そしてあの小さな赤い校舎(小学校のこと)にまで遡ることになる。男女の平均IQスコアにそれほど差がないことを考えても、この格差が男性の認知能力の欠如に起因していないことは明らかである。

この系統的問題に気づいた人間は、私が初めてではない。
クリスティーナ・ホフ・ソマーズと リチャード・ウィットマイヤーが、10年以上前に、同じ論点で画期的な本を書いている。しかし、それきり議論は停滞したままだ。
この特殊なジェンダーギャップを分析しようとすると、世界で最も熱い文化戦争のひとつである、セックスとジェンダーアイデンティティをめぐる争いに否応なく巻き込まれる。強力なマイノリティの活動家、教育者、学者が性別二元論を解体——少なくとも曖昧に——しようと邁進する中で、ジェンダーギャップという言葉は、フランスの社会学者が「La différence」と呼ぶ、あるいかつて呼んでいた不都合な「現実」を彷彿とさせるものだ。
しかし、神経学・内分泌学・遺伝学上の要因から、少年と少女はそれぞれのかたちで発達するという事実に正面から向き合わずして、少年を適切に支援し、学業不振のもたらす社会的問題を軽減したりすることなどできはしないだろう。
子どもたちがどんな人称代名詞を選ぼうが、そこにある問題はなくならないのある。

具体的に考えてみよう
小・中学校を通じて、男子は女子よりも成績が悪い。問題行動が多い。ADHDと診断される傾向も、特別支援学級に入り、学業の遅れや停学・退学傾向も強い。つまり高校を卒業することがまず難しいということだ。
実際、男女の高校卒業率の差は、貧困層と中流階級の差分に毛が生えた程度である。大卒率のみならず、修士号や博士号、医学士や法学士においても男子は少数派になっている。

この機能不全は、アメリカだけの特異な現象というわけではない。男子生徒の学業不振は、進歩的とされる北欧諸国 から旧弊的な湾岸諸国に至るまで、普遍的に見られる現象である。OECDの調査では、64カ国を対象とした生徒の学習到達度調査(PISA)に基づき、以下のようにまとめている。

男子生徒は女子生徒に比べ、主要科目の基本的な習熟度が低い。学習に投じるコスト(時間や労力)も少なく、学校に対してより否定的な態度を示している。

The ABC of Gender Equality in Education

先進国において、男子生徒は相対的に成績が低く、大学進学率もふるわない。今日では発展途上国においても、その傾向が強まっている。
2019年のある調査では、ジンバブエ、ケニア、マレーシア、トルコ、イラン、カタール、オマーンなどにおける教育の男女格差の研究が引用されている。もちろん、第三世界の一部ではいまだ、女子は小学校さえ卒業していないことが多いため、兄弟の学歴をしのぐケースは稀である。しかし、その機会さえ与えられれば、少女の成績は常に少年のそれを上回るのだ。

かつて多くの学歴格差を明らかにした、一般論としての文化・経済的特性も、この問題を紐解くための決定的打にはならない。
確かに、教育格差の実態は、人種や階層によっても異なるものだ。高所得層の少年は、ブルーカラーや貧困層の少年に比べて選択肢が多く、最貧困家庭に比して3倍以上の開きがある。
低所得層の子供たち、特に黒人は、シングルマザーのもとで育つことが多い。こうした環境は、少年の問題行動・成績の低下・留年などとの関連が繰り返し確認されている。ロールモデルの不在、情緒不安定、貧困、別離後の家庭不和、あるいはこれらすべてが原因で、父親の不在は少年は成績に大きな打撃を与え、その影響は生涯にわたって続く。

