序章 デジャ・ヴに悩まされる男

「…まただ」
 一体何度これを繰り返したのだろう。この、合わせ鏡のように無限に続く記憶の重なりの感覚。ニーチャの永劫回帰の教説に触れてからというもの、正志はいわゆるデジャ・ヴに悩まされていた。宇宙が無限の時間を有するならば、いずれある時点と全く同じ状態へとたどりつく。宇宙が因果律に支配されているならば、つまり、過去が未来を決めるのであれば、宇宙の歴史はそこから全く同じことを繰り返すことになるだろう。宇宙とは状態の時間変化であり、状態の変化は因果律が引き起こす。この構図において、永劫回帰はむしろ自明の真理にさえ思える。
「そう、お前はまた『ここ』に来てしまったのだよ」
 永劫回帰の悪魔が囁く。
「お前は永久に『ここ』から逃れられない」
 正志はそれまでにもデジャ・ヴを経験したことは何度もあったが、永劫回帰を知ってからというもの―いや、それは正確には思い出したということだったのかもしれない―デジャ・ヴの強度と頻度がどんどん増していったのだ。強度というのは、その「重なり」の数のこと。つまり、「何度も!」という感覚が増せば増すほど強度は大きいということになる。頻度は、そのままの意味だ。一日に何度もこの強度の増したデジャ・ヴに襲われるのだ。妙な言い回しだが、正志にとって、永劫回帰は日常茶飯事となっていた。いや、もはや永劫回帰とは日常茶飯事のことだったのではないか。いつも同じことの繰り返し…全く同じ意味ではないか! 正志の頭は疲弊しきっていた。
 とはいうものの、デジャ・ヴの内容自体は、至って平凡なものだった。スマホのゲームでレベルが上がった瞬間だったり、大学のゼミで自分の発言が遮られた瞬間だったり。そんな一瞬の隙に、悪魔は現れる。なんでもないはずの日常の出来事の一部が切り取られ、強い既視感(=デジャ・ヴ)を与える。デジャ・ヴになったとたんに、出来事はその深刻度を増す。だって、それは「もうすでに終わったはずのこと」なのだから。不思議と、歯磨きや風呂の時間にデジャ・ヴが来ることはなかった。それは実際に何度も繰り返していることのはずなのに、なぜかデジャ・ヴとはならなかった。だが、そのことは、逆に、今正志を悩ませているデジャ・ヴが単なる日常の繰り返しとは異質のものであり、重要な意味を持っていることを示唆していた。
 そう、出来事が繰り返しているのではない。「時間そのものが繰り返している」のだ。そのことに気づくのに一週間とかからなかった。それほどのスピードでデジャ・ヴの浸食は進行していたのである。だが、時間そのものが繰り返すとはどういうことなのか。繰り返しを計測するためには別の時間軸が必要なのではないのか。正志自身の時間とは別に絶対時間のようなものがあって、それに対する感度が上がったから主観的な時間が繰り返されていることに気づき始めたのだろうか。そもそも、そのような絶対時間など、あるのだろうか。せめて相対論をやっておくんだった…と、大学に入って早々に理系から文転した経歴を持つ正志は一瞬後悔したが、どうせそんなもの役に立たないだろうということは、今度は逆に正志の文系脳の方が主張していた。物理(あるいは科学)の思考は通常の思考とは異なる。そう正志は考えていた。それこそ文系的な表現しかできないのだが、科学の思考は、どこかこう、色あせているのだ。死んだ思考。あるいは思考の抜け殻。この場合真実に近いところをいっているのは、「時間そのものが繰り返している」という最初の思考の方であって、その後ごちゃごちゃと考えたことは形式的な、帳尻合わせの計算に過ぎない。「世界は数式という言葉によって書かれた書物である」だったか、そんなような言葉があったが、そうではないのだ。「世界は世界」なのだ。馬鹿馬鹿しいようだが、このことは正志がこれまで三十年弱生きてきてやっと辿り着いた真理である。要するに、思考内容、いや、もっと端的に言って、「内容」そのものが重要なのだ。生(なま)の思考から離れた思考は文字通り死んでいる。
 ともあれ、二十七歳の正志に永劫回帰の思想を受け入れる器はまだなかった。あのニーチャでさえ、破滅してしまったのだから。(正志は、ニーチャは永劫回帰の思想を受け入れたことによって発狂してしまったのだと直観していた。)

 さて、正志がその後どうなったのかはまた後に明かすこととして、今度は私自身の話へと移ろう。私は誰かって? ふふふ、正志が発見した通り、「私は私」それ以外の何者でもないよ。君たちの聖典にある「私であるところのもの」…この意味に気づけたのは正志だけだったがね。さすが正しい志。我ながらよくできている。…おっと、つい先走ってしまった。語り手は語り手らしく、順を追って語らねばな。

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