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「表現の自由」を縛ったら、そこには衰退が始まる。

※TOP画出典:ゆゆ(@hrmy801)



「自由」の天敵は、「苦情」と「私情」


独裁政権の国家(表向きは民主主義のところも)であるあるですが、国民をプロパガンダで思い込ませたり、表現を規制しだしたらそこに自由が生み出す発展は生まれない。
そして、個人のリスク管理や軌道修正も機能しづらくなります。

「あれ?大統領や政権がこんなことを言ったり、こんな行動をしているけど何かおかしくない?」
「やばくね?」
「大統領を変えるか、政権見直した方が良くない?」

みたいな国民による秩序けん制軌道修正ができなくなると、国のトップが暴走しだすと止めることができなくなります。
いつの間にか自国が戦争を始めていて、世界から経済制裁を受けていると気づいた時には遅いでしょう。

かつて日本は戦争をして、かなり痛い目を経験しているのでなんとなく感じ取れるものがありますよね。

隣国で言えば、中国の国内事情は今、あまり良くないです。
国のトップが独裁性を強め、香港の強制併合に続いて台湾併合も視野に入れていることもそうですが、経済面では自国の発展を疑わない国民による不動産投資で、ゴーストタウンがかなり出来上がっています。
(中国不動産市場では約3000万件の売れ残り物件を抱え、8000万人が暮らせるだけの住居が余っている計算で、これはドイツのほぼ全人口に相当するというからかなりやばい)
また、ロシアと同じように世界の資本が徐々に撤退をはじめ出しているので、景気後退は免れない状態になっています。

こういったことは、国家によって外国からの情報がシャットアウトされてたり、言論・表現が規制されると起こりえます。

国家や政権にとって都合のよい情報ばかりに包まれてしまうので、国民は自国の状態を世界規模で俯瞰することができなくなるからです。

自国が間違った方向、衰退の方向に行かないためには、国民が世界規模で俯瞰できること。

これが大事です。
そして国民が世界規模で俯瞰できるようにするには、言論・表現の自由を規制しないこと。
これら自由の天敵は、国家のトップや政権の私情です。


さて、ここまでは国家レベルでの「私情」の話をしてきましたが、ここからは民衆レベルでの「苦情」の話をしていこうと思います。

TVやラジオ番組の内容、広告・CMの内容、PTAだったりで年々多くなっている「苦情」。

苦情って、苦情主が不快だからという理由が大半を占めている(建前は違う真っ当な理由を付け加えてたりするが)ことが容易に想像できるかと思いますが、これも自由の範囲を狭めています。

やり過ぎると、今のTVのように苦情対応し過ぎてつまらないもの、チャンネルを回しても、どこもぱっとしないなんてことになります。
学校の先生も、熱意を持って、個性のある教育ができなくなります。

TVだろうが、広告だろうが、デザインだろうが、教育だろうが、誰かが不快になることはあるでしょう。けれども、誰かが不快になったからといって、誰かにとっては元気になるものだったり、自由な表現ができて救われるものだったりもします。

誰かが不快だからといって、その一部の意見だけでそれを規制していくことは、主観や私情の反映となんら変わりません。


感情をコントロールできない大人が増えている昨今、細かな苦情があちこちで散見されますが(会社生活でも)、それぐらいは別に言わなくてもいいじゃないということは多い。
(なんでしょう、ストレス社会で心に余裕がなく、お互いを思いやる気持ちが欠如してきているのかもしれませんね)

あれはダメ、これはダメ、これは男女差別、セクハラ、パワハラ・・・など、明らかに度が過ぎているもの(大多数の人が違和感と唱えるもの)については、規制は致し方ないと思いますが、それは人である以上 個々の考えや感情の起伏もあるので、ある程度の許容の範囲を持たせておくべきだと思っています。
NGワードばかり増やし続けて見えない壁を作っていったら、上司と部下、先生と生徒、などのコミュニケーションが減り、信頼関係も築けなくなる方向に進むことは今の社会の実情を見たら想像できるでしょう。
(部下を飲みに誘えない上司、新人女性の扱いに困っている男性の教育係、何か指導のために叱責すればPTAから苦情がくる先生、など増えてますからね)

穏やかに、優しく説くべきなんていうのが今の接し方の主流ですが、言うことを聞かない生徒や部下、やってはいけないことをやった場合には、本気で怒ることが必要な場合があります。
ちょっとしたことは説くように指導する、度を越えた場合には感情を出して本気で指導する。
この抑揚があってこそ、本気で怒られた場合には、怒られた側は「あぁ今回のはさすがにまずかったんだな」と反省したりします。
家庭での子育てでも、同じことが言えるのですけどね。


さてここまで、国家の私情、民衆の苦情、上司と部下、先生と生徒の関係、を通して「表現の自由」に触れてきました。
この「表現の自由」に対して規制を強め過ぎたら、国は世界規模で俯瞰できなくなることで衰退し、個性的な思いや創造、発信を狭められるし、コミュニケーションがか細いものになっていきます。

なので、私たちはある程度は「許容の心」を育て、私情や一部の意見で大人が横通しで規制を推し進めるのではなくて、個人がダメなこととそうでないことを判断でき、個人が不快と感じればそこから距離を置く(不快でない人は触れる)、という選択肢を持たせることが大事なことではないかと思います。
それが平等という意味でも、公平な扱いなんじゃないかなとね。




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