(父親の不在が)少女に与える影響はこれほど大きくはないようだ。この不可解な差異は、あらゆる人口統計学的グループの中で、最も大きな男女格差が黒人の少年-少女間で見られる理由を説明しうるかもしれない。
黒人の男子生徒の学業成績は、ここ数十年の間ずっと、黒人の女子生徒に遅れをとったままだ。黒人の学位取得者の66パーセント、修士号の70パーセント、博士号の60パーセント以上は女性によるものである。
つまり、社会経済的なアドバンテージは女子よりも男子の成績を向上させるが、人種・経済的面ではそれが逆転するのである。
しかし、それでもなお謎は残る。裕福な男子学生も、貧しい男子学生も、同一階層の女子に比べて相対的に成績が低いのだ。

教育のジェンダーギャップを調べるには、まずリーディングから始めるのがよい。
それは別の能力——たとえば科学——に秀でていれば帳消しにすることができるような用済みの能力ではない。テキストを読解し理解する能力は、STEM分野を含む知識経済的な仕事においても必須となるスキルだ。教科書、ひいては研究論文を読みこなすことができなければ、科学を修めることはできない。ペーパーテストを勝ち抜くためには、もちろん問題文を読み解けなければならないし、安全に実験を行うために、警告文の理解も不可欠である。
また、化学物質の流出よりも一段上のレベルの問題がそこにはある。エステバン・アウセホ/ジョナサン・ジェームスによる著名な研究に、〈言語能力は数学能力よりも大学進学率の予測可能性に富んでいる〉というものがある(これについては後述する)。

リーディングは、女子が男子を真に圧倒する領域である。
「言語芸術」における女子の優位性は、学業成績に関連するあらゆる男女格差のデータの中で最大かつ最も持続的な知見であり続けている。
低学年における学生評価では、読解における男女差は、白人と黒人のそれより300%以上大きい。家庭や学校の特性を加味すると、人種格差は大幅に縮小するが、男女格差に変化はない。
後学年の標準的な読解力テストの結果は、それらの評価を裏付けており、女子は常に男子より優れている。フォーダム財団のマイケル・ペトリリ会長は、20代半ばの大卒者のNAEP読解スコアを学生時代に遡って調査した。2013年の大卒者のうち、女子の42%が高スコアを獲得していたのに対し、男子は33%という記録に終わっている。彼らのデータを中学2年生まで辿っても、その差はほとんど一定のままで、NAEPの高いスコアの57パーセントが女子だった。小学4年生の段階でもギャップに変化はなく、高スコアの54パーセントが女子であった。

リーディング能力の男女格差は普遍的なものだ。
2012年のPISA調査では、女子が男子を平均38ポイント(一学年分に相当)上回り、それ以降、PISA調査のすべてのサイクルでその差は一貫していた。また、小学4年生を対象とした別の調査では、50カ国中48カ国で女子が男子を上回り、残りの2カ国では同点であった。
「読書家の女子は大学へ行く、つまり読書家である」このような三段論法を使うことも可能ではある。リチャード・ウィットマイヤーは、『なぜ少年は失敗するのか』の中で、このギャップについて簡潔に語っている。「世界はより言語的になったが、男子はそうなっていない」。

しかしこの格差には、「女の子は本を読むようにできている」というだけでは片づけられない何かがある。
女子は「ソフト的な」あるいは「非認知的」能力に秀でている。「男の子は行儀のいい姉妹に比べ、おっちょこちょいで落ち着きがない」という話は今日では“神話”とされているが、おとなしく座って、注意深く呼ばれるのを待つ、などの傾向は、単なる性差別的な一般論ではないことを、小さな子どもたちを受け持つ教師は身をもって知っている。
また、男子には整理整頓が苦手な傾向もある。これは、不幸にも息子のランドセルを覗き込んだことのあるほとんどの親が証言してくれることだろう。数年前、ニューヨーク・タイムズ紙は、裕福な親が息子のバックパックの整理、宿題の期限、大学への応募を支援するために、1時間100ドルの家庭教師を雇っていると報じた
コーチングを受けた後、ある高校生は驚きの声を残している。「やればできるとずっと思っていたし、(いざやってみると)なぜできないのか理解できなかった。システム化すること、その支援が必要だったんです。課題を期限内に提出することができた。授業の予習もできた。以前にはなかった方法で、整理整頓ができるようになったんです」。

多くの研究が、女子は入学当初から自制心に優れ、やがて男子に差をつけるという仮説を裏付けている。
ペンシルベニア大学のアンジェラ・ダックワースとマーティン・セリグマンは、女子が学力テストに基づく期待値を実際に上回り、男子は非認知能力の弱さのために下回ることを示唆した最初の研究者かもしれない。2013年の論文では、「すべての教科のすべての人種の男子は、ペーパーテストの点数から予測されるような成績分布上にいない」と結論づけている。男子は、「読解、数学、科学のテストで女子と同等に好成績なのにもかかわらず、教師からの評価は低く、非認知能力の面を加味すると、この低評価は本質的に消滅する」。

ブラウン大学のジャヤンティ・オーエンズは、男子の問題行動の平均レベルの高さを4、5歳まで遡って追跡し、他のさまざまな要因を調整すると、26歳から29歳の時点での学校教育におけるジェンダーギャップを部分的に予測できると結論づけた。行動問題を抱える女子の割合はずっと少なく、男子のような長期的な不利益を抱えることはないようだ。「早期の行動問題は、女子よりも男子のアウトカムをより多く予測する」。
何度も言うが、これはアメリカの男子だけに見られる特殊な現象ではない。OECDは、36カ国で女児に優位なセルフコントロール能力のギャップを発見した。

数学に関してはどうだろう。
ほとんどの人は、男子チームの圧勝だと思うだろう。それはある意味正しい。幼稚園の時点で、数学のテストにおいて男子は女子より高い得点を記録している。NAEPSATのような標準的な数学のテストでは、あらゆる人種や民族の男子が女子より優れている。特に、微積分や物理のような最高レベルの数学的推論を必要とする科目でその差が際立っている。『インテリジェンス』誌の掲載論文によると、7年生の男子がSATの数学で上位5パーセント、つまり700点以上を獲得する確率は、同学年の女子の3倍にのぼる。以前よりはるかに多くの女子が数学の上級クラスに入っているにもかかわらず、成績優秀者に占める女子の割合は依然として低いままだ。

しかし、現実ははるかに複雑である。男子の数学の点数は、心理学者が"男性変動仮説"と呼ぶ様相を呈しているのだ。さまざまな能力(IQテストを含む)、興味、性格特性において、男女間に平均的な差は存在しないが、男性のスコアは不釣り合いに高かったり、また低かったりする。1980年代、女子は高等数学の歴史的格差を13:1からおよそ2.8:1まで縮めた。1990年以降、その比率はほぼ安定している。しかし(前述したような)ハイレベルにおけるギャップはまだ存在し、38カ国の国際試験でその傾向は維持されている。(これは、男子がローテールの極端に集中するリーディングテストとは正反対である)。

そのうえ、女子には数学のスーパーパワーがある。
読者諸氏の中には、「数学の授業は難しいよ!」と歌うようプログラムされた悪名高いバービー人形の存在を覚えている人もいるかもしれない。あのバービー人形は、科学や数学の授業がほとんど男子だけの世界だった時代に適合したものだ。やがて、ガールズパワーのメッセージが文化全体に広がり、女子の能力と野心に対する人々の理解が変わるにつれ、この状況も変わっていった。
1992年、マテル社はとうとう、黒歴史とも呼ぶべき数学の苦手なバービーを市場から排除した。2005年には、AP化学、統計学、ミクロ経済学、微積分を履修する学生の男女比は同等になった。州のテストの成績では、女子が上回っている。これも米国だけの話でなく、30カ国の数学の授業において、女子は男子よりも高い成績を修めている。

女子の自己管理能力と学習習慣を考慮すれば、この矛盾は理にかなっている。女子はより熱心に努力するため、習得した概念を新しい題材に応用することで成果を出せる分野では、男子を上回る。一方、純粋な数学的推論では、男子が女子を凌駕する。発達心理学者のコリーン・ガンリー氏は、『サイエンティフィック・アメリカン』誌への寄稿において、数学のジェンダーギャップを以下のように分析している。

より基礎的な数学スキルや、解法が定められている数学の問題には差がなく、場合によっては女子が上回る。

未開の能力、特に視覚的・空間的能力を測定するよう設計されたテストでは、男子に軍配が上がるのである。

過去数十年間、社会科学者やその研究を取り上げるジャーナリストの間では、男女間の生得的な認知や行動に有意な差はない、というのが通説だった。社会化される前の自然な状態では、脳は空白の石板であり、したがって基本的に中性である。子どもは生まれた瞬間から「性別」のある世界、つまり男性と女性にはっきりと分かれた世界を経験することになる。成長するにつれて、それぞれの性に基づく関心や行動、服装、感情表現があることを学び、内面化していく。そうした規範から逸脱した者への扱いは、嘲笑や疎外、いじめに発展するということをすぐに理解する——というものだ。
ジェンダー論者は厳格な社会構築主義者である。彼らの見解によれば、男女のアイデンティティは生物学的に決定されたものではなく、むしろ純粋に社会的で、大部分が恣意的な構築物であるという。ジェンダー研究学科で制度化され、学界に広まり、そこから広く社会に浸透したこれらの仮説は、バチカンにとっての神が創りたもうた性別二元論と同じように、知識階級にとっては確たる真実なのである。

男子の学習状況について研究している社会科学者の多くは、ジェンダーの神話に基づいている。ニューヨーク・タイムズ紙のジェンダー担当クレア・カイン・ミラー記者はこう語る。〈男子が学業で遅れをとっているとするならば、それは「男らしさを押しつけるメッセージ」のせいであるに違いない。家族や制度、ホモソーシャルの文化など、あらゆる局面で彼らが受け取るそのメッセージが、暗黙のうちに反学校的なものであるせいだ〉。
オハイオ州立大学の研究者たちは、「男子にとって好成績は、規範的な男らしさとは相容れないものと見なされる」と主張する。この現象の説明に用いられる「覇権的男性性」という言葉は、「ストイックさ、競争心、支配力、攻撃性」によって特徴づけられるものだ。覇権主義的な男性性を内面化した少年にとって、教室できちんと座って先生(通常は女性)の話を聞き、まっすぐ家に帰って翌日の数学のテストのために勉強するなど、疑いようもなく耐えがたいことなのだ!——

「覇権的男性性」などという局地的な文化論が、ほとんど普遍的といってもいいジェンダーギャップを説明できるかどうかはさておき——研究者は、男子が女子よりも学校の成績に対して無頓着であるという説得力のある主張をしている。遅刻や欠席が多く、宿題に費やす時間も短い。女子は中学生の時点で早々に大学進学に向けた計画を立て始めるようだ。経済学者のシェリー・ラントバーグが2020年に発表した論文では 、男子生徒の意識が低いことが、成績不振の原因であると指摘されている。
2015年のOECDの研究「教育におけるジェンダー平等のABC」では、男子は学校が「時間の無駄」であり、大人になるための準備として役に立たないと考えている可能性が高いということが明らかになった。また、良い成績を修めることに対する満足度も低い。

しかし、その事実をもって、「覇権主義的男性性」が学歴格差の原因であると結論づけられるものだろうか?
それは拙速だろう。明らかな反証が一つある。現代の先進国で最も覇権主義的な男性は、おしなべて高学歴である。

男子のハンディキャップには、より遺伝学的な、ジェンダー論ではしばしば蔑称として用いられる「本質主義的」な説明が適していると考えるのには、相応の(説得力ある)根拠がある。男子の相対的な言葉の遅れは、「覇権主義的男性性」が彼らの心に感染するよりもずっと前の段階から現れているからだ。
平均して、女児は男児より発語が早い。生後16ヶ月の時点で、女児の語彙は平均95語であるのに対し、男子の語彙は25語にとどまっている。男児は言語発達遅滞児の70%以上を占めているのに対し、早い子は30%程度である。
単語を組み合わせ始める時期も、男児の方が平均3カ月ほど遅い。成長するにつれて、男子は失読症や吃音症などの言語障害を発症するリスクが高まっていく。
ジェンダー論者は、〈母親は息子より娘により多く話しかける傾向があるから〉と説明する。しかし、この主張を裏づける論拠は限定的なものだ。〈出生から生後1カ月にかけて、母親は女児の声により多く反応する〉という2014年の著名な研究のサンプルは、33人の早産児とその母親という規模にすぎない。母親の乳児への接し方に性差はないとする研究もあるほどだ。

言語の発達は、女児が男児を凌ぐコミュニケーション形態のひとつに過ぎない、としよう。しかし、生後12ヶ月の男児は、女児に比べて人と目を合わせることが少なく言語発達に関係すると思しき指差しなどジェスチャーの模倣にも堪能ではない。「共同注意」、つまり、養育者と一緒に絵やおもちゃを見ることも得意とは言いがたい。
また、社会的刺激を誤解したり、そもそも受け取ることができない障害である自閉症は、男性に多くみられる。乳幼児期の息子より娘に多く話しかける母親の慣行が、男性のリーディング不振と自閉症リスクの両方を引き起こしたりするものだろうか?
それは、そんなにも普遍的な構造なのだろうか?

オッカムの剃刀は、より常識的な結論を示唆している。ジェンダーに関する最新の科学の多くがこの方向を指し示しているのは偶然だろうか。
神経科学はかつて、アンドロジナス(両性具有)脳という概念に傾倒していたが、ここ数十年間は、性差を示す事例が積み上がるようになった。
これらの研究は、男女の脳は解剖学的構造こそ非常によく似ているが、性ホルモンと性染色体が認知能力の発達に影響を与えるという結論に帰結する。
最も示唆的なのは、女子の脳は男子に比べて早くから接続を確立し、使われていない回路を「間引く」ため、より効率的に働くという説である。

これらの発見を「ニューロ・セクシズム」と呼ぶカウンターは 、予想通り一部の学術誌に現れている。より合理的な反論は、この学問はまだ若く、定説にはほど遠いというものだ。
MRI装置が法外な値段であるため、ほとんどの研究は小規模なものである。いずれにせよ、ニューロイメージングはまだ、脳回路のすべての違いや、変化するさまざまな構造間の相互作用を検出できるレベルには達していない。研究者が画像に見る性差の重要性を語ろうというならなおのことである。
さらに、環境が遺伝子発現をどの程度形成しているのかもわかっていない。例えば、母親の発声の量や音色が赤ちゃんの性別によって変化するとしたら、どのようなメカニズムでが、個々の子どもの脳にどの程度の影響を与えるというのだろうか?

最低限言えることは、男子は女子に比べてゆっくり成長するという昔ながらの考え方は、信憑性のある仮説であると言えるのではないか、ということだ。早生まれの子供たちの入園を遅らせる措置は「レッドシャーティング」と呼ばれ、研究者にとってこの仮説を検証するための有用な臨床実験となった。
米国だけでなく他の先進国でもよく見られることだが、レッドシャーティングによって、たとえば12月31日生まれの生徒と、1月または2月生まれの生徒を比較すること、つまり最年長と最年少の子供の比較ができる。当然のことながら、年長者は年少者よりも自己統制力が高く、より成熟していることがわかった。
レッドシャツの多くが男子生徒であることにもさほどの驚きはない。例えばデンマークでは、男子の5人に1人がレッドシャツであるのに対し、女子のレッドシャツは10人に1人である。

意外だったのは、ADHDの診断や薬物治療に対するレッドシャツの影響である。デンマークの研究では、入学時期を1年遅らせることで「7歳時点での不注意・多動が劇的に減少し」、その効果は少なくとも11歳まで持続すると結論づけている。
カナダで行われた100万人近い6〜12歳児を対象とした研究でも、同様の結果が得られた。12月生まれの男の子(一般的にクラスで一番年下の生徒)は、1月生まれの男の子(ほぼ1歳年上)に比べて「ADHDの診断を受ける確率が30%高い」ことがわかったのだ。さらに、ADHD治療薬を処方される確率は、41%高かった。(同様の比較において、女子のベネフィットはより大きなものとなったが、そもそもの診断可能性がはるかに低い)。
台湾の研究でも、同じことが示されている。

レッドシャーティングには問題もある。たとえば富裕層にしか採れない選択肢ということだ。公立の幼稚園に入れない限り、もう一年分の保育料を払う余裕がなければならない。
また、長期的な影響も不明である。ある論文によると、レッドシャーティングの導入により、男女の学力差が11ポイント縮まることが示されているものの、年長の生徒の高校中退リスクの増加を指摘した研究もある。
一方、子供が少し大きくなるまで就学を先延ばしにすることが、長期的な学力に悪影響を与えるという証拠は見つかっていない。世界最高のシステムと謳われるフィンランドの教育は、子供が7歳になるまで正式な学校教育を受けさせないにもかかわらず、彼らの読解力のスコアは非常に優れている。

少年は、アメリカの公教育の黎明期から、教師や校長にとって不可解な課題であり続けている。
ジュリア・グラントが『The Boy Problem: Educating Boys in Urban America, 1870–1970』で詳述しているように、19世紀後半、移民の家族は新天地で義務教育を受けることに難色を示した。彼らが嫌がるのも無理はない。ほとんどの仕事が高校や大卒資格を必要とせず、男の子の稼ぎに依存していた家庭にとって、学校は時間の無駄に思えたのである。
また、肉体労働を旨とする貧しい地域からやってきた労働者階級の子供たちは、中流階級の規範が反映された学校では周縁化された存在であった。
当時の不登校や非行少年といえば、主にアイルランド系、ドイツ系、スカンジナビア系、そして東欧系の白人である。しかし、20世紀に入って大移動が起こり、アフリカ系アメリカ人の数が増えるにつれて、黒人の少年たちが学校の落ちこぼれになっていった。
現代に至るまで、教室の規律と少年の気質との間にある緊張関係は、多くの点で同一である。

しかし、その緊張を解くことのメリットは、過去よりも現在の方が高い。先進国では、教育と識字はオプションではなく、女性の方がはるかに教育を受けている社会は、社会的にも経済的にも有害な影響を受けるはずだ。
男子はゆっくりと成長し、早期の就学に適していないと理解することは、この問題に取り組む良いきっかけとなるだろう。
また、「有害な男らしさ」と称する冷淡な言説の抑制も期待できる。リチャード・リーブスがその著書『Of Boys and Men』で提案しているように、親や学校は、早生まれや未熟な男児の入学を遅らせることを真剣に検討すべきである。小学生の休み時間を増やすことは、すべての子供たち、特に男の子にふさわしいギフトのよう思える。

幼稚園教育の正しさもまた、検証されるべき課題である。
中学2年生の読解力のスコアに比べれば、それは些細なことに思えるかもしれない。しかし、これらは無関係ではない。1998年と2010年の幼稚園を比較した研究によると、今世紀の教師が入園前および入園後の子供たちに求める学力は、はるかに高くなっていることがわかる。5歳の時点でワークシートや長時間の座学に対応できていない子供たちは、その後の12年間ずっとdiscourageされ、被害を受けることになるかもしれない。多くの学校でフォニックス教育が行われていないせいで、そこで過ごした子供たちが将来、読解に苦労することになるかもしれないのだ。

それらの多くは少年である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?